4.異世界ノルスディアに転移者現る
ノルスディア大陸、剣と魔法による覇が競われたこの大地で最後の大戦が行われたのはもう100年も前のことだ。それ以降、戦争を忘れ平和を謳歌する大陸の西にその国、ウェスホーク王国はあった。
ウェスホーク王国は西ノルスディア地方で双頭の鷹に例えられる二大王国の一つだ。産業の発展にいち早く取り組んだ先見の明がその力の源であった。
そのことをよく理解している王家とその諸侯は常に次の王国の担い手がそれに値するかを厳しい視線で評価していた。その重圧を受ける王子は首都の学院で博愛と献身の精神を育み王国の未来を照らす太陽に例えられている。
そしてその傍らに静かに寄り添う公爵令嬢はその美貌と才知から月になぞらえられることも多い。
王国はまさに次の繁栄へとその一歩を悠然と踏み出しているのだ。そんな王国の首都に異世界からの来訪者が現れた。
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「やばい、このままじゃ詰む」
首都の小綺麗な通りを30代の小汚いおっさんが歩いていた。
彼の名前は定金令、つい1年前にこの異世界に落とされた元サラリーマンの現フリーターだ。今日も日銭を稼ぐため肉体労働に勤しんでいたが現代社会で必要とされる筋肉程度しか持ち合わせていない令にはこの過酷な異世界は正直きつい。今日もボロボロになるまで働いて僅かな金を握り安宿へと帰っていくところだ。
「くそぅ、未開の異世界人なんて口八丁で騙くらかして左団扇の生活が待ってると思ってたのに」
令の認識では現代の営業職で辣腕を振るった詐欺的な話術ならちょろい異世界の人間などイチコロだと思っていた。しかし、製造物責任法もクーリングオフ制度もないこの末法の世ではどこの馬の骨とも分からない令の言葉は頭から聞く気が無いようで、流石にそこまでのアウェーでは騙す入り口にすらたどり着けなかった。
結果として身元不明でも雇ってもらえる日雇い肉体労働で糊口を凌ぐ毎日が続いている。
令のお腹が空腹を訴えて鳴る。誘惑するように串肉が焼けるいい匂いが漂ってくる。だがそんな魅惑的なお誘いに乗るわけにはいかない。
駄目だ、駄目だ、この金はちゃんと貯蓄にまわさないと。
屋台へと飛んでいきそうになる財布袋をしっかりと握り締め足を踏ん張り誘惑を断ち切る。令には分かっている。この生活はそう長くは続かないということを。良い方向に変わるのではない、悪い方向へと変わるのだ。
自分の年齢と体力を考えれば早晩、無理がたたって体を壊すだろう。その前にこの生活から脱却するための何かを掴む必要がある。
そのチャンスを逃さないための貯金を令はしていた。
令がこの世界のこの首都に流れ着いたのは幸運だった。もしも、どこかの荒野の真ん中なら、いや、その辺の片田舎であったとしても自分が生き残れなかったと確信できる。
住所不定、職歴無しの中年間近の男性はいくら働き盛りとはいえそうそう雇ってくれる場所は無い。行き着く先はどこも一緒だ。誰もやりたがらないキツイ、キタナイ、クサイの3K職場。
令が現代のブラック企業で磨いた危機意識が囁いている。資格を取って転職だ、と。
猫背の令は腰巻きに隠した貯金が目立たないようにしながらのっそりと歩いていた。お世辞にも安全とは言えない安宿に置いておけるはずもなく、こうして貧乏くさい格好なら金をせびられることもないと高をくくって。一見、危険に見えるが持ち歩くのが一番安全なのだ。それは突発的な誘惑に打ち勝てればの話なのだが。
一仕事終えた肉体労働者を狙い撃ちにする串肉屋は間違いなく商売上手なのだろう。最低限の炊き出しで空きっ腹を満たした令はその通りを足早に通り過ぎようとする。
しかし、ダメだった。今日という今日はもうその罠に絡め取られそうだ。
令は自覚した。だから最後の抵抗にいつもは通らない道を選んだ。肉と香辛料が焼けるいい匂いが掻き消えるような異臭のする人が滅多に通らないその裏路地へと。
その裏路地は噂によると死体とそれを貪る異形のせいで悪臭が立ち込めているらしい。なんでも下水を根城にするネズミですら逃げ出す酷さだとかで、首都の管理をしている行政官ですらもう匙を投げているのだとか。
おかげで令の呼び覚まされた空腹は一瞬で吐き気へと変わった。しかし、その吐き気は頭痛にまで悪化していく。
「まずい、このままじゃ別の意味で死ぬ」
令は手近にあった扉のノブを握ると、それが何の建物か確認すらせずに中に入っていった。
そう、令は朦朧としていて気付いていなかった。その建物こそが立ち込める異臭の源であることを。