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翌日、僕たちは午前中に依頼を二件こなしたのちに、ヴィンスさんおすすめのチーズ料理を食べに行った。そのお店はとてもおしゃれで、料理も絶品だった。僕は一口食べるたびにほっぺが落ちてしまいそうなほどの美味しさを味わい、幸せな昼食時間を過ごした。
それから僕はヴィンスさんと一旦別れて騎士団へと戻った。ヴィンスさんは何やら用事があるそうで、僕は先に帰って報告書をまとめていた。今日はミハエルさんは体調不良で休みで、同僚の彼は相変わらずゲームに夢中でカタカタとキーボードを一心不乱に動かしていた。
そして報告書の作成を終え、僕はなんとなく外の空気が吸いたくなったので、廊下へ出ようと市民相談室の扉を開くと、ちょうどそこに人が立っていた。60代くらいの、白髪をきっちりと整えた、背が高くがっしりとした人だ。
「え?」
僕は扉の前に人がいたことに驚き「あ、すみません」と言って体を横によけ、道を譲った。
「君は市民相談室の子かね?」
「えっ?…あ、はい」
戸惑いつつ頷くと、男性はじっと僕を見つめてきた。男性は堀が深く、強面な感じの顔立ちで、オーラからして只者ではないというか、強そうな感じが伝わってきた。でもなんだか見覚えがある気がするのは気のせいだろうか。そんな違和感を感じつつも、僕は男性に見つめられて、思わずゴクリと唾を飲んだ。
「ヴィンセントはいるかね?」
「…あ、ヴィンス…ヴィンセントさんなら、えっと、今は出かけていて、もう少ししたら戻ると思います…」
「そうか。じゃあ、戻るまで待たせてもらっていいかね?」
「あっ…はい。えっと、じゃあ、ソファーに案内します」
僕はその男性をソファーに案内し、キッチンで紅茶を入れて、その男性のもとへと運んだ。
そして僕は男性の向かい側のソファーに座った。
「紅茶ありがとう。いただくよ」
「は、はい!」
男性は優雅に紅茶を啜り、目尻を下げて微笑んだ。
「美味しい」
「あ、ありがとうございます」
なんか、真顔だったら、すごく怖い感じだけど、こうして見ると優しそうな人だ。
「君の名前を聞いてもいいかね?」
「あ、はい!僕はレイ・ベルモンドと言います。よろしくお願いします」
「レイ?…そうか。君が」
総督は腑に落ちたように僕を見た。え?なんでだろう…
「あの、僕がどうかしましたか?」
「君はヴィンセントが異動するきっかけになった子だね?」
「えっ?あ…えっと、特別課からここにってことですよね?」
「ああ、そうだ」
「はい…そう、だと思います」
僕が戸惑いながら答えると、男性は疲れたように深く肩を落とした。
「そうか、君が…」
「え、えーと…」
「ああ、すまないね。私はアール・バートリッチ。ここの総督をしているものだ」
「え」
僕は信じられない言葉を聞いて耳を疑った。ん?今なんて言った?アール?バートリッチ?ソウトク?そうとく?総督…
「ええええええええぇぇぇ‼︎」
思わず叫んだ。
「あ、あなたが総督?え?1番偉い人??」
「あ、うん」
「え?…あ、え?」
僕が混乱して「え」か「あ」しか言えなくなっているのを見て、アール総督は口を開いた。
「落ち着きなさい。とって食ったりはしないから」
「あ、はい。すみません」
嗜めるように言われて僕は思わず謝った。
「それで、今日はヴィンセントに話しがあって来たんだが、君がいるなら好都合だ。私から君に頼みがある」
「えっ?ぼ、僕?あ…何でしょうか」
僕が緊張しながらそう言うとアール総督は口を開いた。
「ヴィンセントを特別課に連れ戻すのを手伝って欲しい」
…あ、そういうことか…
僕はこんなところにわざわざ総督が来た意味を理解した。
…やっぱり特別課からヴィンスさんがいなくなって、色々大変だったんだろうな。休暇を取ってた時ですらフィル君が激務で死にそうになってたくらいだから、いきなり異動していなくなったら、それは、もう大変だったんだろう。あんまり深く考えてなかったけど、それは、そうだよな…
「…あの、やっぱり、ヴィンスさんが異動して、大変なんですか?」
僕がそう聞くと、アール総督は深く息を吐き、ガックリと肩を落とした。
「もう、大変なんてものじゃない…あの若造のわがままのせいで、私がどれだけ迷惑を被ったことか…」
「えっ、あ…それは、大変でしたね」
「ああ、あいつがいなくなってから、特別課は人手不足で大変なことになっててね…というか聞いてくれ!もともと市民相談室への異動は兼任という形だったんだよ!なのに、あいつは…‼︎」
アール総督はグッと拳を握って眉間に深い皺を作った。…すごく怒ってる顔だ。
「あ、兼任だったんですか?…僕は異動って聞いてたので…」
「兼任だよ、兼任!!」
「あ、すみません…」
声の圧に思わず謝ると、アール総督はハッとした様子で眉を下げた。
「…いや、すまない。頭に血が昇ってしまったようだ」
「いえ、僕こそすみません」
「はあっ、なぜ私があんな若造に振り回されなきゃならんのだ…」
総督は大きく息を吐いた。
なんだか、ずいぶん疲労が溜まっている様子だ。ガタイの良い体を丸め、ガックリと下を向いている様子はなんだか可哀想だ。
「…あの、たぶん僕のせいだと思います。僕ヴィンスさんが異動してきてくれたのだと勘違いしてて…それで、毎日仕事手伝って貰っていて…その、すみませんでした」
きっと総督がこんなに疲れてしまった原因は僕にもあると思って僕は謝った。
「いや、君のせいではない。全部あのふざけた銀髪野郎のせいだ。あいつ、市民相談室と兼任になった瞬間、私の連絡をぜーんぶ無視し始めたんだぞ。なんなのかね?あの舐めた野郎は!!」
「えっ、そう、だったんですか?」
え、流石のヴィンスさんでも総督の連絡を無視するのはやばいんじゃないんかな?大丈夫かな?
「ああ!私が電話しても出ないし!メールしても帰ってこないし!特別課には最低でも週に三回は顔を出せって言ったのに、守ってないし!そのせいで今の特別課は崩壊してるんだよ!!」
「えっ?崩壊?」
崩壊ってどういうことだろう。
「ああ。あの野郎が異動になってから、特別課は以前にも増して激務になってね。元々激務だったんだが、もう過労死するレベルにヤバくなってしまったらしい」
「あ、確かに、ヴィンスさんが休暇中もとても大変だったってフィル君が言ってました」
…そういえばフィル君から最近全く連絡がないのも激務だからだろうか?ヴィンスさんが市民相談室に異動になってから、フィル君は一度だけ僕の部署まで怒鳴り込みにやってきたが、それ以来パタリと会うことも、メッセージでのやりとりもなくなってしまった。僕はフィル君に嫌われたかもしれないと思い、一度謝罪の連絡をしたが、今日まで返信は来ていない。僕はそのことでずっとモヤモヤしていたが、フィル君を怒らせた原因は僕にあることもわかっていたので、これ以上しつこく連絡する勇気もなく、今まで放置していた。でももしかしたら、連絡なんてできないくらいに激務な環境にいるのかもしれない。
「特別課の仕事は他の部署では手に負えないと判断された案件や、特に重要性が高いと判断された案件をこなすことだ。だから特別課には毎日、ハードな案件が次々と舞い込んで来るんだ」
「はい。とても大変だと思います」
「ああ、近年はヴィンセントのおかげで、そんな案件をいとも簡単に捌いていくものだから、騎士団全体として特別課への依存が高まっていったんだ。とりあえず何か厄介なことが起こったら、特別課に解決してもらおうって感じでな。しかし今回ヴィンセントが特別課からいなくなったことで、そんな膨大な案件を捌ききれなくなり、パンクしてしまったんだ」
「…そうだったんですね…」
僕は特別課がそんな悲惨な状況になっているなんて知らずに、ヴィンスを独り占めしてしまった罪悪感でいっぱいになった。特別課にはヴィンスさんがとても重要な存在だということはわかっていたけど、総督が異動を許可したのだから、なんとかなっているのだと勘違いしていた。しかし、そもそも異動ではなく兼任だったのなら、それは当然の結果なのだろう。
「…最近、特別課の騎士たちが全員私のところに詰めかけてきてね…」
「…はい」
「辞めさせてくれって泣きながら懇願してくるという地獄絵図が総督室で繰り広げられたんだ…」
「…そうなんですね」
「ここで辞めれないなら、死んでやるって…」
「えっ…」
「なんか、もう、みんなガンぎまりすぎて、私引いちゃったよ」
「あ、ああ…それは、何と言っていいか…」
「なんとか、説得に説得に説得を重ねて、引き留めることはできたんだが…。あの子達を地獄から救うためにはヴィンセントを力づくで連れ戻すしかない、そう思って私はここに来たというわけなんだ…」
「…そう、だったんですね…」
「ああ、それに今回はヴィンセントの次に有望なフィル・クロード君の休暇も重なっててね…本当に大変な状況なんだ」
「えっ?フィル君が休暇?」
そんなこと初耳だ。
「ああ、ヴィンセントが異動になって、入れ替わるように彼の休暇申請が出されたんだ」
「あ…そうだったんですね…」
「ああ、だから、今の特別課は本当に大変な状況なんだ。だからヴィンセントを何が何でも連れ戻さなきゃいけない。君も協力してほしい」
「はい。わかりました。僕からも説得します」
そう言うと、アール総督は安心したように息を吐いた。
「助かる。ありがとう。レイくん」
「は、はい!」
そして二人でしばらく紅茶を飲み、主にアール総督の愚痴を聞いていると、市民相談室の扉が開く音がした。




