私に婚約破棄しようとしてきた王子が、階段から落ちて意識不明になりました【コミカライズ決定】
「アリエル……あのね、フェリクスがあなたとの婚約を破棄したいって言ってるの」
「……え?」
目の前に立つ幼馴染のドロテは、私から視線を外したまま申し訳なさそうに言った。
波打つピンク色の髪で顔を隠すように、顎を引いて恐縮している様子だ。
婚約破棄? フェリクスと私が?
……そう。とうとうその時がきたのね。
驚いているものの、どこかすぐに受け入れている自分がいる。なぜなら、いつかはこんな日がくるとわかっていたのだから。
今日私を王宮に呼び出したのは、それを言うためってわけね。
わざわざドロテまで呼んで先にそれを伝えさせるなんて、本当に性格が悪い王子だわ。
「ごめんね、アリエル。私……2人のことを応援していたのに、こんなことになって」
「いいのよ。私とフェリクスは昔から喧嘩ばかりだったし、元々合わないのよ。……ドロテが彼と婚約するのでしょう?」
ドロテは目に涙を浮かべ、口を閉じたままコクンと頷いた。
「本当に……ごめんなさ……」
「謝る必要はないわ。最初からそうしておけばよかったんだもの。私とフェリクスが婚約したのがそもそもの間違いだったのよ」
「……フェリクスが、広間の階段のところでアリエルを待ってるわ」
「わかったわ。教えてくれてありがとう」
ドロテにニコッと微笑むと、私はそのまま王宮の広間に向かって歩き出す。
私に婚約破棄を申し出ようとしているフェリクスに会うために──。
私、ブランシュ公爵家の長女アリエルと、ドロテ公爵令嬢、そしてこの国の第一王子であるフェリクス殿下は幼い頃からの友達だ。
気が強く素直じゃない私と性格の捻くれているフェリクスは、昔から喧嘩ばかりしていた。
すぐに言い合いになる私とフェリクスを、穏やかで優しいドロテが間に入ってなだめる──というのが私達のいつもの流れだった。
5年前……私達が13歳だった時に、私とフェリクスの婚約が決まった。
「なんで私達が!?」
それが第一声だった。
仲の良いドロテではなく、いつも喧嘩ばかりの私が選ばれた理由はわからないけど……正直、心のどこかで喜んでいる自分がいた。
だって私はフェリクスのことが好きだったから。
フェリクスの婚約者には絶対にドロテが選ばれると思っていたわ。まさか私が彼の婚約者になれるなんて……!
そう思っていても、とても態度には出せない。
フェリクスの前では彼を好きだなんて態度は出していないし、言葉に出すなんてもってのほか。
それは彼も同じで、婚約をしたからといって急に優しくなるわけでもなく、私達は婚約者になっても今までと何も変わらず喧嘩ばかりだった。
「なんで紫のドレスを着ているんだよ!? 今日は俺に合わせてブルーにしろって言っただろ!」
「聞いてないわよ! 私だって数日前に紫だと伝えたはずよ!」
「聞いてない!」
「そんなはずないわ!」
「まぁまぁ。2人とも落ち着いて〜」
ドロテがそう言うのが喧嘩終了の合図のようになっていた。
お互いに意見を譲らないため、誰かに止めてもらわないと終わらないのだ。
いつかは私も素直にならなきゃいけないのに……フェリクスを前にすると、どうしても喧嘩腰になってしまうわ。
そう反省するようになった頃から、ある違和感に気づき始めた。
フェリクスとドロテが、昔よりも親しくなっているような気がするのだ。
自分のいない時にもよく2人で会っている。
ドロテにはフェリクスが怒ることはないし、いつも優しい笑顔を見せている。
あきらかに以前とは違う2人の雰囲気に、私は嫌な予感がしていた。
私にはいつも睨みつけてくるくせに……。
フェリクスはやっぱりドロテと結婚したかったのかしら……?
ピンク色の髪で可愛らしいドロテと違い、私は銀色のストレートの髪に薄い紫色の瞳──可愛いというよりは、冷たく怖い印象を持たれやすい。
男性に人気があるのは、もちろんドロテだ。
フェリクスがそんなドロテに好意を寄せていると確信したのは、彼女の誕生日だった。
眩しいくらいに輝くピンク色の宝石が付いた可愛らしいネックレス。ドロテにお似合いのそのネックレスは、フェリクスからの贈り物だと言っていた。
こんなに可愛いプレゼントを贈ったのね。
……数日前にあった私の誕生日には、何もくれなかったのに。
フェリクスの中で、ドロテは私よりも大切な存在なんだ。
それがはっきりとわかった。
同じ公爵家の令嬢なのだから、結婚するのはどちらでもいいはず。
何かの間違いで私が選ばれていたけれど、ここまで気持ちがはっきりしているのならいつかは言われる日がくるかもしれない。
『アリエルとの婚約をやめて、ドロテと結婚したい』
そう言われる日がくると、覚悟していた。
だから大丈夫。
泣き喚いたり、すがったりなんかしない。醜態を晒すことなく、その言葉を受け入れるわ。
コツッ……
この角を曲がったら、もうフェリクスの待つ階段が見えてしまう。
私は大きな柱の横で一度立ち止まると、大きく深呼吸をした。ドキドキと速まる鼓動のせいで、冷静を保ちたいのにどうしても落ち着かない。
大丈夫。大丈夫よ、アリエル。
前向きに考えるのよ。
フェリクスは、私が初めて勇気を出して贈った刺繍のハンカチにも、何も反応してくれなかった男よ。お礼どころか、一切触れてもくれない。そんな冷たい男なのよ。
婚約破棄できてよかったじゃない。
そうよ。もっといい男性は他にもいるわ。だから大丈夫よ。
「ふぅ……」
ゆっくり息を吐いて、グッと手を握りしめる。
覚悟を決めた私は、通路の角を曲がり広間に出た。まだ少し距離はあるものの、大階段の中央に人が立っているのが見える。
長身で黒髪の王子……フェリクスだ。
彼は私に気づくなり、手すりに寄りかかっていた体をピシッと立て直していた。これから大事な話をされるのだと、いやというほど伝わってくる。
ああ……このまま彼の言葉を聞かずに逃げてしまいたいわ。
そう思いながらも、足は確実に彼に近づいていく。
もう何を言われるのかわかっているけれど、素知らぬ顔で彼に話しかけた。
「こんな場所に呼び出すなんて、どうしたの?」
「……大事な話があるんだ」
いつもはもっと喧嘩腰のフェリクスが、どこか元気のない様子。気まずそうに目を泳がせながら、小さな声でそう呟いた。
意外ね。
少しは私に対する罪悪感もあるみたい。
「そう。それで、大事な話ってなんなの?」
私は階段の途中で足を止めて、まるで何も感じていないかのように冷静にそう問いかける。
その質問で覚悟を決めたのか、フェリクスが真っ直ぐに私を見つめ返してきた。
綺麗な黄金色の瞳に見つめられて、心臓がドキッと跳ねる。
「アリエル。その……」
……嫌。
「急な話で悪いが……」
嫌。それ以上言わないで。
「俺達、婚約を解消しないか?」
「…………っ!」
聞きたくない!
目をギュッとつぶり、その場から離れようと勝手に足が動いた──が、少し後ろに下がってしまったために階段から足を踏み外してしまった。
体が後ろにゆっくりと倒れていく。
あ……落ちる。
「アリエル!!!」
フェリクスの叫び声が聞こえたと共に、彼が私に向かって手を伸ばしてきたのが見える。階段から私の足が完全に離れた時には、私はフェリクスに抱きしめられていた。
え!?
ドダダダ……ドサッ
体に走る衝撃。でもそれは想像していたよりも痛みがなく、打ちつけると覚悟した背中には何かにぶつかった感覚すらない。
それは私がフェリクスの体の上に乗っており、彼が私の代わりに階段から落ちたのだとすぐに理解した。
私を抱きとめた彼は、そのまま体を半回転させて自分の体を階段に打ちつけたのだ。
「……フェリクス!!」
床に寝転がったフェリクスは意識がなく、まったく動かない。
胸に耳を当てると心臓が動いているのがわかった。生きていることにホッとしつつ、大声で助けを呼んだ。
「誰か!! 誰か来て!!」
叫んだものの、誰にも気づかれないかもしれない。自分で直接助けを呼びに行かなくては。そう思った瞬間──
「アリエル」
「!! ……フェリクス! 気がついたの!?」
フェリクスに名前を呼ばれ、すぐに横になった彼に視線を向ける。
しかし、そこには先ほどから何も変わっていない状態のフェリクスがいるだけだった。
たしかに声がしたのに……! 空耳?
「アリエル……」
空耳かと疑った時、またフェリクスの声がした。
彼は目の前で横になっているというのに、なぜか背後から──。
「……え?」
「アリエル。これはどういうことだ?」
振り向くと、そこには意識のしっかりとしたフェリクスが立っていた。自分の両手を信じられないものを見るような目で見ている。
それもそうだろう。
彼の体は、なぜか半透明に透けているのだから。
「……フェリクス?」
「なんで俺……そこにいるんだ? 俺は……死んだのか?」
フェリクスは横になっている自分と半透明の自分の体を交互に見ながら呟いた。
ハッとしてもう一度胸に耳を当ててみると、トクットクッと心臓の音が聞こえてくる。
よかった! 死んでない!
「生きてるわ!」
「生きてる? じゃあ……なんで……」
「フェリクス……これは一体……」
その時、遠くからバタバタと足音が聞こえてきた。
誰かが助けに来てくれたのだと気づき、広間の入口に視線を向ける。
「こっちです! 早く!」
「ドロテ!」
ドロテが必死に先頭を走りながら、数人の使用人や騎士を連れて広間に入ってきた。みんな倒れているフェリクスに気づき、さらに足を早めて駆け寄ってくる。
「アリエル! フェリクスは!?」
「私を庇って階段から落ちて……意識がないの。でも、そこに──」
「お願いします! フェリクスを助けて!」
使用人達は「殿下!」と声をかけながらフェリクスの様子を確認し、彼を運ぼうと忙しなく動いている。
ドロテも真っ青な顔でフェリクスに声をかけ続けているが……誰も私の後ろに立っている半透明のフェリクスを見ようとしない。
どうして誰もこのフェリクスに気づいていないの?
それはフェリクス自身も同じように感じたらしい。
普段よりも大きな声で彼が叫んだ。
「俺はここにいる! これは一体どういうことなんだ!?」
しかし、その質問に誰も答えないどころか誰も見向きもしていない。
うっすらと感じていた疑問が確信に変わる。
みんな、このフェリクスが見えていないんだわ! ……どうして!?
私にだけ見えている。
私にだけ聞こえている。
……なぜ?
呆然と立ち尽くすフェリクスと、目が合う。彼も私と同じことを考えているのだとすぐにわかった。
自分のことが見えているのは、私だけだと──。
詳しい説明も何もできないまま、意識のないフェリクスは運ばれていってしまった。
半泣き状態のドロテもそれについて行ったが、私だけ(正確には半透明のフェリクスも)この場にポツンと残されている。
「なんなんだ……この状態は。俺は一体どうしてしまったんだ? これは幽霊というやつなのか?」
「生きているんだから、幽霊ではないわ」
「じゃあなんなんだ!?」
「もしかして、生き霊……というやつではないかしら?」
「生き霊!?」
頭の片隅に浮かんでいた言葉を伝えてみると、フェリクスはギョッとした顔で私を見下ろした。
意識のないフェリクスは心配だけど、目の前でこう元気に話されているとどうにも真剣に考えていられない。
「……とりあえず、どうしてこうなったのか調べないといけないわね。体に戻ったら意識が戻るのかもしれないし急がないと。王宮の図書室に行って……」
「……俺の容体は確認に行かないんだな」
「え?」
拗ねたような声に驚き顔を上げると、フェリクスがジロッと私を睨んだ。
「お前は昔からそうだったよな。俺が高熱で倒れても、見舞いに来るのはドロテだけ。お前は一度も見舞いに来たことがなかった」
「何を……」
「本当に冷たい女だよ、お前は」
はあ!?
見舞いに来なかった……って、それはあなたが私だけ部屋に入れてくれなかったからじゃない!!
「行ってたわ! 私は部屋に入れないと言ったのはあなたでしょ!?」
「……そんな嘘をつくとは思わなかったよ。まぁ、いい。早くこの現象について調べよう」
「嘘じゃな……!」
私の反論を聞く気がないのか、フェリクスはスタスタと歩き出す。
なんなのよ!?
なんで私が嘘を言ってることになるわけ!?
私には立ち入り禁止だと言って、ドロテしか部屋に入れなかったのはフェリクスじゃない!
もっと言い返したいが、今はそれどころではない。
いつ容体が急変するかわからないのだから、早くこの状況について調べるのが先だ。
私は歯をグッと噛み締めて、フェリクスのあとに続いて歩き出した。
「ダメだ……俺は物に触れないらしい」
そう言うフェリクスの手が、棚に並んだ本を掴めずにスカッとすり抜けている。
「私が持つから大丈夫よ。何か気になる本があったら教えて」
「……なんだかアリエルが親切なセリフを言うと気味が悪いな」
「どういう意味よ!」
静かな図書室で私の声が響く。
ハッとして口元を手で覆うと、フェリクスがニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
このフェリクスが他の人には見えないってことは、周りからは私が1人で喋ってるように見えるってことよね? 気をつけないと、頭がおかしくなったのだと思われてしまうわ!
「……とりあえずそれっぽい本を数冊持ったから、中身を確認してくるわ」
小さな声でフェリクスにそう伝えるなり、私は空いた席に座り分厚い本のページをめくった。
霊とか不可解現象について書かれているその怪しい本は、普段なら絶対に手に取ったりしないものだ。
死んだはずの人間が夜に──って違う違う違う!!
これじゃないわ!!
パラパラ……
誰もいない部屋で突然──ってこれも違う!
えっと、他には……
「アリエル」
「きゃあっ!!」
突然背後から声をかけられて、思わずビクーーッと過剰反応してしまった。
振り向くと、目を丸くして私を見ているフェリクスと目が合った。驚いたその顔は、だんだんとニヤけ顔に変わっていく。
「何怯えてるんだよ」
「お、怯えてなんかないわよ!」
「どう見ても怯えてるだろ。怖かったのか?」
「違うから!」
たとえその通りだとしても、ニヤニヤしているフェリクスに対して素直に認めることはできない。
私が怖がりだと知ったなら、この男はこれから先もずっとこの件でバカにしてくるに決まっている。
「何か見つかったか?」
「今探しているけど、まだそれっぽいものが……ん?」
本に目を落とすと、『体と意識が離れて』という一文が目に入った。
「あったわ!」
「えっ!」
2人で本を覗き込み、私が指した部分をお互い頭の中で読んでいく。まぁフェリクスは声に出しても私以外には聞こえないのだけど。
……やっぱり『生き霊』ってやつで合っているみたい。
『死を覚悟した瞬間、何か現世に強い未練が残っているとその精神の塊だけが体を離れてしまうことがある』……ということは、フェリクスは何か未練があってこうなっているということ?
隣に立っているフェリクスをチラリと見上げると、気まずそうな顔をした彼と目が合う。
その顔を見て、ここに書かれていることが事実なのだとわかった。
未練って、きっとドロテのことよね。
やっと私と婚約破棄してドロテと結婚できるって時に、こうなってしまったんですもの。
「ドロテのためにも、絶対に元の体に戻らないといけないわね」
「あ? ああ。ドロテもかなり心配していたみたいだからな。でも別に体に戻るのはドロテのためだけじゃないぞ」
「……そう」
何よそれ。
私と婚約破棄したらドロテと婚約するって知ってるんだからね!?
「お前は……俺の意識が戻らないほうが都合がいいんじゃないのか?」
「はあ? 私のことをどんな非道な女だと思ってるのか知らないけど、そこまで薄情じゃないわよ」
「だって、俺がいなければお前は堂々とアランに会えるし結婚だってできるだろ」
「………………は?」
想像もしていなかったことを言われて、一瞬頭の中が真っ白になってしまう。
まるで知らない外国語を話されたかのように、何を言っているのかまったく理解できない。
アランに会える? 結婚??
アランって、騎士団に所属してるあのアランのこと?
え? 結婚って何? 誰と誰が? フェリクスは一体何を言っているの?
アランというのは、私達と年が同じ侯爵家の次男だ。
明るく穏やかな性格で、学園に通っていた頃はそれなりに仲がよかった。今でも会えば軽い世間話をする程度の仲ではあるけど、結婚だとかそんな話は出たことがない。
それもそのはず。
アランにはちゃんと婚約者がいるし、私達はお互いをただの友人としか思っていないのだから。
フェリクスはなんの話をしているの?
「アランがどうかしたの? 結婚ってなんのこと?」
「とぼけなくていい。俺は全部聞いているからな、お前とアランの関係を。一応俺と婚約している状態だというのに……」
ムッ
フェリクスが何を言っているのかは理解できないけど、私とアランのことを何か誤解しているというのはわかった。そして、自分のことを棚に上げて私を責めているということも──。
自分だってドロテと婚約の約束をしているくせに!!
「関係って何? 何を言っているのかわからないわ。それに、結婚というならそれはフェリクスのほうでしょ! 私との婚約を破棄してドロテと婚約しようとしているじゃない!」
「はあ!? ドロテと婚約ってなんの話だよ!?」
「私はちゃんと知っているんですからね! 誕生日だって、私には何もくれなかったのにドロテにだけあげてたし。わかりやすすぎるわ」
「はあ!? 俺はちゃんと渡しただろ! お礼も何もなかったけどな」
「もらってませんけど。それに、お礼も何もなかったのはそっちじゃない! あの刺繍のハンカチ、結構がんばったのに……!」
「刺繍のハンカチ? もらってないぞ。ドロテからはもらったが……」
「あら、そう。ドロテのは受け取ったけど、私のは受け取らなかったってことなのね。まぁ私との婚約を破棄しようとしたくらいドロテが大事だってわかっているわよ」
「はあ? 何言って……婚約を破棄しようとしたのは……!」
「アリエル・ブランシュ!!」
!?
フェリクスと言い合いをしている時、突然私の名前を大声で呼ばれた。
公爵令嬢である私を敬称をつけずにフルネームで呼ぶなんて、なかなかないことだ。それだけで何か良くない理由で名前を呼ばれたというのがわかる。
声のしたほうを見ると、王宮騎士団の騎士数人と王宮の執事、そしてドロテがこちらを向いて立っていた。
「アリエル・ブランシュ! あなたをフェリクス殿下殺害未遂の嫌疑で身柄を確保いたします」
「え!?」
フェリクスの殺害未遂!? 私が!?
私の隣にいるフェリクスが「違う!」と叫んでいるが、もちろんその声は届いていない。
なんの冗談かと言いたいけれど、私に向けられている軽蔑の眼差しを見ればこれが冗談ではなく本気なのだとよーーく伝わってくる。
このままでは捕まってしまうわ! なんとしても誤解を解かなきゃ!
「誤解です! 私はフェリクス殿下を殺そうなんてしていません!」
「ではなぜ殿下はあの状態に?」
「それは……足を滑らせた私を庇ってくれたからです。フェリクス殿下は私の代わりに階段から落ちて……」
「嘘ですね」
「!? う、嘘じゃありません!」
状況を説明しているというのに、執事は私の言い分をまったく聞き入れる様子がない。私の言葉は嘘だと完全に思い込んでいるようだ。
「実は、目撃者がいるのですよ。アリエル・ブランシュ」
「目撃者?」
その時、下を向いたまま黙っていたドロテに視線が集中した。
今にも泣き出しそうな顔のドロテは、まるで勇気を振り絞るかのような必死な顔で私を見た。
「私よ、アリエル。あなた達のことが気になって、こっそり見ていたの」
「ドロテ……?」
「そして見てしまったのよ。あなたが……フェリクスを階段から突き落としたのを……!」
「えっ……?」
ドロテはギュッと目をつぶり、震える手を自分で包み込むようにして両手を握りしめている。その切羽詰まった様子は、どこから見ても事実を言っているようにしか見えない。
ドロテ? 何を言っているの?
「違うわ。もしかして、ドロテにはそう見えていたの? 私は殿下に庇ってもらって……」
「ごめんね、アリエル。でも嘘はいけないわ。アリエルのためにもフェリクスのためにも、本当のことを言わなきゃダメよ」
「本当のことよ」
「……アリエル。残念だわ。あなたなら、ちゃんと正直に言ってくれるって私……信じていたのに」
ポロポロと涙を流すドロテを、騎士の人達が同情するような目で見ている。
そして憎い敵でも見るような目を私に向けてきた。
……どういうこと?
ドロテはなんでこんな嘘をついているの?
呆然としている私の隣では、同じく呆然として言葉を失ったフェリクスが立っている。
嘘をついているのか誤解しているだけなのかの判断がつかず、戸惑っているようだ。
しかしそんな間にも、どんどんと騎士の1人が私に近づいてきた──。
ガシッ
少し乱暴に腕を掴まれて、痛みで顔が歪んでしまう。
「一緒に来ていただけますね?」
「あの……」
「アリエル!!」
隣でフェリクスが叫ぶが、もちろん騎士には聞こえていない。
私の腕を掴んでいる騎士の手に自分の手を伸ばすが、触れられずにスカッと素通りしてしまっている。
「くそっ! 誤解だ! わざとではない! アリエルを放せ!!」
このフェリクスの声がみんなにも聞こえたら……。
でも、今はそれに頼っていては何も解決しないわ。私が自分でちゃんと誤解を解かなくては!
そうは思っても、今ここにいる人達は誰も私のことを信用していないし聞く耳ももってくれない。
別の誰かに説明するためにも、今はおとなしく捕まったほうがいいのかもしれない。
私は背筋をピンと伸ばして立ち上がり、堂々とした態度で返事をした。
「はい。行きます。……ですが、私はフェリクス殿下を殺そうとしていません。それは否定し続けます」
「……いいでしょう。詳しいお話はあとで聞きましょう」
「アリエル!!」
フェリクスが私を呼んでいるけれど、振り向いたり返事をすることができない。誰にも見えないフェリクスに対してそんなことをしたなら、私は頭がおかしくなったと認定されてしまうからだ。
無視するのを心苦しく思いながら、私はフェリクスを見ないまま歩き出した。
冷えきった薄暗い牢屋の中。
ボロボロの小さな椅子に座った私は、ふぅ……とため息をついた。
公爵令嬢である私が、こんな場所に捕らえられる日がくるなんてね。
捕まることを覚悟はしたが、まさかいきなり牢屋に入れられるとは考えていなかった。
これはもう確実に殺人犯扱いである。
「どうしよう……」
「おい! 何こんな場所に入れられてるんだよ! もっと抵抗しろよ!」
「…………」
なんでフェリクスがここにいるの?
「うるさいわね。なんであなたもここにいるのよ」
「俺と話せるのはアリエルしかいないんだから仕方ないだろ」
「はいはい。見えるのがドロテじゃなくて残念だったわね」
嫌味っぽくそう言うと、フェリクスは釣り上げた眉をピクッと反応させた。
「だからなんでそこでドロテが出てくるんだよ! お前こそ、ここにいるのはアランのほうがよかったとか思ってるんだろ!?」
「どうしてここでアランの名前が出るのよ!? 彼がなんの関係があるっていうの!?」
「それは──」
その時、牢屋の前に1人の騎士が現れた。
私を心配そうに見ているその騎士は、まさに今話に出ていたアランだ。
フェリクスが「ほら。俺の言った通りだ……」と少し落ち込んだような声で呟く。
「アリエル。大丈夫か?」
「アラン。どうして……」
「ドロテに聞いたんだ。フェリクス殿下を階段から落としたなんて嘘なんだろ?」
「もちろんよ!」
私達が話している間、フェリクスが恐ろしい形相でアランを睨みつけている。そのあまりにも黒い闇のオーラに、アランがフェリクスを見えていなくてよかったと心底思った。
「そうだよな。アリエルがそんなことをするわけないよな。あんなに殿下を慕っていたのに……」
「え」
「アアアアアラン!!!」
ちょっと!? 何を言う気!?
穏やかなアランはやけに観察眼があり、誰にも気づかれなかった私のフェリクスへの想いもすぐにバレてしまっていた。誰にも言わないでと言っておいたけれど、今この場所はアランにとっては私しかいないのだから、話される可能性がある。
フェリクスの前で余計なことを言われたら困るわ! ……って、あっ!!
「おい、アラン。今の話をもっと詳しく話せ」
いつの間にか牢をすり抜けてアランの真横に立っていたフェリクスが、真剣な表情でアランに詰め寄っている。──もちろんその声は聞こえていないが。
フェリクスってば! 何やってんのよ!
……あ。でも、フェリクスは私とアランのことを変な誤解しているみたいだし、ここはその誤解を解くチャンスかも?
って言っても、私の本音をバラされるわけにはいかないけど!!
「あの、アラン! 婚約者のマリーはお元気?」
「え? なんだよ、突然。元気だけど……今はそれよりもアリエルのほうが大変な──」
「たしか来年結婚するって言ってたわよね? 式には私も呼んでね!」
「あ、ああ。それはもちろん……って、だから今はそんな話をしてる場合じゃ──」
「私は大丈夫よ。ドロテとちゃんと話せれば、誤解は解けるもの。だから安心して」
「そうか? なら……また来るよ」
「ええ。ありがとう」
早口に話して、戸惑ったままのアランを無理やりにこの場から帰らせた。
残ったのは、不自然な笑顔を貼り付けた私とポカンと間抜け面をしているフェリクスだけだ。
「……これでも私とアランが結婚するとかなんとか言うつもり?」
「なんで……アリエルとアランが結婚するって話じゃなかったのか?」
「どうしてそんな誤解をしたのか知らないけど、アランには大好きな婚約者がちゃんといるのよ」
「ドロテから聞いた話と違う……」
「え?」
ドロテから聞いた話?
え? 私とアランが結婚するって、ドロテから聞いたってこと? ……え?
「それ、どういう──」
「アリエル」
「! ドロテ!」
気づけば、今度は檻の前にドロテが立っていた。
ずっと弱気で泣きそうな顔をしていたドロテは、今は輝くばかりの笑みを浮かべている。
笑ってる?
フェリクスが意識不明で、私が牢屋に入れられている……この状況で?
「アリエル。今、どんな気持ち?」
「ドロテ! 誤解なの。私、フェリクスを突き落としてなんか……」
「知ってるわ。見ていたもの」
「え? じゃあ……なんで……」
目の前にいるドロテは、普段の彼女の雰囲気とは違う。
いつもは優しそうな笑顔も安心させてくれる可愛らしい声も、今は人をバカにするような笑みと口調に変わっていた。
こんなに余裕そうで楽しそうなドロテの顔を見たことがない。
ドロテ……?
「ふふっ。ごめんね? アリエル。あなたとフェリクスがあの時無事に婚約破棄してくれていればよかったんだけど……こんなことになっちゃったじゃない? だから念のため、あなたには確実にフェリクスの婚約者の座から降りてもらおうと思って」
「……フェリクスと婚約するため? でも、それならわざわざこんな嘘をついて私を捕まえなくても私は……!」
「私にフェリクスを譲るつもりでいたのに……って?」
「そうよ。想い合っているあなた達の邪魔はしないつもりで──」
ズキズキと痛む胸を押さえてそう話していると、突然フェリクスが大声で叫んだ。
「待て! 俺とドロテの婚約ってなんだよ!? 想い合ってるって、俺とドロテが!? 一体なんの話だ!?」
「!?」
バッとフェリクスの顔を見ると、本気で驚愕した表情をしていた。
とても演技には見えないし、彼の不信感や戸惑いが嫌というほど顔に出ている。
どういうこと?
さっきのアランの話といい、見ていたのに私がフェリクスを落としたと言ったことといい、今までのドロテの話はみんな嘘……?
「ドロテ。あなたは……あなたとフェリクスは、想い合っているの?」
「そうよ……って言いたいところだけど、全部教えてあげるわ。実はね、ぜーーんぶ嘘だったの」
「ぜーーんぶ……って」
「全部は全部よ。フェリクスが部屋にはアリエルだけ入れないって言ったということも、フェリクスから貰ったと言ったあのネックレスも、あなたと婚約を破棄したいっていう話も、全部嘘なの」
呆然とする私を楽しそうに見つめたまま、ドロテは話を続ける。
私の隣には同じくらい放心状態になっているフェリクスが立っているが、もちろんドロテには見えていない。
「フェリクスのお見舞いに行けなくて残念だったでしょ? フェリクスも残念そうだったわ。私が『アリエルはお見舞いに来たくないんですって』と伝えたら、落ち込んでいたもの。ふふふ」
「…………」
「あと、あのピンク色の宝石のネックレス。あれね、本当はアリエルへのプレゼントだったのよ。私が代わりに渡すことになってたんだけど、可愛かったから私が貰っちゃったわ。フェリクスには『趣味じゃないからお礼もないのかもしれないわね』って言っておいたわ」
「……なんだよ、それ」
フェリクスが力なく呟いたが、聞こえていないドロテは話を続けた。
「あっ、あとあなたがフェリクスのために刺繍したあのハンカチは、私からのプレゼントとして渡しておいたわ。フェリクスはあなたからは何も貰ってないと思っているはずよ。だから、気まずくて渡しにくいと言っていたネックレスを私が代わりに渡すって申し出たのよ」
「私からだと思ってなかった……?」
だから……だから何も言わなかったの?
それなのに、私の誕生日にはプレゼントを用意してくれて……。
「あなた達は、伝えたはずのドレスの色が違っていたりと色々すれ違いが多かったでしょう? あれも、全部私がわざと伝えなかったのよ」
「……最近よく2人で会っていたのは?」
「あれはフェリクスからアリエルの相談を受けていただけよ。まぁ、あなたにはフェリクスに呼ばれて……ってことしか言っていなかったから、変な誤解をしていたと思うけど。ふふっ」
「…………」
今まで疑問だったことがどんどん解明していく。
それもこれも全部、ドロテが原因だったんだ。ドロテがわざと私達をすれ違わせていたんだ。
……ううん。違う。最初から自分でちゃんと伝えていれば。自分でちゃんと渡していれば。人任せにしてしまった自分が1番の原因だわ。
今さら後悔してももう遅いのに。
「婚約破棄についても、私がフェリクスに提案したのよ。あなたとアランの嘘の噂を教えて、破棄したいと申し出たらアリエルがどっちを選ぶのかがはっきりわかるわ……って」
「!」
「その前にアリエルに会って『私とフェリクスが婚約するの』と伝えたら、絶対にアリエルは破棄に了承すると思ってたわ。そうしたら2人は婚約破棄して無事終了──の予定だったのに」
「ドロテ……どうして? なぜそこまでして私達の婚約を破棄させたかったの? あなた、フェリクスのことを本気で好き……」
「違うわ。まぁ、もちろん人としては好きだけどね?」
本気で好きだったわけじゃない?
なら、なんで?
ニヤニヤと笑っていたドロテの笑みが消えて、急に真剣な表情に変わった。どこか思い詰めているような何かに諦めているような、冷めた目つきをしている。
ドロテのこんな表情を初めて見た。
「気に入らなかったのよ。今は使用人達もみんなアリエルと一緒に私のことも特別扱いにしてくれるけど、将来アリエルが王妃になったらもう私とは対等じゃなくなるんだって」
「え?」
「小さい頃からずっと3人で仲良くしてたのに、私だけただの貴族でアリエルは王族になるんだって思ったら……許せなくて」
……何、それ。
私だけ王族になるのが許せない? 対等じゃなくなる?
そのために、私とフェリクスを仲違いさせようとしたの?
どうにも理解できなくて、怒りすら湧き上がってこない。
呆れの感情でいっぱいになりながら、目の前で堂々と自分勝手な言い分を述べるドロテを見つめた。
「ふ……っざけるな! そんなくだらない理由で、俺達をずっと騙していたのか!?」
「!」
あまりの怒りにフェリクスが大声で叫んだ。
ドロテに対してこんなに怒鳴っている姿を見たことがないため、つい驚いた表情を向けてしまった。
「? どこを見てるの? 私の話を聞いてる?」
「あ。き、聞いてるわ」
「なんで急に全部正直に話したのか気になっているんでしょう? 実はね、今あなたを隣国の第2王子に嫁がせようという話になっているのよ」
「隣国の第2王子!?」
「なんだと!?」
私と同時にフェリクスも声を上げた。
「本当は私が嫁ぐことになっていたの。でも、私は嫌だったのよ。だって隣国の第2王子といえば、醜いと有名な王子でしょ? 冗談じゃないわ」
隣国の第2王子は、とにかく怠惰な性格だと有名な王子だ。
風呂に入るのを拒み、動くことを拒み、ただひたすら部屋の中で甘いものを食べているため、異常なほどの肌荒れと肥えた体をしていると聞いたことがある。
誰もが嫁ぐのを拒むその王子の元に、ドロテが嫁ぐ予定だった?
「だから私がさっき提案してきたのよ。私の代わりに、アリエルを送ってはどうかって」
「なんですって!?」
「殺人未遂を犯したアリエルとフェリクスを結婚させるわけにはいかないし、かといって証拠不十分なのに公爵令嬢を罰することもできない。だったら、隣国に嫁がせて私がフェリクスの婚約者になればいいって。みんな賛同してくれたわ。きっと今頃は陛下にもお話がいってる頃ね」
そんな……!
このままじゃ私、隣国に嫁がされてしまうの!?
「ふざけないで! 勝手に話を進めないでよ!」
「あら。私は軽く提案してきただけよ。話を進めているのは私じゃないわ」
「……っ」
ドロテの本性がこんな人だったなんて……!
もっと早く気づいていたら!
私がうつむいて歯を食いしばっている間に、ドロテは出て行ってしまった。先ほどの執事や騎士達の態度を見る限り、きっと誰もドロテのことを疑っている様子はないのだろう。
アランは私を信じていると言ってくれたが、まだ新人の彼にはほぼ発言権などないはずだ。
このままじゃ本当に私……。
チラリと横に立っているフェリクスを見ると、彼はドロテの出て行った先を黙ったまま見つめているだけだった。その表情はやけに冷静で、さっきのような激しい怒りは感じない。
フェリクスに対しても、私はたくさん誤解していたみたいね。
それに、思えば助けてもらったくせにお礼も言っていなかったわ。もう今さら彼との誤解が解けてもどうにもならないかもしれないけど……。
「フェリクス。今さらだけど、階段から落ちるのを助けてくれてありがとう。色々と誤解していたみたいで、ひどい態度をとってごめんなさい」
「……急にしおらしくなってどうしたんだ」
「もうこれであなたに会うのも最後かもしれないもの。今言っておかないとって思って」
「アリエル。お前、隣国の王子のところに嫁ぐつもりか?」
フェリクスがジロッと睨みながら聞いてくる。
いつものような喧嘩腰の口調とは少し違う、強気な言い方だけど真面目な顔だ。
「嫁ぐことになると思うわ。誰も止められないもの」
「俺なら止められる」
「えっ? でも、あなたは……」
「俺の意識が戻れば、アリエルの誤解は解けるし婚約も破棄させない」
「戻ればって、その方法がわかるの?」
私の質問に、フェリクスは気まずそうに視線を外した。
言いにくそうに目を泳がせたあと、ボソボソと話し出す。
「ここに未練があるからこうなった──って書いてあったよな? その未練がなくなれば、元に戻れるかもしれない」
「その未練ってなんなの?」
「…………」
「ん? 何?」
「…………たぶんアリエルのことだと思う」
「私?」
視線をそらしていたフェリクスが、急にこちらを向いた。
透き通った綺麗な瞳。でもどこか色気のあるその瞳に見つめられて、心臓が驚くほど大きく跳ねた。
「階段から落ちた瞬間、すぐに後悔した。……あんな言葉がアリエルに向けた最後の言葉になったことを」
あんな言葉?
それが「婚約を破棄しないか?」という言葉だったことを思い出し、胸がチクッと痛む。
「ドロテの言った通り、あれはアリエルを試そうとした言葉だった。破棄を拒否してくれないかと……小さな希望を持ってた」
「拒否してほしかったということ?」
「ああ。アランを選んだらどうしようかと、内心すごく緊張していた」
……そんなの、全然わからなかったわ。
「ドロテから聞いていたの。私と婚約破棄したあと、フェリクスとドロテが婚約するって。だから、私は破棄を受け入れるつもりでいたわ」
「…………」
「でも、実際あなたの前に立ったら怖くなったの。どうしても受け入れられなくて、それで……逃げようとして足を踏み外してしまったの」
「……それは、俺との婚約を破棄したくなかったということか?」
「……フェリクスも、私と婚約破棄したくなかったっていうことよね?」
「…………」
「…………」
ジーーッと睨み……いえ、見つめ合っている私達。
お互いにもう色々と察しているものの、今までの関係性もあってなかなか素直になれない。
そんな気まずい空気を最初に壊したのはフェリクスだった。
「まぁ、ここは男の俺から言うべきなんだろうな」
頬を少し赤く染めたフェリクスは、体の向きを私に向けて真っ直ぐに立った。つられて私もピシッと背筋を伸ばしてしまう。
ドッドッドッ……
心臓がうるさいくらいに早鐘を打っていて、その息苦しさで倒れてしまいそうだ。
「俺は、アリエルと婚約を破棄なんてしたくなかった。そんなことするくらいなら、最初からアリエルを婚約者にしてない」
「……え? 私がフェリクスの婚約者になったのは、ただの偶然だったのよね?」
最初から婚約者にしてないってどういうこと?
勝手に親に決められていたって、フェリクスは言ってたわよね?
私の質問に、フェリクスはより頬を赤くして「うっ」と声を漏らした。
「……偶然じゃない。俺が、アリエルがいいって言ったんだ」
「…………」
え? フェリクス自身が、私を婚約者に選んだの?
え? 5年前に?
驚きすぎて、一瞬声が出なかった。
今の私は、目を丸くして口を開けて、なんとも間抜けな顔をしていることだろう。
それって、5年前からフェリクスは私のことを……?
嬉しい気持ちと共に、あんなに喧嘩していた私を選んだフェリクスの好みが心配になってくる。私が男だったなら、絶対に私ではなくドロテを選んでいたはずだ。
そう正直にフェリクスに伝える。
「あなたは女の趣味が悪いのね。近くにあんなに可愛いドロテがいたのに」
「……前から思っていたが、お前は自分のことをどう見えているんだ? 昔からドロテのことを可愛い可愛い言っていたが、俺から言わせればお前も十分かわい……」
「!」
か、かわいい!?
つい期待した顔になってしまったのか、フェリクスは途中で言葉を止めてしまった。
カアッと顔が一気に赤くなっていたけれど、きっと私も同じくらい赤くなっていると思う。
「…………」
「…………」
またただ睨み……じゃなくて見つめ合うだけになってしまった私達。甘いようなくすぐったいようなこの空気に、お互い色々と限界がきている。
そんな空気を打破するように、フェリクスが口を開いた。
「とにかく、俺はアリエル以外の女とは結婚しない。……アリエルが好きだから」
!!
好き……って言ってくれた? あのフェリクスが。
泣きそうになるのをグッとこらえて、私も覚悟を決める。
今なら、自分に素直になれそうな気がする。
「私も、昔からずっとフェリクスが好きだったわ」
「!! ……本当か?」
「ええ」
私の言葉に、フェリクスがニコッと少年のように笑った。
こんな風に笑う彼を見たのはいつぶりだろうか。心の中が一瞬で暖かくなるような、幸せな気持ちに包まれる。
「アリエル……」
「!? フェリクス!?」
そんな幸せな雰囲気も一転。私の名前を呼んでいる最中に、フェリクスは消えてしまった。
1人ポツンと牢屋の中に取り残される私。
消えた!?
自分の体に戻ったのかしら?
そう思いつつも、もしそのまま意識が戻っていなかったら……と恐怖に襲われる。
さっきまで一緒にいたせいでその不安はあまりなかったけれど、1人になると一気に不安が押し寄せてきた。
もし……もし、これで意識が戻っていなかったらどうしよう……!
そんなはずはない。きっと体に戻っているはずだ。
起きて私の誤解を解いて、すぐに誰かが私を呼びに来てくれる。
「殿下の意識が戻りました」って教えてくれるはずよ。
そう願いながら、牢の柵に手をかけて誰かが来るのをじっと待つ。
まるで数時間そうしているのではないかと思えるくらい、長く長く感じる時間──。
その時、遠くから人々の声がガヤガヤと騒がしく聞こえてきた。
誰か来た? やけに騒がしいけど、フェリクスが目覚めたのかしら?
「……って、フェリクス!?」
「アリエル!!」
少し離れたところに見えたその姿。
大勢の使用人を引き連れて、どう見ても今ベッドから起き上がってきましたと言わんばかりの格好のフェリクスが私を見て叫んだ。
「早く! アリエルをあそこから出せ!!」
「わかりましたから殿下! お願いですからまだ安静にしていてください! お部屋に戻って……」
「いいからアリエルを早く出せ!」
「はっ、はいぃぃ」
フェリクスの心配をして真っ青になっている執事は、半泣き状態で返事をしている。ついさっきまで意識不明だったのだから、その心配も理解できる。
まさかフェリクス自身が助けに来てくれるなんて思ってなかったわ……。
起きてすぐに私への嫌疑の誤解を解いてくれたらしく、私は無事牢屋から解放された。
それからは、やけにバタバタした日々だった。
私を牢屋へ入れたことに対して、フェリクスと私の父がかなりお怒りだったからだ。
私が2人をなだめたことで、なんとか穏便に事は済んだ。しかし、状況を説明する上でフェリクスは1つの嘘をついたのである。
それはドロテのことだった。
牢屋でのドロテの言い分をすべて聞いていたフェリクスだが、それについては一切話さなかったのだ。
ドロテが私に嫌疑をかけたことに対しても、ただの見間違いだったのだろう──などと説明していた。
フェリクスが話さないのなら……と、私も何も言わなかったけれど、後日フェリクスの部屋を訪れた私はその件について問いかけることにした。
「ねぇ、フェリクス。どうしてドロテのこと何も責めなかったの?」
「責めなかったって?」
「牢屋で彼女が話していた内容を、誰にも話していないんでしょ? どうして? あんなに怒っていたのに」
「そんなことをしてドロテの評判が落ちたらどうするんだ。隣国の王子との結婚がダメになるかもしれないだろ」
「え?」
「ドロテはあの第2王子と結婚するのを心底嫌がっていたようだからな。そのまま嫁がせるのが1番の罰になると思ったんだよ」
「…………」
ニヤリと意地悪な笑みを浮かべたフェリクスは、とても国民には見せられないような顔をしている。
本当にいい性格をしてるわ。まったく……。
私達の婚約破棄がなくなり、隣国の第2王子に嫁ぐのは予定通りドロテに決まったのだ。それ以来ドロテには会っていないけど、きっと今頃彼女にとっては最悪の状況になっているはずだ。
「あんなにドロテに優しかったくせに」
「それはドロテが俺に優しかったから同じように返してただけだ。意図的に俺とアリエルの婚約を破棄しようとしてきた相手に、もう優しくする必要はないだろ」
聞く耳持たずな様子でプイッと顔をそらされる。
俺に優しかったから同じように返してた?
じゃあ、私といつも喧嘩していたのは、私がよく反抗してたから同じように反抗してきてた……ってこと? それなら、もし……もし私が素直に甘えたりしたら、フェリクスも……?
ジーーッと見つめると、フェリクスは頬を少し赤らめて眉根を寄せた。
私があまりにも真剣な表情で見ていたものだから、睨まれていると勘違いされたのかもしれない。
「な、なんだよ」
「あの、フェリクス。私……」
「?」
いや。いやいやいや。
何を言う気なの、私!? 甘えるって、どうすればいいのかわからないわ!
「やっぱりなんでもないわ」
結局何も言えなかった私を見て、フェリクスは突然「ふはっ」と笑い出した。
「!? な、何よ?」
「いや。昔から俺、アリエルのその照れて何も言えないところが好きなんだよな」
「はあ!?」
「昔から、俺に対してお礼を言ったり謝ったりしようとした時に……そうやって照れて顔を赤くして、少し怖い顔になるの気づいてない? その素直じゃないくせにわかりやすいところ、可愛い」
「…………っ!」
かあああーーっと真っ赤になったであろう私を見て、フェリクスがさらに嬉しそうに笑った。
昔から何も進展していないようで、少しは進展したような微妙な関係。
でもそれが私達らしくて合っているのかもしれない。
これからは、少しでも素直になれるようになりたい。
そう思いながらも、当分はまだ無理そうだと心の中でため息をついた。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
少しでも楽しいと思っていただけたら嬉しいです。