6.コースレア公爵令嬢の知られざる真実
コースレア公爵家。ウェスホーク王国の産業界で並ぶ者がいない程の権能を持った王国最大の公爵家はその権限に相応しいだけの歴史と良識があった。公爵家が是と言えば、国王の決断は貴族総意の支持が得られ国内における諸問題の解決に不可欠な存在であった。しかし、だからといって専横がまかり通っていたわけではない。横暴な振る舞いは一時の栄華と狂乱をもたらし、その後は腐敗による凋落が待っていることは歴史が証明していることだ。政治の世界に羅針盤は存在しない、しかし賢き者は己のたどってきた航路を詳細に記録し、また他の船がどのように沈没したのかを徹底して調べる。少なくともコースレア公爵家は今まで賢者によって導かれてきたからこそ、王国での絶対的地位が保たれてきたのだ。
コースレア公爵家には一粒種の姫がいる。その姫は現当主に過保護と言える程の寵愛を受け社交界にすら出ることを許されていなかった。あの岩よりも固く融通がきかないコースレア公爵も人の親なのだとそんな笑い話が囁かれるほどにそれは王国では有名な話だった。だがそれらはコースレア公爵家が張り巡らせた貴族界の人的パイプをフルに活用して振り撒いた真実を覆い隠すベールに過ぎなかった。真実は、コースレア公爵家の一人娘は表に出せないほどのワガママ娘だったのだ。一を我慢するのに十を要求する。そんなワガママ娘を表に出すことはコースレア公爵家のいや公爵家が代表するウェスホーク王国の貴族界の面に肥溜めを塗る行為に他ならない。いっそ病で死んだことにしようかとすら公爵家の奥の院では話し合われた。しかし、天が人を面白がって試すのはいつの世にもあることでコースレア公爵令嬢はひどく美しかった。もしかしたら時が彼女の性根を徐々にでも良い方に導いてくれるかもしれない。そんな甘い期待が結局は最後の手をためらわせたのだ。
そんな、ウェスホーク王国で最も多くの権力を持ちその実最も不自由なコースレア公爵家は一つの難題を抱えていた。
「なぜ、あの娘の肖像画が王家の手に渡っているのだ!」
現当主であるコースレア公爵が家臣に向かって激怒する。いつもの穏やかな様子からは想像もつかない程に公爵は焦燥に駆られていた。つい先日、王室からぜひ王子との見合いをとの勅使が公爵領の領主館に参上したのだ。
「それは、仕方ありません。王子が年頃である以上、適齢期の貴族の娘が肖像画を出さないのは、それこそ疑いの目を向けられます」
家臣が公爵の剣幕に怯むこと無く反論する。公爵家ではこのような直言は許されるのが伝統だ。だからこそ公爵はこの家臣の意見に同意せざる負えなかった。もし、何かの重い病などと言えば下手をするとコースレア公爵家の血は病に侵されているなどという噂に繋がりかねない。痛くない腹を探られるくらいなら正直に肖像画を差し出すのが一番なのだ。問題は公爵令嬢の対抗馬がいなかったことに有る。
「それで、どうする。何か考えがあるのだろうな」
「はい、用意しておりました次善の策としてコーネリアス様には駆け落ちをしていただこうかと」
「駆け落ちか」
家臣の策を公爵は頭の中で検討する。貴族の娘がどこぞの馬の骨と駆け落ちしたという話は稀に聞く。そういった話はどのように評価されていたか。まずは一つの笑い話として語られる。当代のコースレア公爵家は硬すぎるきらいがあると評判だ。多少の笑い話の種を提供しても舐められる心配はないだろう。息子たちへの評価はどうだろうか。彼らはもう既に家庭を持っている。浮気の心配を奥方の家から心配されるかもしれないが、それは貴族の家ではそこまで問題になることではない。公爵は検討の結果を伝える。
「やれ」
▼▼▼
コースレア公爵家の若き家臣は当主の了解を得るとすぐに動いた。既に準備は十全に整えてある。令嬢の側には最近入った馬飼いの下男が足繁く通っている。名目は令嬢に必須の技能である乗馬の訓練に使う馬の調教だが、その下男の容姿を見れば、まあそれがただの言い訳であることはすぐに分かるだろう。
下男の元に十分な額の金子とある手紙が送られた。内容は至極簡潔で令嬢に婚約の話が持ち上がった話である。若く、情熱的で、自信家の男がそれを見れば何をするかは想像に難くない。その夜には令嬢が寝起きする部屋の窓が開け放たれ、後には汚い文字で何か言い訳めいた詩が残されていた。特に重要な内容でもなかったので早々に破棄をすると、関所に一時サボタージュをするよう伝え家臣の仕事は終わった。馬はこの剣と魔法の世界でも流通の要を担っている。馬飼いがそうそう職に困ることはないだろう。それにあれだけの金子があればなるべく遠くに行こうとするに違いない。できるだけ遠く国境をいくつか渡ってくれさえすれば令嬢が後悔した頃にはもう戻っては来れない距離にいることだろう。若き家臣の完璧な作戦は成功した、かに見えた。
▼▼▼
「我が娘を婚約者に、ですか?」
王室に参内した公爵を待っていたのは国王による急な申し出だった。まだ見合いの一つもしていないのにあまりにも性急すぎる。娘が馬飼いと出奔したことを話す暇も与えずにそう切り出された公爵はこちらの事情を言い出すことをためらってしまった。それが失敗だった。
「実はな公爵。我が息子にはもう許嫁がいたのだ。貴族の娘との見合いはその親との顔つなぎの場にするつもりだったので許嫁のことは伏せていたのだがな」
「はい、それは承知しております」
そういった腹芸の一つも政治のうちと理解している公爵は国王の言に特に腹も立てず聞いていた。
「まあ、その顔つなぎも一巡したのでそろそろ許嫁を紹介しようと、招待状を送っていたところなのだ。公爵の方は行き違いになったようだがな」
「はっ、それはとんだ失礼を」
首を振り、気にしていないことを示した国王が身を乗り出し声を幾分落として話す。ここからが本題だ。
「その娘が、実は、駆け落ちしたのだ」
「駆け落ち、ですか」
どこかで聞いた話に一瞬、公爵は悪い予感がした。もしかしたらこの一瞬が公爵が事情を切り出す最後のチャンスだったのかもしれない。しかし、明瞭な公爵は勘ではなく常に思考による決断を優先していた。だからこそ、そのチャンスを逃してしまった。
「ああ、駆け落ちだ。息子は、王子はそれほど気にはしていないようだが、まあそれはいい。問題は既に王国中の貴族に許嫁を紹介するために招待状を送ってしまったということだ。そして、国内のめぼしい貴族の娘とは既に見合いを済ませてある。当然、全て断る結果になっておる。公爵、そちの娘を除いてな」
ここに来て、ようやく公爵は国王の話の全体像が見えてきた。つまり王子に恥をかかせないためにも公爵の娘が許嫁だったということにしたいのだ。家格も容姿も申し分ない公爵の娘を。
どうする、今なら実はうちの娘を駆け落ちしちゃいましたで済ませられるか? いや思い出せ国王はなんと言っていた。王子は気にしていない、と言っていた。では国王はどうだ? 平時ならばただの笑い話、だが国王の威厳が傷つけられた今は。再三に渡る見合いの要請を無視して娘の駆け落ちを許した。これは下手をすると公爵家と王家の間に罅を入れることになるやもしれない。
公爵は汗をダラダラと流しながら国王に頭を下げた。
「身に余る光栄です」
早急に領地に戻り逃げた娘を捕まえる必要がある。まだ指示を出してからそう日も経っていない。もしかしたらまだ準備に手間取っている段階かもしれない。逃げたとしてもまだそう遠くに行っていないかもしれない。
公爵は次々と湧く希望的観測にすがることにした。
▼▼▼
それからのことは公爵家の秘事に関わることのため詳しいことはほとんどの人間の耳に入ることはなかった。ただ結果だけを見れば王子と公爵令嬢は無事に婚約を結び、王家と公爵家の絆はますます強くなった。
そして公爵令嬢は首都の学院に編入しその美貌だけでなく寛容さと才知までも兼ね揃えていることが知られることになったのだ。この公爵令嬢がかつてのワガママ娘と同じ人間なのか知っているものはごく一握りである。そしてその本当の姿を知る者はいない。この時は、まだ。
これがこの物語が始まる一年前に起こった出来事の一部始終である。




