4.ピンク・ピリオド
昨日はひどい目にあった。そんな気がする。いや深く考えるのはよそう。特に何事も無く今日も健康だ。それでいいじゃないか。
ベルは誰に向けるでもなく言い訳をすると暗い考えを頭から追い出した。
そう、これからは芸術の時代。そしてこの教室には芸術に関して将来を嘱望された一人の男子生徒がいる。その名はエルォウ・ロリクォン。由緒正しきウェスホーク王国の貴族、ロリクォン男爵家の跡取り息子だ。この名前で芸術とくればピンとくる者もいるだろう。仕方ない、彼の名前はそれほど有名であるからだ。
エルォウ・ロリクォンは繊細な油絵を描くことで有名だ。そして彼が得意とする被写体にも特徴がある。彼はホビット族の裸婦画で一躍、画壇に旋風を巻き起こしたのだ。
「うーんこれは成人のホビット。ゆえにセーフ」
ウェスホーク芸術協会の偉い先生もそう言っている。
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「あの、エルォウさん? 実は私、芸術に興味がありまして、今度、私に絵の描き方を教えてくださいませんか?」
ベルがキャンパスに没頭しているエルォウに控えめながらはっきりと声をかける。しかし人の少ない芸術科の教室ならば耳に届く程度の声量のはずだがエルォウは顔を上げない。代わりにどうでもいい元王子が反応する。
「どうしたんだい、ベル。絵画のことなら、僕が教えてあげよう」
ちなみにネスケは豊満な淑女を描いた裸婦画に夢中だ。
「いえ、ウルク王子は自画像しか描けませんよね。結構ですので私はエルォウさんに教わります」
「はっはっは、確かに僕たちは毎日お互いを見れるのだから絵なんて必要ないよね」
たぶん理解していないのだろう。ウルク元王子は嬉しそうに笑うと提案を引っ込めた。
ベルは余計な手間をかけなくてよさそうなことに安堵すると再度エルォウにお願いする。
「あの、私、エルォウさんの描くホビット族の、その、美しさに感銘を受けまして、ぜひその技術を世に広めたく……」
ベルが若干苦しげにエルォウの歓心を引こうと言葉を探っていると、ようやくエルォウが顔を上げる。
「美しさとは、なんだ?」
「はい?」
「ホビット族の美しさとは、なんだ?」
「はい、あの、それは、無垢な純粋さといいますか、幼さ、いえ、未成熟、いえ、そのまだまだこれからって感じですかね?」
ベルが色々なものに配慮しながら、エルォウが描く成人ホビット族の裸婦画を形容しようとする。だがその努力がエルォウに届くことは無かった。
「はぁー、これだから」
「あの、すいません、不勉強で」
「ホビット族の美しさといったら、スジだろっ!」
エルォウの顔が今まで見たことがない表情になる。
スジ? 筋とはなんだろうか? 全く思い当たる節がない。ベルの頭の中には既に一つの可能性が浮かんでいたがそれを認めるわけにはいかない。何か、何か他にないのか。
「見給え、この密やかな蕾を思わせる、縦の線を。この美しさを表現するためにどれだけの芸術家たちが懊悩したことか。僕は今彼らのエクトプラズムを受けて筆を動かしているのだ。決して、決して僕一人のものではない。これはそういうものなのだ」
何か、狂気を思わせる偏執さでエルォウは筆を上下に動かす。まるでこの世界とは別のところから来た何かが乗り移っている、そんな光景だ。エルォウがスジと言っていた何かを丹念に、それこそキャンパスの繊維一つ一つにそれぞれの役割を与えるかのように筆をなぞらせている。まるでそこにホビットたちが現出していくかのような、見ている者の心すら狂気へと誘う熱意だ。
美術室にいる皆が緊張で喉を鳴らす。最初は興味が無さそうだったネスケですら、いつの間にかエルォウの描きだす作品から目が離せない。
誰もが理解していた。この作品が完成した時、世界が終わってしまうほどの何かが起こる。そんな直感があった。
だが空気を読まない人間はどこにでもいる。
「全く、これがウェスホークの芸術のレベルとは。実に嘆かわしい。余が本当の芸術というものを教えてやらねばな」
ホーランド王子が教室に入ってきて発した第一声はいつもの上から目線の批評だった。背中に冷水を浴びせるような無粋な登場の仕方に皆が気分を害すると同時にいくらか正気を取り戻した。
ウルク元王子が教室にいる面子を代表してホーランド王子に問いかける。
「ホーランド王子。今のは少々言葉に過ぎるのではないかな、王子ともあろう人間が軽々しく他国の文化を貶すというのは。友好にヒビを入れようとしていると捉えられては君の名誉に関わるだろう?」
随分と久しぶりにウルク元王子が王子らしいことを言っている。マイナス分をいくらか取り戻しても良さそうな態度ではあったが、しかしホーランド王子の心には届かなかったようだ。
「ふん、これだから文化後進国のウェスホークの人間は。本当に素晴らしい至高の芸術というものを教えてやろうというのだ。むしろ余に感謝するがいい」
「ホーランド王子、君はもっと王子としての自覚を持った方がいい」
ウルク元王子が苦い顔で諌めるがホーランド王子はどこ吹く風。それらは自分が上位の存在であるという自信によって揺るぎない態度として現れている。
確かに、ウルク元王子の最近のギャンブルに身を持ち崩していく姿は人として一段見下しても許されそうな気はする。ただホーランド王子のそれは周りの人間全てに向けられたものだ。当然のように教室にいる人間全ての反感を買っていた。
「もしかして、それは僕の描くホビットの美しい絵画にケチを付けているのか?」
絵に没頭していたエルォウもホーランド王子の態度に怒りの感情を向ける。
しかし、ホーランド王子にとってそれはむしろ好都合。反応があれば更に煽れると口を滑らかにしてキザな態度で話しだした。
「当たり前じゃないか。なんだい、その絵は。くっく、これだからホビフィリアは。そのような幼く未成熟な裸体に興奮するなど、文化が劣っている証拠じゃないか。明日、またここに来たまえ。余が本当に美しい芸術を見せてあげようじゃないか」
ホーランド王子の口撃は止まらない。しかしそれに立ち向かう、同じ程度には気位の高い人間がこの学院にはいたのだ。
「おーほっほっほっほ。何やら人種差別的な発言が聞こえましてですわよ」
「な、何だ貴様は。チッ、コースレア家の娘か。余に濡れ衣を着せるのはよしてもらおうか。人種差別的な発言などと。ホビットに劣情を催すような人間は人格に問題があり侮蔑しても許されることは文化先進国の我がホースロアでは子供でも知っている常識だ。まあ、文化後進国のウェスホークではホビフィリアが大手を振って活動しているようだがね」
「おーほっほっほっほ、その発言こそがホークロアが人権後進国である証拠。語るに落ちたとはこのことですわよ」
「何! 余の言葉のどこに差別的ニュアンスが含まれるというのだ! 完璧に倫理面に配慮された余の発言を曲解するのはよしてもらおうか!」
ホーランド王子が身振り手振りを加えて自分の潔白と正当性を主張する。まるで訳が分からない。いつものように演技がかってはいるがその表情と声音は芯から自分の潔白を信じていることを伺わせる。
だが教室にいる皆が、ホーランド王子を除く全員が彼の言葉のどこに問題があったのか気付いていた。コーネリアスが代表して、勝ち誇った顔で指摘してやる。
「あなたのそれはホビット族への差別ですわよ。ホビットを愛することがまるで異常なことでもあるかのように言う。その言葉がホビットへと差別になるのですわよ」