2.失敗は誰にでもある。
朝目が覚めると何かいつもと違う。少し考えて違和感の正体が部屋に干してあるはずの魔法の学生服が無いことだと気付いた。
そうだった。昨日の夜、洗おうとして、でも疲れがどっと出て、それで。
寝過ごした!
いつもなら他の三人が起きて来る前に目が覚めるのだが、疲れというか徒労感のせいで無意識に起きるのを拒否してしまったのだ。
扉の隙間から耳をそばだて、誰が起きているのか確認する。
この声は多分、ウルク元王子とネスケの二人だけだ。
二人に見つからないように足音を忍ばせて廊下に出る。確か、あの学生服は食堂に置いたままだ。そしていつも通りならあの二人は食堂でだべっているはず。いやでももしかしたら、今日だけは違うかもしれない。
一縷の望みを託して食堂を伺う。
駄目だ、ちゃんと二人いる。こうなったら危険だがプランBだ。
「あのー、すいませーん。ゴホゴホ。ちょっと風邪ひいたみたいでー、誰か部屋まで来てくれませんかー」
食堂にいたウルク元王子は廊下から聞こえる声に顔を上げる。
「ベル? ベルなのかい? ちょっと声がいつもと違うけど」
「すいませーん。ゴホゴホ」
「そうか、風邪のせいかな?」
ウルク元王子は納得すると食堂を出てベルの部屋に向かおうとする。と、その時、何か後ろ髪を引かれるように振り返った。食堂に残っているのはウトウトとうたた寝するネスケだけだ。
どうしようか悩んだ後、結局ウルク元王子は一人でベルの部屋に行くことにした。
「ベル、大丈夫かい? その、実は言い難いんだけど……」
「ゴホゴホ」
布団に丸まっているベルはウルク元王子の言葉には答えずひたすらかすれた声で咳を繰り返す。元王子は流石に元上流階級だけあって勝手に女性の布団をめくるような真似はしない。
「いや、決してワザとじゃないんだけどね。その、汚れているなぁと思って、日頃の感謝を返さなきゃなぁと思って」
「ゴホゴホ」
令は計画通り食堂からウルク元王子がいなくなったことを確認すると、忍び足で中に入る。
ネスケはいつも通り朝は早いが老人の様にすぐ眠そうになる。こいつだけなら問題はない。すぐに学生服を回収して着替えればいい。
部屋に置いてきた魔道具の録音音声でウルク元王子は足止めできるはずだ。その隙に。
なるべく音を立てずに、ネスケを起こさぬよう目に付いた学生服を一瞬でかぶって着替える。限界まで研ぎ澄まされた集中力は剣の達人であるネスケにも気付かれないほどだった。
そして、ベル・ベチカに変身した自分の姿を鏡で確認する。
「な、なんじゃこりゃー!」
▼▼▼
「その、怒らないで聞いて欲しいんだが、ベル。僕はただあの魔導洗濯板というのを使ってみたくて、それでちょっとベルの制服がそこにあったから、ちょうどよく汚れていたし、偶には家事の手伝いでもしようかなぁ、と」
「なぁにしてくれとんじゃあ、ごらああ!」
布団の塊に向けて言い訳をしていたウルク元王子をベルは背中から蹴倒す。ウルク元王子はベッドに突っ伏し、衝撃と混乱でいったい何が起こっているのか分からない。
「なん、いったいなんなんだ?」
「それはこっちのセリフじゃボケナスう! オマエェ、日頃の恩を仇で返しよってからにぃい!」
そこにいるのはベル・ベチカで間違いない。いつもの赤い髪に細く通った鼻筋、しかしどこか違う。なんというか筋肉質で大柄で、王子に馬乗りになり首を絞め殺さんとする姿が様になっている。
「ベル? ベルなんだよね?」
「あた坊じゃあ、ボケナスぅう。お前のせいでよぉ、こんな姿になってんだよなぁあ!」
何か無理矢理に洗濯板で擦られたかのように若干ボロくなっている学生服は見ようによってはあられもない姿ではあるが、そこから除く逞しい腕と足にときめく趣味がある殿方は珍しい部類に入るのだろう。少なくともウルク元王子はそれどころではない。
「すまない、ベル。悪気は、悪気は無かったんだ」
「悪気が無いで済んだらなぁ、警察とヤクザは失業するんじゃ、ボケェ!」
▼▼▼
魔法の学生服が不慮の事故で破損してから、ベルの姿が安定しなくなった。
普通に過ごす分には多少の問題はあれどベルとしての容姿は安定するので何とか誤魔化せる。しかし、一度心を乱し、特にいつもの三人に対して激昂すると顔以外の部分が元の令の姿になってしまうのだ。
ウルク元王子は引け目からそのことに対して何も言わない。ネスケは最近、目がかすむと言って気付かないふりをする。そして、ホーランド元王子はなにやら部屋で動画の撮影に忙しい様子で出てこない。
「まずい、このままじゃまずい」
しかし、令にとって元王子たちの反応は二の次だった。今は収入のほとんどをベル・ベチカとしての働きから得ている状態なのだ。このまま徐々に学生服の魔力が失われれば早晩、詰む。令はしばらく会っていなかったサリーに頼ることを決意した。