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エセ聖女、邪神にスカウトされて巫女になる~魔界の方が生きやすい私は人間失格?~

作者: 成井シル

 黒曜石の神殿。

 灰水晶の祭壇。

 三対六枚の黒い翼を持つ女神像。

 階下にひしめく鎧姿の戦士達。

 彼らの視線の先、壇上には、漆黒の衣装を纏った一人の若い娘。

 彼女は深く息を吸って、大きく声を発した。


「これより、主神ナハトの声を皆様にお届けします」


 神殿中を、異様な緊張感が包む。


「巫女ミルヒ=シュトラーセとやら」


 ステージと階下を繋ぐ大階段、その中腹に立つ獅子頭の戦士がくぐもった声を出す。

 赤いたてがみの頭は獅子だが、首から下は屈強な人間のそれで、どっしりと二足で立っている。


「先に述べたことに偽りはなかろうな。ナハトの啓示を具現化し、我らに強い魔力を宿らせると」

「すぐに分かります」


 獅子頭の双眸は赤く煌々として、ミルヒを射抜いている。

 重く低い声が言葉を紡ぐ。


「戦士のみに立ち入りを許された神殿、そして年に一度の礼拝の式を中断させたのだ。冗談では済まされんぞ」

「もちろん」


 ぎこちなく笑って、ミルヒは祭壇の方に向き直った。

 振り返った勢いで、つけて間もない額飾りがチャリと鳴る。

 漆黒の薄布の内側で、冷たい汗が背中を伝った。


 ふぃ~。

 敵意にも似た疑念が、全身に刺さりっぱなしだ。

 でも、やるしかない。

 ミルヒは跪き、顔の前で指を組んだ。

 ごくりと固い唾を飲みこんで、乾いた口を動かす。


「主神ナハトよ。我が呼び声に応え、彼らに啓示をお与えください」


 癖で『邪神』と口走らないように、細心の注意を払う。


(何? もう? いきなりすぎぬか?)


 妖艶、荘厳にして霊験あらたかな響きが頭の中にこだまする。

 しかし、その響きに似つかわしくない狼狽も伝わってくる。

 ため息をぐっとこらえて、ミルヒは頭の中で言葉を紡ぐ。


(いきなりこんな状況に送り込んだのはそっちでしょうが)

(それはそうじゃが……いざとなると、緊張してしまうのぅ)

(何が緊張ですか。曲がりなりにも神様なんだし、ちゃんとしてください)

(曲がりなりにも、とは何じゃ! 妾は、其方が元居た世界で信奉しておったタークと同等の力を持つ、偉大な神の一柱じゃぞ!)


 頭の中で会話を繰り広げている間にも、神殿には重苦しい静寂が続いている。

 このまま何も起きないでいるのは、絶対にまずい。


(そもそも、自分の声を人々に届けるために、わざわざ私をこの世界に引っ張ってきたんでしょう)

(それはそうなのじゃが……妾は、こういうシチュエーションに慣れておらんからのう)


 後ろで、剣が鞘から引き抜かれた音がした。

 やばい。

 現時点で、この『魔界』の住民から私に対する評価は「神聖な場所に踏み入った不審人物」でしかない。

 これを「古来より崇拝される主神ナハトが遣わした巫女」に変えられなければ、私の命は今日限りだ。


(分かった、分かりました! 私がセリフを考えますから、そのまま言ってください!)

(お、そうか? さすがミルヒ、妾が見初めただけのことはあるのぅ)

(そういうのいいですから! 繋げますよ!)


 必死に言葉を整理し始めたミルヒだったが、先に浮かぶのは「なんでこんなことに」という戸惑いの思いだった。




 ミルヒ=シュトラーセは黒髪に黒い瞳、そして瞳の縁の銀環を持って生まれた。

 体のどこかに円環を持つことは、すなわち、霊力を宿しているということ。

 傷を癒すこと、結界を張ること、離れた場所のものを動かすこと、声なき声に音を与えること――霊力は偉大な才能だった。


 その力の中でもっとも期待される重要なものは、神の声を具現化する奇跡の業だった。

 そのため、円環は善神タークを信奉するクライス教において聖性の象徴とされ、体の一部に円環を持って生まれた者は「聖なる者」として保護され、大聖堂で大切に育てられる。

 ミルヒのように瞳の縁に円環を持つ者は稀で、さらにそれが銀という珍しい色であったことから、彼女に対する期待は大きかった。

 ミルヒは求められるままに努力し、生来の負けん気も手伝って、めきめきと霊力を高めていった。

 彼女を知る者は、口々に『聖女』という言葉を口にした。


 風向きがまるきり変わったのは、15歳の誕生日だった。

 円環を持つ、持たないに関わらず、クライス教の信者は15歳の誕生日に聖別式を行う。

 そこで、誰もが例外なく、神の声を聴く。

 円環を持つ者は自らの力で、そうでない者は司祭の力や聖別された物品を用いて。

 その声は当人の頭に直接響き、自らが果たすべき使命と役割を示唆してくれるのだという。

 ミルヒは、その日、「円環を持って生まれながら神の啓示を受けられなかった者」という史上初の例外になってしまった。


 「似非聖女」の烙印を押された日から、364日が経過した。

 善神タークの啓示は、今日に至るまで聞こえなかった。

 大司教の助力、あるいは由緒正しい聖なる道具を用いても、一言の声も伝わってこなかった。

 古文書に縋って修行に励み、白眼視されるほどに自分を追い込んでも、祭壇の神像は微笑みをたたえるばかりで何も語り掛けてはくれなかった。

 そして、15歳でいられる最後の日。

 ミルヒは特別に許可を得て、独り、通常なら足を踏み入れることの許されない霊山に入った。

 聖女と目された少女に与えられた最後の慈悲、あるいは賭け。

 中腹にある泉の水で清められた純白の衣を纏い、月明かりが差し込む古びた聖堂を訪れ、祭壇の前に跪いた。


「善神タークよ」


 忌まわしい誕生日から始まった、いくつもの痛みが脳裏をよぎる。

 あの日までは、この瞳に宿る銀環は聖女の証だと、誰もが持て囃した。

 その賞賛と期待は、まるごと失望と落胆へと転じた。

 激励はやがて皮肉に、羨望は嘲笑になった。


「わたくし、ミルヒ=シュトラーセに啓示をお与えください」


 声が震えた。

 少なくとも360回は唱えたこの文句が、今となっては呪いのように思われる。


「………………」


 沈黙。

 円環を背にした神像は押し黙ったままだ。

 静寂が目の奥を熱くする。

 涙があふれそうになるのを、ぐっと堪えた。


「――駄目か」


 息とも声ともつかぬ音が、口から漏れ出た。

 ミルヒは自嘲気味に笑い、立ち上がりながら、沸き上がる思いをそのまま言葉に乗せた。


「……何が聖女だか。嘘っぱちじゃない。顔も分からない内に両親から引き離されて、誰かの役に立つことが使命だと信じて、霊力を高められるだけ高めて、その結果がコレか」


 視線が上がっていく。

 その先には、両手で胸の前に円をつくっている彫像がある。

 万人を見守っているとされる微笑みが、嘲笑に見えた。

 怒りと苛立ちが渦を巻いた。


「何よ。そもそも、ありがた~い教義のほとんどが欺瞞じゃない! すべての民が平等だっていうのなら、どうして街角から物乞いがいなくならないのよ。どうして真面目に働く農民達が獣に怯えて税に苦しめられてるのよ。どうして私腹を肥やした貴族と聖職者がつるんで、幼い子供達に悪さをしてるのよ!」


 誰もいない真夜中の聖堂に、ミルヒの細く強い声が響いた。

 残響が、古くも煌びやかな装飾に吸い込まれていく。


 ただ、とミルヒは思う。

 こういう想いは、ずっと心の奥にあった。

 心から神を信じることが出来ない自分に、啓示など聞こえるはずもなかったのだ。


 クライス教の教えに疑念を抱き始めたのは、いつからだったろう。

 始まりがいつだったかは覚えていないけれど、神の言葉を記した聖典も、大司教の荘厳なスピーチも、修道院長の訓示も、年を経るごとに虚ろになっていった。


「大体、みんな神様の声が聞こえたなんて言ってるけど、それだって本当かどうか怪しいわよ。人は見たいようにモノを見るし、聞きたいようにモノを聞くんだもの。みんな、聞いた、ってことにして言い張ってるんでしょ。そうよ、そうに決まってる。じゃないと、私――」


 クライス教の教えによれば、人は皆、何らかの使命を果たすためにこの世界に生まれ落ちるのだという。

 啓示が得られないということは、自分には使命や役割がないということになる。


「私は、この世界に必要のない人間なの――?」


 誰にともなく口を次いだ呟きが、石の床に落ちた。

 続けて、力の抜けた膝が音を立てる。

 石の床にしたたかに体重がかかり、痛みが走る。

 だが、膝の痛みよりもむしろ、頬を伝う熱さの方が鮮烈だった。


 聞こえた、と言い張ればよかったんだろうか。

 聞こえたことにして、もっともらしく振舞って、期待された聖女として生きていけばよかったんだろうか。

 そうして嘘にまみれて、違和感に目をつぶって、世界から目を逸らして。


 ううん。

 無理だ。

 いつか、どこかで耐えられなくなった。


 私が間違っているんだろうか。

 そんなことはないはずだ。

 むしろ、善神と謳われるタークの方が――


(ミルヒ)


 突如として、古びた聖堂に響いた声――いや、違う。

 響いているのは、直接、自分の頭の中でだ。

 驚きながら、ミルヒは咄嗟に膝をつき、目を閉じ、胸の前で指を組んだ。

 人の声じゃない。


「か、神様……?」


 動揺が声を震わせる。

 さっきまでの悪態は、すべて聞かれてしまっていたのだろうか。

 焦りが言葉になって口を次ぐ。


「か、神よ。どうかお許しください。心弱き人の子に、道をお示しください」


(ミルヒ=シュトラーセよ)


 高級なベルベットのような、艶のある、女性らしい声。

 ミルヒは困惑を覚えながら、こくこくと首を振った。

 聞き及んでいた、そして想像していた声と随分違う。

 善神タークは、三対六枚の白く輝く翼を持ち、雄々しい甲冑姿の男性として描かれることが多い。

 啓示を受けたという人達も、口々に、「勇壮で凛々しい声だった」と言っていたが――

 でも、今は、そんなことは問題じゃない。

 ついに神の声を聴くことが出来た、そのことが重要なのだ。

 さらに言えば、自分がついた悪態をどうにか水に流してもらって、啓示を与えてもらわなければならない。

 ミルヒはこれまでに聞いた啓示の場面を、可及的速やかに思い出す。

 神はまず誓いを求め、それから恭順を確認し、それから啓示を与えるのだ。

 先回りして、すべてこちらから言ってしまおう。


「わたくし、ミルヒ=シュトラーセは、貴方の呼び声に応え、敬虔に使命を果たします。我が身命は神のために在り、我が魂魄は神に捧げるべく在ります」


 …………反応がない。

 やはり、聞かれた後で答えなければならなかったのだろうか。

 そもそも、さっきの悪態が致命的だったのかもしれない。

 ああ、神様――って、今の状況だと、私は誰に祈ったらいいんだろう。

 焦燥が全身を走る。


(――二言はないか)


 よかった。

 聞き入れてもらえたようだ。


「もちろんです。神の従僕として、我が生涯を費やします」

(では、魔界の巫女として使命を果たしてもらうぞ)

「はい――はい? マカイ?」

(そうじゃ)


 思考が、混乱と動揺をぎりぎり追い越した。


 マカイって、なんだっけ。

 マカイ――魔界?


 魔界。

 善神タークが治めるこの世界とは別の、邪神ナハトが治める世界。

 聖典によれば、異形の悪魔達が息づく、暗黒の力に満ちた世界だという。

 邪神ナハトは、善神タークと古の時代から争い続けていて、三対六枚の黒い翼をもつ妖艶な女性として描かれることが多い。

 そう。

 妖艶な『女性』として……


「あの――神の御名を、お聞きしてもよろしいですか」

(妾の名か? ナハトじゃ)


 あぁ……やってしまった……


 祈る指を解き、ゆっくり目を開けたとき、ミルヒは元居た古い聖堂ではない場所にいた。

 恐る恐る周囲を見渡す。

 壁が見えない。

 どこまでも、青とも黒とも言えない暗がりが続いている。

 ただ、暗いと感じる空間であるにも関わらず、はっきりと「見えている」感覚はあった。

 不意に気配を感じ、ミルヒは正面を見た。

 ゆら、と影が見えたかと思うと、それはおぼろげながら、人の姿を成していた。

 だが、距離があるせいか、はっきりとした姿はまだ見えない。


「ミルヒ=シュトラーセよ」


 さっきと同じ声。

 艶のある、深い、威厳にあふれた妖艶さ。

 気圧されて、返事が出来ない。

 無意識的に、ミルヒは膝をついて首を垂れた。


「先程の言葉に、偽りはなかろうな?」


 頷いて返すしかなかった。

 首を横に振れば、きっと殺される。

 ただ殺されるならまだしも、聖典によれば、邪神ナハトは残虐、冷酷で、非道を好むという。

 想像も出来ない苦痛を与えられることになるかもしれない。

 膝を折っているにも関わらず脚はがくがくと震え、恐怖で失禁するという話が理解できる一歩手前だった。


「そこまで怯えずともよかろうに――顔を上げよ」


 硬直しそうな首に渾身の力を込めて、顔を上げる。

 闇のように黒い衣を、下から見上げていく。

 次第に見えてきたその容貌は――


「綺麗……」


 我知らず、ミルヒの口から声が漏れた。

 目の前に現れた姿を言い表すのに、他の表現は思いつかず、また、不要に思われた。

 光を放っているかのように艶めく銀色の髪は腰までまっすぐ伸び、その瞳もまた銀色に輝いている。

 あらためて全身を見ると、細身の体は夜色のドレスでシルエットを顕し、世の中の女性すべてが憧れるようなラインをしていた。


「本当に、あのナハトなの……?」

「『本当に』? 『あの』? 何のことじゃ」


 表情を曇らせる銀髪の美女を前に、ミルヒの緊張は急激に高まった。


「も、申し訳ありません。クライス教の聖典で記されている姿とかけ離れていて……」

「述べてみよ。タークは、妾についてどのように教えておるのじゃ」


 逡巡して、意を決し、ミルヒは言葉を次いだ。


「クライス教の聖典によれば――」


 何百回と読み返した聖典だ。

 一言一句、正確にそらんじることが出来る。


「善神タークに相対する存在は、唯一、邪神ナハトである。タークが光明を司り、正義と愛を唱えるのに対し、ナハトは暗黒を司り、憎悪と死を唱える。燃え尽きた灰を塗り込んだ髪は異臭を漂わせ、顔は爛れ、皮膚は焼け焦げている。この世の全ての苦痛を生み出した元凶であり、あらゆる罪を奨励している。善神タークの教えに背く者は邪神ナハトに魅入られ、死して後、暴力と荒廃に満ちた魔界へと誘われる」


 ミルヒは消え入りそうな声で、しかし明確に聖典の記述を口にした。

 私が書いたわけではないんです、と内心で言い訳をしながら。


「……そうか、そうか。つまりタークは、そういう奴なのじゃな。ま、分かってはおったが」


 銀髪の美女の口元には微笑みが浮かんではいるが、目はカケラ程にも笑っていない。


「ミルヒ」

「は、はい……」


 銀色の瞳に射抜かれて、ミルヒは乾いた声を絞り出した。

 ナハトの美しい形の唇が、高速で動き出す。


「其方、タークのことを誤解しておる。いや、誤解させられておる。神界の楽園にいたときからそうであったが、彼奴はとにかく自分を良く見せたがるし、平気で他者を貶める。そのためには嘘も厭わぬ……というか、彼奴の言うことの九割は嘘じゃ。確かに妾の髪は白っぽいし、肌は黒っぽい。しかし、見ての通り、そこまで醜悪ではなかろう? タークの方こそ――……」


 突如として始まった愚痴は、留まるところを知らなかった。


「そもそも、彼奴のどこが善神じゃ。すぐに懸想し、化身となって人の子に手を出し、それが奥方にバレては謝りを繰り返しておる。あちらのほうがよほど悪神じゃ。そもそも、太古の時代から性格が悪い。『邪神』などという呼び名も、妾が語尾に「じゃ」をつけるのを揶揄して彼奴が『じゃ神』などと言い始めたのが発端で――」


 相槌を打つタイミングもないまま、ナハトは続ける。


「『魔界』にしたって、嘘八百じゃ。異形の悪魔達が息づく、暗黒の力に満ちた世界じゃと? 世界に満ちる力が『魔力』と名付けられたから『魔界』というだけじゃ。力そのものに善も悪もない。息づく人々も、其方の姿とは違う者は確かにいるが、外見なぞ善悪とはおよそ関わりのないことであろうが」


 ミルヒは、熱弁する女神の話を聞きながら、真実を整理していった。


 元居た世界と、これから遣わされる世界――魔界には、それほど大きな違いはないらしい。

 例えば、怪物や幻獣といった脅威があり、人々はそれに対抗する日々を送っていること。

 自分が鍛えてきた霊力は、魔界における魔力と同質であること。

 そして霊力も魔力も、その世界を統べる神への信奉次第で強さが大きく変わること。


 一方で、違いもあるようだった。

 元居た世界では霊力を外に出して行使したが、魔界の住民は魔力を肉体に取り込むことで困難に対応してきたこと。

 そのために、姿形が戦闘時には大きく変化するものが多いこと。

 また、魔力を外に出すような使い方は失われ、神の声を聴く術が失われてしまっていること。

 その結果、現在の魔界ではナハトに対する信仰が薄れ、連鎖的に人々の魔力が衰え、外的な脅威に対抗する術が失われつつあること――


「――というわけで、其方には、妾の声を人々に中継して、信仰心を取り戻させるという役割を担ってもらいたいのじゃ。いわば、巫女じゃな」


 違う世界の話だと分かっていながら、ミルヒは心の揺らぎをはっきりと自覚していた。

 自分の役割が欲しいと願い続けた。

 それも、出来れば努力を重ねてきた霊力が活かされるような形で。

 彼女が話した内容は、自分のそれを満たしてくれるものだった。

 しかし、である。


「ひとつ、お聞きしてもいいですか」

「申してみよ」

「なぜ、私が選ばれたんですか?」


 ナハトは穏やかに微笑んだ。

 それはまるで、大聖堂に飾られた聖母の表情のようだった。


「理由は簡単じゃ。其方がタークを嫌っているからじゃ」

「嫌ってなんか……」


 「ない」と続けようとして、ミルヒの口は固まって止まった。

 否定することが出来なかった。

 自分に啓示を与えてくれなかったからではない。

 ずっと、タークという神の教えに対して抱いてきた思い。

 それは疑念を通り越して、確かに、嫌悪の情だったように思われた。


「妾は長いこと其方に目をつけておった。タークはずっと、其方の呼び声に応えて声をかけ続けていたのじゃぞ。美貌も含めたあらゆる性質が気に入られておったようじゃからな。それを、其方自身が聞き入れていなかっただけじゃ。そしてその想いが顕在化したのが契機となって、妾との繋がりがはっきりと出来たのじゃ。タークを嫌う者同士、仲良しこよしというわけじゃな」


 すとんと腑に落ちてしまった。

 欺瞞に満ちた嘘くさい聖典の言葉の主よりも、目の前にいる美しい女神の方がずっと現実的だ。

 信奉すべき相手として畏敬の念が芽生えているのが自分で分かる。

 それどころか、長年連れ添った友人のような親近感を覚えてさえいる。


「分かりました」


 ミルヒの返事に、ナハトはパッと顔を明るくした。

 その顔はあまりにも美しく、青黒い世界を照らすかと思われたほどだった。


「其方なら、そう言ってくれると思っていたぞ。では、段取りを決めるとしよう。まずはそれらしい恰好にするところからじゃな――――――」




(打ち合わせでは、ここからはナハト様がちゃんと話すはずだったのに……神様のくせに、変なところでシャイなんだから)


 思わず、愚痴が浮かぶ。


(聞こえておるぞ。こんなこともあろうかと、魔界の状況や妾のことについて、一通りを伝えておいたではないか。ほれ、早うセリフを考えねば、其方の命が危ういぞ)

(あぁ、もう、分かってますってば。行きますよ!)


「我が声を聞け、民よ」


 神殿中に声が響いた。

 自分の霊力ならナハトの声を音声化出来る――と言われてはいたが、実際に出来て驚いた。

 植物や小動物の声の具現化はしたことがあったが、神の声がここまでのものだとは。

 腹の奥の、さらに下の方を震わせられるような、奥深い声。

 戦士達は咄嗟に指を組み、目を閉じた。

 そうさせるだけの偉大さが、確かに声には満ちていた。

 もっとも、内容を考えているのは本人ではないのだが――ミルヒは懸命に頭を捻り、原稿を組み上げていく。


「永きに渡る魔獣共との戦い、ご苦労である。特に、先に現れた巨獣とも言うべき災難に相対し、矢尽き、刀折れようと、なお拳、爪、牙で戦った汝らの姿には、我が心も震えた」


 神殿のあちこちから、鼻を啜る音が聞こえた。


(ミルヒ、やるではないか。みな、感動して泣いてくれておるぞ)

(状況はナハト様に聞いてましたし、あっちではさんざん聖典を読ませられて、それらしい喋り方はインプットされてますからね)

(ほれ、次じゃ。次は、なんと言えばよい?)

(え~と……)


「魔獣共の勢いは日を追うごとに増している。自らの魔力の減衰を感じていた者も少なからずいたと思うが、今後は妾の其方らの戦いを祝福しよう。存分に力を振るい、世界の安寧のために戦うがよい」


 誰もが感動し、目から涙を流している。

 存在自体があやふやだった偉大な存在の声が聞けているとなれば、無理もないのかもしれない。


(おぅ、おぅ、心地よいのぅ。ほとばしる信仰心が、妾に注ぎ込まれてくるわ。我が民らの魔力も、如実に回復しているはずじゃ。ウィンーウィンというやつじゃの)

(それはよかったです。私は巫女として使命を果たせているっていうことですね)


 強大な力を持った神、そしてその世界に住むいかにも怖そうな人達に認められる流れになっているのを感じ、ミルヒは心から安堵した。

 どうやら、まだ死なずに済みそうだ。


(ミルヒよ)

(はい?)

(ここでひとつ、何かプレゼントしたいのじゃが、アリじゃろうか?)

(ナハト様がそうしたいのであれば、いいんじゃないですか。なにせ、偉大な神様なんですし)

(では……)


「今日の日を記念して、これらを授けよう」


 ミルヒが考えたものではない、ナハト自身の言葉が告げられた。

 灰水晶の祭壇とミルヒの中間、何もない空間に銀色の光が集まり出す。

 光は直視できないほどに強く輝いたかと思うと、弾けて一帯を照らし、後に残ったのは四本の剣だった。

 鍔はなく、握りと刀身の境目には銀の輪だけがある。

 刀身はそれぞれ赤、青、緑、黄で、刃の部分が鈍く輝いている。

 武具に詳しくないミルヒにも、それらが特殊であるとすぐに分かった。

 異様な迫力に満ちた四本の剣は、ふわふわと中空に浮かんでいる。


「これらの剣は、我が力の具現。手にした者は、我が力の一部を己がものとするであろう」


 おお……と、感嘆の声が神殿中に響いた。

 魔獣と戦う力が重視され、それを有する戦士が尊敬を集めるというこの魔界において、強力な武具を手にすることは極めて重要なことなのだろう。

 一本でもよさそうなものだが、四本も創ってくれるとは、粋な神様もあったものだ。


「なお、これらの剣は、我が巫女ミルヒの目に適い、選ばれた戦士に授けられる」


 ――は?


(ナハト様、私、武具には詳しくありません。どの剣が誰に相応しいかなんて――)

(そんなものは適当でよい。重要なのは、其方の元に優秀な戦士達がこぞってくるということじゃ)

(それが、どうして重要なんですか?)

(其方らは、短き生の中で伴侶を求めるものじゃろ。そしてこの魔界においては、強き者を伴侶として選んだ方がよい。ゆえに其方は、集まった者どもから、好きに選ぶがよい。四人も候補を集めれば、一人くらいは気に入るじゃろうし、ま、よりどりみどりというやつじゃな)


 それって、つまり――


(プレゼントって、民にではなくて、私にってことですか?)

(決まっておろうが。大役を果たしてくれた其方に贈り物のひとつも出来ずに何が神か)


 神殿が、さっきまでとは異質の緊張感に包まれ始めた。


「選出の仕方、それぞれの剣の特性については、我が巫女ミルヒに説明を聞くがよい」


 ミルヒは表情を変えないように努力しながら驚く。


(自分で説明するのは面倒くさいし……って、聞こえた気がしたんですけど)

(そ、そんなことはないぞ。其方が巫女としての立場を確立するための、心ばかりの手助けじゃ)

(ふ~ん……)

(なんじゃ、その生ぬるい声は。とにかく、今日のところはここまででよかろう。祭壇の裏側に、巫女のために誂えられた部屋があるゆえ、一息つくがよいぞ)


 ふと視線を移すと、獅子頭の戦士をはじめ、階下の人々の顔つきがまるで変わっているのに気が付いた。

 ナハトへの信仰心が戻り、魔力が満ちているせいもあるだろう。

 だが、明らかにそれ以上に、新たにもたらされた力への興味が見えた。

 興奮しているような顔つきの人もいるから、このまま何もしないでいると、乱闘が勃発してしまいかねない。


「――本日のナハト様の啓示はここまでです。神への信仰を忘れず、皆さん、敬虔に過ごしてください。くれぐれも、逸って競うことのないように」


 ミルヒが告げると、ぴたりと静寂が訪れた。


「欲求に流されて力を誇示する者は、剣を持つ資格を失うと考えてください。それでは、解散を」


 呼びかけに応じて、戦士達は整然と神殿の出口へと向かって行った。

 ずっと前に大聖堂で見た、騎士団の整列や動きよりも遥かに強そうに見えた。


「巫女よ」


 ズシャッ、と重い具足を鳴らして、獅子頭の戦士が歩み出る。

 そして、スッと跪き、首を垂れた。


「先の無礼をお許し願いたい。これからも主神ナハトの託宣者として、我らをお導きくださいますよう」


 豊かな金色のたてがみを揺らして、獅子の頭が視線を上げる。

 その双眸から、先程までの殺気は消えていた。


「気にしないでください。むしろ、神聖な壇上に突如として現れた私を切り捨てないでくださって感謝しています」


 ほっと安心した表情で、獅子頭の戦士は言葉を次ぐ。


「ご要望とあらば、グローセベーア……この国で執政を務めている男を呼んでまいりますが、いかがなさいますか」

「そうですね……ただ、ナハト様との交流で、私もいささか疲れましたので、裏の部屋で少し休みたいと思います」

「承知。時をあらためましょう」


 獅子頭の戦士は、階下に向かって吠えた。

 続けて、それに応えるような咆哮が響く。

 空気が震える。

 ミルヒは思わず身がすくんだが、どうにか平静を装った。


「戦士数名が、入り口で待機します。グローセベーアには私から説明をしておきますゆえ、ご用命の際には彼らにお申し付けください。では、どうぞ奥の部屋でお休みを」

「ありがとう、えっと……」


 ミルヒが首を傾げると、戦士は小さく頭を下げた。

 すると、見る見るうちに豊かなたてがみが縮まっていき、あっという間に人の頭の大きさになった。

 そして顔を上げた彼が口を開いた。


「戦士レーヴェでございます。階級はツークフォーゲルです」

「あ、ありがとう、レーヴェ」


 階級の意味は分からなかったが、雰囲気的にも戦士達のリーダー的な立場の人なのだろう。

 ミルヒが狼狽えたのは、言葉の意味が分からなかったからではなかった。

 彼の容貌が、あまりにも整っていたためである。

 見るからに雄々しく恐ろしい獅子の顔はどこへやら、絵にかいたような美丈夫がそこに居た。

 名乗るために姿を変化させたということは、さっきまでの姿は戦闘用の装いで、こちらが本来の顔ということなのだろうか。


「何か?」

「い、いえ……それでは、休みます」


 ミルヒは祭壇を回り込み、階下からは見えない裏側、神殿の奥へと入っていった。

 こじんまりとした一室に入り、音を立てないように扉を閉める。


 ふぃ~。

 なんとかうまくいった。


(ご苦労じゃったな、ミルヒ)


 ナハトの声が頭に響く。

 何度聞いても心地よい、美しい響きだ。

 それに、純粋に自分を労ってくれている感じが伝わってくる。

 『邪神』などという肩書は、やはり、まったく似つかわしくないように思えた。


「ナハト様も、お疲れさまでした」

(なんのこれしき。こちとら、偉大な神様じゃからな)


 頭の中に、ナハトの笑い声が穏やかに響く。


(さて、これでひとまず立場は確立できたとして、其方は今後の立ち回り方について考えねばな)

「ナハト様の啓示や神託で私の身分は保証されるとして、こっちの世界に慣れなきゃいけませんし」

(……もう一度聞くが、タークの世界に未練はないのじゃな?)


 ミルヒは苦笑した。


「ありませんよ。そのターク様の声が聞こえなくて似非聖女呼ばわりされて、聖堂では孤独そのものでしたから。身寄りだって、両親は存命かもしれないけれど、顔も分からないし」

(いらぬ問いじゃったな。まぁ、今後は妾を母と想ってなんでも頼るがよいぞ――こら、ミルヒ。何が「もうちょっと頼りがいのあるお母さんよかった」じゃ。其方の思考はこちらに駄々洩れなのじゃからな)

「ちょ、ちょっとそう思っただけです。頼りにしてます」

(うむうむ、大いに頼りにするがよい。其方がこれまでに鍛えて得た霊力なら、妾の力をかなり顕在化できるしの。その気になれば先のレーヴェ相手にも、真っ向から戦って組み伏せられるぞ)


 言われて、ミルヒは獅子頭の戦士を思い浮かべる。

 赤い目を光らせた、自分よりも遥かに大きい巨躯。

 一息つく間にかじり殺されそうだ。


「やめときます。それに……」


 続けて頭に浮かぶのは、レーヴェの人としての顔だった。

 たてがみと目の赤さはそのままに、整った目鼻立ち。

 彼の顔に好感を持たない女子は、まずいないだろう。


(中々お気に召したようじゃの。手付に、四本の剣の内の一本を渡してもよいのじゃぞ)

「とっ、ともかく! まずは、衣食住を確保しないとです。剣の説明は、そのあとで聞かせてください。ナハト様の話だと、今、この世界を取り仕切っている国はここひとつだけなんですよね」

(うむ。それを取り仕切っておるのが、先に出たグローセベーアという男じゃな。一休みしたら、入り口の戦士の所へ向かうがよかろう)


 ミルヒはナハトの言葉を信じ、とりあえず部屋で待つことにした。

 はるか昔、古い時代に建てられたという黒曜石の神殿の、巫女のためにつくられた一室。

 窓はなく、おそらく魔力によるものであろう光を放つ灯りが壁に埋め込まれている。

 壁にはほかに、姿見がはめ込まれていた。

 あとは、休むためのベッド、書き物をするための机と椅子、それから空の棚があるだけで、他には何もない。

 ベッドも、布団の類は敷かれておらず、ただ濃い色の骨組みがあるだけだった。

 そういえば、とミルヒは思い至った。


「ナハト様って、破壊と創造を司っているんですよね」

(うむ)

「パパっと、食べ物を生み出せないんですか? さっきの剣みたいに」

(……其方、案外と図々しく厚かましい性格なのじゃな。普通、もうちょっと畏まったりへりくだったりするものではないか?)

「だって、この巫女の衣装もアクセサリーも、ここに送られる前に居た空間であっという間に創ってくださったじゃないですか」


 魔界では黒が神聖な色じゃ、とナハトはあっという間にミルヒの衣装を変えた。

 額や腕、指に装飾品がつけられたのは分かっていたが、今、姿見を見てみると化粧も施されているのに気づく。

 一瞬でこんなことが出来るのなら、なんでも創り出してもらえそうに思えた。


(出来んことはないがの。先にも言ったとおり、基本的な仕組みは其方が元居た世界と変わらんから……)

「楽を覚えて堕落すれば、霊力が失われるっていうことですね」

(うむ。さすれば、妾との繋がりも弱くなるであろうな)

「なるほど……向こうでしていたように、真面目に生きなきゃダメってことですね」

(まぁ、其方がしていたような、極端に己を追い込むような鍛錬まではせずともよい。其方が元々望んでいたように、他者のためになるような生き方をすれば十分じゃろ)


 響く言葉があたたかい。

 鏡の中の自分が、自然に笑えているのに気づく。

 こんな風に穏やかに笑えたのは、どれくらいぶりだったろうか。


「ナハト様」

(なんじゃ?)

「あらためてになりますが――私に声をかけてくださって、ありがとうございました」

(こちらこそじゃ。其方が巫女になってくれて、妾は嬉しいぞ)




――こうして、ミルヒ=シュトラーセは、偉大なナハトに仕える巫女として魔界の地で生きていくことになった。

 『火葬』『霧雨』『雷鳴』『旋風』の名を冠する四本の剣の授与に始まり、ミルヒは魔界の繫栄に貢献していく。

 だが、彼女は生涯驕ることなく、敬虔な心でナハトに尽くしたという。

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