08
屋上の扉を開くと、夕暮れの光が差し込んできた。
ヴィンスさんはいつもの場所ではなく、屋上の手すりに背をもたれさせた状態で立っていた。そして僕に気づくと、少し口角を上げてくれた。僕は急いでヴィンスさんのいる方へと向かった。
「お待たせしてすみません」
「僕も今きたところ」
「あ、そうなんですね」
「仕事お疲れ様」
ヴィンスさんは優しく微笑んだ。夕暮れの空にヴィンスさんの美しい微笑みは、まるで絵画のようだ。そんな彼の微笑みに見惚れていると、ヴィンスさんは持っていた袋から何かを取り出し、僕に渡した。
「はい」
「えっ」
そうして突然渡されたものを見ると、それは子供が遊ぶようなおもちゃでできた拳銃だった。
「えっと、ヴィンスさん、これは?」
戸惑う僕にヴィンスさんは言った。
「水鉄砲」
「…水鉄砲、ですか?」
「うん」
そうか、水鉄砲か。
…たぶんこれって僕のトラウマ克服に関係するものだよな。
…でも流石に水鉄砲は撃てると思う。…たぶん。
そんな感じで少し困惑する僕にヴィンスさんは涼しい顔で微笑んだ。
「これで撃つ練習をしよう」
あ、やっぱり水鉄砲で人を撃つ練習をするんだ。
「あ、はい」
そしてヴィンスさんは水鉄砲を持つ僕の前に向かい合うようにして立つ。
「まずは僕を撃ってみて」
「え、これで、ですか?」
「うん」
その言葉に僕は少し困惑する。
「えっ、でもヴィンスさん濡れちゃいますよ」
「大丈夫。さっき防水魔法かけたから」
「え、はあ。わかりました」
「うん。僕の胸を狙ってね」
「あ、はい」
僕は向かい合うヴィンスさんを見た。僕とヴィンスさんの距離は1mもない。さすがにこんな近くにいるヴィンスさんを水鉄砲で撃つのは簡単だ。そう思って水鉄砲を構えて、引き金に手をかける。
…え?あれ?…撃てない?引き金を引こうとしているのに、僕の手は固まったように動かなかった。
えっ?なんで?ただ水鉄砲でヴィンスさんを撃つだけ。それだけなのに僕の手は小刻みに震えていた。
…怖い。怖い怖い。なぜか撃とうとすればするほど、僕の心の中からは恐怖心が湧いてくる。人を撃つのが怖い。
メノール百貨店のことがフラッシュバックしてくる。僕が撃った氷の弾丸は人質の肩に当たって、肩からは血が出ていて、人質の女の人は銃弾の痛みに悲鳴を上げていた。そんな光景が明快に僕の頭に流れ込んできた。
「はぁはぁ、なっ、なんで…」
僕はもうパニック状態になった。人を撃つのが怖い。どうしよう。撃たなきゃ。でも撃ちたくない。そう考えるとどんどん呼吸が苦しくなった。
ーその時、僕の頬が温かいもので包まれた。
少し離れていたはずのヴィンスさんがいつの間にか僕の目の前に立ち、両手を僕の顔に当てている。そして焦点の合わない僕の目にヴィンスさんの強い瞳が向けられる。ヴィンスさんはゆっくりと僕に言い聞かせるように言った。
「レイ。大丈夫。落ち着いて」
「…ヴィンス…さん?」
「うん」
「ヴィンスさん、…僕、水鉄砲撃つだけなのに…出来なくて…それで、怖くて…」
まとまらない言葉を必死に紡ぐ。
「うん。大丈夫。少し落ち着こう。それ貸して」
ヴィンスさんは震える僕に優しく言って、僕の手に握られた水鉄砲を受け取った。そして僕が落ち着くまで、背中を擦ってくれた。
「少し休もう」
僕たちはいつも昼食を食べている壁際に移動して座った。
「あの、すみません…。取り乱して」
「ううん。もう大丈夫?」
「はい」
「そう」
気分は落ち着いたものの深く落ち込む僕にヴィンスさんは心配そうな視線を向けてくれる。
…それにしても本当に申し訳ない。ヴィンスさんにとても迷惑をかけてしまった。ヴィンスさんも水鉄砲を撃つだけで僕がこんなに動揺するなんて思ってもみなかっただろう。僕自身もそんなこと思ってもみなかった。実際、僕は頭では水鉄砲は魔法銃とは違って殺傷力はないし、ヴィンスさんに撃っても問題ないということは理解していた。でも、いざヴィンスさんに向かって引き金を引こうとすると、あの事件の光景がフラッシュバックしてきてダメだった。人を撃つことが怖くてたまらなかった。水鉄砲ですら撃てないなら魔法銃なんて撃てるわけがない。僕は深く落ち込んだ。お昼にヴィンスさんに励ましてもらって上向きだった気持ちが急降下していくのを感じる。やっぱり僕なんかは一生、魔法銃を撃てるようにはならないんだ。そんな諦めの気持ちまで浮かんでくる。そんなことを考えて自己嫌悪に陥っていると隣から声が掛けられた。
「レイ。ごめんね」
その声に僕は下を向いていた顔を上げた。
「えっ、なんでヴィンスさんが謝るんですか」
「レイに怖い思いをさせたから」
眉を下げて悲しそうな顔をしているヴィンスさんに僕は慌てて言った。
「いやいや、ヴィンスさんは何も悪くないですよ!…僕の方こそ迷惑をかけてごめんなさい」
「レイこそ何も悪くないから謝らないで」
「いや、でも、僕…水鉄砲も撃てなくて…」
落ち込んで肩を落とす僕にヴィンスさんは言った。
「…レイはたぶん銃で人を撃とうとする行為自体にトラウマがあるんだと思う」
「…はい」
「だから今、撃てなかった。引き金を引くという行為を本能が拒絶してるんだ」
「…はい。…そうですね。…僕、救いようがないですね。こんなんじゃ、魔法銃が撃てるようになんてならないですよね…」
自嘲する僕にヴィンスさんは言う。
「ううん。そんなことない」
「…でも」
「まずはこの水鉄砲で人を撃つことができるように練習しよう。それができれば、君のトラウマが少しは軽くなるかもしれない」
「…はい。…でもできるでしょうか。さっきは手が震えて全然撃てなかったし…」
不安そうにする僕にヴィンスさんは優しく笑いかけた。
「うん。できるよ。…さっきは僕もいきなりすぎたね。少しステップを踏んでやってみよう」
「はい」
ヴィンスさんは僕の頭を優しく撫でてくれた。なんだかとても安心感がある。今まで気分は底まで落ちていたのに、少し前向きな気持ちに戻った。
そしてヴィンスさんは持っていた水鉄砲を僕に渡した。
「じゃあこれで、君自身の手を撃ってみて」
「は、はい」
僕は右手に水鉄砲を持って左手の手のひらに向かって水鉄砲を撃った。意外なことに、これはスムーズに出来た。さっきのように手が震えたり、怖くなったりしない。僕は僕自身を撃つことは大丈夫みたいだ。
「うん。できたね」
「はい」
「じゃあ今度は僕の手を撃って」
「え、あ、はい」
そしてヴィンスさんは僕のもとへと手のひらを向ける。僕はその手のひらに銃を向ける。すると自分の手のひらを撃ったときは何ともなかった手が震え出した。なんとなくさっきほどではないが、不安な気持ちが広がる。
「撃てる?」
「…いいえ。無理そうです」
「そう」
「ごめんなさい」
「大丈夫」
ヴィンスは落ち込む僕の頭を優しく撫でてくれた。手のひらでさえ撃つのが怖いなんて…
「レイ。じゃあまた自分の手を撃って」
そう言われて僕はまた自分の手のひらに水を吹きかけた。
「痛い?」
「え、痛くないですけど…」
手のひらを撃ったといっても、撃った銃は水鉄砲だ。ただ水が出て僕の手のひらを濡らす程度で痛みはない。そんなことはヴィンスさんだってわかるはずなのに、なんで痛いかなんて聞くんだろう。
「そう。じゃあ、また僕の手を撃ってみて」
「え、あ、はい」
ヴィンスさんに言われてまた僕はヴィンスさんの手のひらに銃を当てる。しかしやっぱり引き金を持つ手は震えて動かない。どんなに脳で撃とうと思っても指先はピクリとも動かせなかった。
なんでなんだろう。どうしてこんな簡単なことができないのか。
「レイ。焦ってはダメ」
ヴィンスさんは僕をじっと見つめて言い聞かせるように言った。
「あ、でも…」
「今、君はどんな気持ち?」
「えっ」
「なぜ手が震えているの?」
「えっ、それは人を撃つのが怖くて…」
「それはなぜ?」
ヴィンスさんがゆっくりと質問を続ける。
「えっ…それはまた人を傷つけるんじゃないかって…」
「そう。じゃあ、君は今、自分の手を撃って傷ついた?」
僕は戸惑い気味に答える。
「えっ、いや、手が濡れただけですけど…」
「痛かった?」
「いえ…」
「そう。じゃあ僕に撃っても痛くないし、僕の手が濡れるだけだよ」
「え、あ、はい」
「僕は傷つかない」
「えっ」
「違う?」
「いや、違わないです」
「じゃあ君が怖がることは何もないよ」
「…確かに」
「じゃあもう一回構えて」
僕はもう一度、水鉄砲を構える。しかしやっぱり手は震える。理性ではどうしようもないのだ。ヴィンスさんがせっかく励ましてくれたのにやっぱりダメだ。
「レイ。今僕が言ったことは?」
「え、えっと、水鉄砲を撃ってもヴィンスさんは傷つかない?」
「そう。僕は傷つかない」
僕に言い聞かせるようにヴィンスさんは言った。
「まだ不安?」
「…はい」
「じゃあ一回、一緒に引き金を引こうか」
そしてヴィンスさんは片方の手を僕の持つ水鉄砲の上に重ねた。僕の固まって動かない指の代わりに引き金を引いた。すると水鉄砲から発射された水はヴィンスの手にかかった。そして彼の手を軽く濡らす。
「どう?何か怖いことが起こった?」
「…いいえ」
「僕は傷ついてない」
「はい」
「じゃあ、もう一回、撃ってみよう」
「はい」
ヴィンスさんは添えていた手を水鉄砲から離す。そして僕はまた間近にあるヴィンスさんの手のひらに向かって銃を定めた。
「レイ。撃つ前にもう一回確認」
「はい」
「これは水鉄砲。水が出るだけ」
「はい」
「君が撃っても僕は傷つかない」
「はい」
「だから怖くない」
「はい」
そうだ。これはただの水が出る鉄砲。ただのおもちゃだ。それにさっき、この銃で自分の手を撃った時もただ水が出ただけだった。痛くもないし傷ついてもいない。同じようにヴィンスさんが手を添えて引き金を引いた時も、ヴィンスさんの手が濡れただけだった。ヴィンスさんは傷ついていない。メノール百貨店のときとは違う。大丈夫。これは魔法銃じゃない。水鉄砲を撃っても誰も傷つかない。だから怖くない。だから撃っても大丈夫。そう言い聞かせる。そして何度かそうしていると、なぜかさっきまでの恐怖が和らいでいった。手の震えも徐々に止まる。これは水が出るただのおもちゃ。そう思って僕は引き金に力を込めた。
―すると思いの外、簡単に引き金が引けた。まるで神経が分裂したかのようにピクリとも動かなかった指が動いた。そしてヴィンスさんの手のひらに水がかかっていた。
「あ、僕、撃てた…」
「うん。できたね」
「え、できた…」
「うん。えらい」
優しく微笑むヴィンスさんに僕は嬉しさを噛み締める。
「やった!ヴィンスさん撃てましたよ!」
興奮気味の僕に、ヴィンスさんは目を細めて僕の頭を撫でてくれた。
まだ水鉄砲が撃てただけだけどとても嬉しかった。こうやって少しずつ練習していつかは魔法銃も撃てるようになるといいなあ。ていってもまだヴィンスさんの手のひらに水をかけただけだけど…
「レイ。じゃあ少し撃つ場所を変えようか」
「は、はい」
「僕は少し離れるから、僕の腕を今度は狙ってみて」
「は、はい」
隣に座っていた僕とヴィンスさんは立ち上がって、少し距離をとった。僕は手のひらを撃った時とは違って、実践と同じように銃を構えた。
そうすると少し緊張してまた手が震えそうになった。そこで僕は銃を一旦下げてゆっくりと深呼吸をした。そして自分に言い聞かせる。大丈夫。これは水鉄砲で水が出るだけ。万が一変なところに当たってもヴィンスさんは傷つかない。大丈夫。大丈夫。
言い聞かせていたら高鳴る鼓動と少し乱れた呼吸が静まっていく。手の震えも止まっていた。そして僕はもう一度慎重に銃を構え、ヴィンスさんの右腕に狙いを定める。
「撃ちます」
「うん」
水鉄砲を撃つと、その水はまっすぐに飛んでいき、ヴィンスさんの右腕を濡らしていた。水が当たったのを確認した僕は水鉄砲から手を放して水を止めた。そしてヴィンスさんを見ると彼は優しく笑いながら口をゆっくり動かした。少し遠くにいて声は聞こえなかったが「えらい」と言っているようだった。
「あ、ありがとうございます」
僕が恐縮しているとヴィンスさんは自分の肩を指さした。何の合図がよくわからなくて首をひねると、僕の持っている水鉄砲を指さして、また自分の肩を指さした。
あ、今度は肩を狙って撃ってみろということだろうか。そう思って僕はヴィンスさんの肩に向けて水鉄砲を構えてみた。すると彼は口角を上げて頷いてくれたので、やっぱり肩を狙って撃てということなんだと理解して銃口を定める。
そして肩へと水を発射した。発射された水はヴィンスさんの肩へと当たった。
そうして色んな場所を撃つように言われて僕はヴィンスさんの身体のあらゆるところに水を撃ち込んだ。途中で首や胸のあたりも撃つように指示されて、少し動揺してしまったけど、これは水鉄砲だと言い聞かせて、気持ちを落ち着かせると、何とか撃つことが出来た。そして撃った水は全てヴィンスさんに言われた場所に正確に命中した。良かった。銃の精度は狂っていないみたいだ。魔法銃を握れなくなってからは、練習場で的あてばっかりやっていたけど、それも無駄にはなっていない。そんなことを考えているとヴィンスさんはこちらへとやってきた。僕がいっぱい水鉄砲を当ててしまっているせいで洋服が水浸しかと思いきや、防水魔法のおかげで全く濡れていなかった。
「いい感じ」
「あ、ありがとうございます」
「狙いも正確」
「ありがとうございます」
ヴィンスさんに褒められるとすごく嬉しい。
「レイは人を撃つこと自体への恐怖は克服したね。水鉄砲を撃てるようになったから」
「は、はい」
そうなのかな。でも確かにさっきは、水鉄砲すら撃てなかったから、人を撃つという行為自体への恐怖は無くなったのかもしれない。でも水鉄砲が撃てるようになったからって魔法銃が撃てるわけではない。僕が一番恐れているのは魔法銃を撃って、狙い通りの場所に行かずに人を傷つけてしまうことだ。メノール百貨店のように関係ない人に当たってしまったら。そんなことを考えると怖くてたまらない。だから水鉄砲を撃てるようになったとしても根本的な解決には至っていない。
「レイ。焦らないで。ゆっくりやっていこう」
最初の状態からの進歩に喜びつつも微妙な顔つきをしていた僕にヴィンスさんはそう言って微笑んでくれた。確かに時間は沢山ある。これからヴィンスさんとゆっくりやっていけばいい。なんとなくヴィンスさんとならできそう。そんな気がした。今日だって一日でヴィンスさんは僕のトラウマを一つ解決してくれた。これからもヴィンスさんを信じてやっていけばもしかしたら魔法銃への恐怖もなくなるかもしれない。
「はい。…あのヴィンスさん。本当にありがとうございました」
「うん」
頭を下げる僕にヴィンスさんは優しく微笑んだ。そしてふと何かを思い出した表情になって僕に視線を向けた。
「レイ。このあと暇?」
「え、はい」
「じゃあ、夜ご飯、一緒に食べない?最近貰った食事券が今月までだから」
ヴィンスさんが差し出したのは王都にある美味しいと評判のレストランのお食事券だった。そのお店は僕がいつ通っても必ず行列ができている程の人気店で、ヴィンスさんが持っていた券は、そんな人気店の食事が無料で、しかも行列に並ばずに食べられるという夢のような券だった。
「えっ!すごい。ここのお店すごく人気店ですよ」
目を輝かせる僕にヴィンスさんは少し首をひねっている。
「そうなの?」
「はい!」
「そう。じゃあ一緒に行こう」
「えっ!いいんですか!…あ、でも」
ヴィンスさんに誘われてすごく嬉しくなった僕だが、ふと我に返って考えてみた。このお食事券はたぶんとてもレアなものだ。手に入れるのも大変なものだろう。そんな希少なお食事券を僕なんかが消費していいのだろうか。そう考えると申し訳なくなってきてしまう。それにヴィンスさんにはただでさえお世話になってるし、これ以上彼の好意に甘えるのは図々しいのではないだろうか。
「あ、あの、やっぱり…僕にはもったいないかななんて…」
その言葉にヴィンスさんは少し傷ついたような顔をした。
「…レイは僕と行きたくない?」
悲しそうな表情でじっと僕を見つめてきた。
…僕はヴィンスさんのこの表情にとても弱い。だってこんな天使みたいな容姿の人が少し眉を下げて悲しそうにしている様子は、ひどく心に響いて、なぜかとてつもない罪悪感を抱いてしまうのだ。
「あ!いや!嫌とかじゃなくて…。ただ、ヴィンスさんには色々お世話になってますし、さすがに申し訳ないかなって…」
「僕が君と一緒に行きたい」
宝石のような瞳でじっと見つめてくるヴィンスさんに僕はもう耐えられなかった。
「ヴィンスさんが迷惑じゃないのなら…行きたいです」
「うん。迷惑じゃない」
ヴィンスさんは少し眉を上げた。
「…じゃあお言葉に甘えて」
「うん」
僕の言葉にヴィンスさんは嬉しそうに微笑んだ。あぁ眩しい。ヴィンスさんが嬉しそうならなんでもいいや。