プロローグ 私は滅びの魔女です
そうだ。寝よう。
そう決めたのは、伯爵令嬢という身分がありながら身一つで森に捨てられ、疲労から熱を出し、倒れたからだ。
こんな時に備えて野営で生き抜く術を学んでおいたし、薬草採取の山歩きで鍛えておいたつもりなのに、現実にはまったく歯が立たなかった。
冬の地面は冷たくて気持ちがいい。
力なく息をするだけで土が口に入るのはどうにかしたいけれど。
やっとのことで薬草を見つけたものの、すり潰す力ももう残っていないのだから、仕方がない。
そうして重さを増す瞼に逆らうのをやめ、目を閉じかけた時だった。
「なんだこれは」
低い声が降ってきて、かすむ視界に人影が浮かんだ。
レジール国では耳慣れない、ドゥーチェス国の言葉。
ドゥーチェス国の人?
しかし視界がはっきりしてくると、それは違うとすぐにわかった。
空の青を背にしてこちらを覗き込んでいたのは、黒くて長い髪をさらりと垂らし、頭から角を生やした綺麗な男の人。
その人は私の傍でしゃがみ、眉間に皺を寄せ、心底怪訝という顔をした。
「おまえは寝ているのか? 倒れているのか? どっちだ」
答える間もなく、冷静な男の人の声と、どこか色気のある女の人の声が聞こえた。
「陛下。得体の知れないものを触ってはいけません」
「毒にやられているのかもしれませんわ。お触り禁止です」
その『陛下』という言葉に、私の意識は覚醒した。
なんとか目をこじ開けると、屈み込んだ男の人の後ろに二人立っているのが見える。
一人は腰のあたりからふさふさとした毛の長い尻尾を邪魔なものを払おうとするかのようにぶんぶんと振り乱し、一人は頭の上から生えた耳をピンと立たせている。
そうか。私が捨てられたのはただの森じゃない。
ここは獣人が住むというグランゼイル国で間違いないだろう。
だとすれば、ここは魔物も跋扈するという竜王の森。
そしてそれらを統べるのは長年打ち倒す者が現れず頂点に君臨し続けていると言われる竜王であり、陛下と呼ばれたこの人こそがそうであるのに違いない。
いや、本当に?
目の前にしゃがみこんで頬杖をつき、動かない私を木の棒でつんつんしようとしているけれども。
後ろにいた人に木の棒を叩き落とされてるけれども。
こんな感じで竜王なの? と疑問は湧くが、なんか強そうだし、たぶん、きっとそう。
私はなけなしの力をかき集めて、声を絞り出した。
「私は、滅びの魔女……、この国……滅ぶ……、竜王……、……、ゆる……せん……」
私は滅びの魔女と言われていましたが、この国なら滅ぶようなことはないと思います。ですから竜王陛下、森の端っこでかまいませんので、体調がよくなるまで滞在することを許してもらえませんか。
そう言いたかった私の言葉は、どこまで伝わったかわからない。
「ふうん?」と興味深げに私を見た竜王らしき人の目は怒っていなかったから、きっと大丈夫だと思いたい。
けれど、そのすぐ後ろから「この小僧……」「ころすわよ?」という殺気立った声が聞こえて、すぐに楽観的な思考は吹き飛んだ。
しかし残る力すべてをもってしても、「滅びの魔女と言われているけれど滅ぼすつもりはないし、男の格好ではあるけれど男ではないんです」とややこしい弁解などできるわけもなく、私の瞼はどろりと溶けるように力を失ってしまった。
真っ暗な瞼の裏に浮かぶのは、湿気た匂いのこもる暗い部屋。
女であることを否定するように『ルーク』という男の名を押し付け、決して目を合わせることもないままあの部屋に押し込めた父の顔。
私のドレスを着て侍女の後ろからこちらを覗く妹の顔。
見慣れた景色や懐かしい顔が過ぎ去っていくのは、走馬灯なのだろう。
最後に浮かんだのは、両親の代わりに私を愛し育ててくれた母方の祖父母の心配そうな顔だった。
――そうか。
わざわざすり潰さなくても、普通に薬草を口に突っ込んで食べてしまえばよかった。
もっと早く気が付けば、少しは熱も下がって、竜王にもっとちゃんと伝えられたかもしれないのに。
薬を作ることに慣れすぎていたせいで、薬はすり潰さねばならないという思考しか働かなかった。
走馬灯の終わりは、そんな後悔だった。




