12.折れた剣
「せんせぇー、またネスケくんが来てませーん」
ネスケが学院に来なくなってもう三日になる。
例の一件、おおっぴらに言うには憚られる一件は学院長の事なかれ主義で今回も無かったことになった。しかし、あの日から空いた席が事情を深く知らない生徒たちにもそれなりに真実に近い噂を信じさせる根拠となった。
ネスケの評判は地に落ちている。あれだけ盛況だった剣術道場は今や枯葉が払われること無く唯一の住人となっている。あれだけ周りを賑わせていた女子生徒たちはいなくなり時折兵士長が覗きに来ては寂しそうに帰っていくだけだった。
その現実をまだネスケは知らないだろう。それは幸せなことなのか、今は誰にも分からない。
あれからネスケを見た者は誰一人いないのだから。
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令は『魔女の鷲鼻』がある裏通りを歩いていた。サリーにあのひどく臭い防鼠剤を撒くのを止めさせてから匂いの方は多少はましになった。注意深く鼻を塞いで通り抜ければまあ平気という程度ではあるが。
その裏通りの真ん中に『魔女の鷲鼻』の扉がある。
もう少し入りやすいよう小綺麗な感じに塗り替えたいところだが如何せんまだそのような余裕は無い。今は令の営業と常連客で何とかなっているので後回しにしているが機会損失を考えると早急に何とかしたいところではあるのだが。
そんなことをつらつらと考えながら令は『魔女の鷲鼻』の扉をくぐった。
「りょーさん、たいへんですたいへんです。おじーちゃんがたいへんです」
令を出迎えたのは慌てた様子のサリーだった。
言葉ほどには困った様子は無く緊急というわけではなさそうなのだが、何を言いたいのか分からない。とりあえずサリーに手を引かれるままについて行く。
つれてこられたのは店の奥、店の手前側はコンビニ並みに陳列を整えたのだが、奥のほうはまだまだ最初の頃のカオスな状態が維持されている。そんな雑多な商品に埋もれるようにしてその老人はいた。
「わしはー、もーだめじゃー。最後のチャンスだったんじゃー。若い女子ときゃっきゃしたかったんじゃー。なのになのに、あのおっぱいが焦らすから、魔が差したんじゃー」
どこかで聞いたことがある台詞、しかしそんなはずは無い。ネスケは10代の少年でこんな老人とは似ても似つかない。
……いやどことなく似ている。目元や口元の加齢で変わりやすい場所ではなく、顔の全体のパーツのバランスや耳の形、そういった顔の印象に関わる部分がいやに似ている。
令は浮かびかけた悪い予感を振り払うと明らかに酔っ払って泣き上戸になっている老人を起こす。
「ほら、じいさん、終点だよ。起きてとっとと出てってくれ」
「おじーちゃんがたいへんです、おじーちゃんがたいへんです」
サリーが相変わらず同じ言葉を連呼している。
「? もしかして、この爺さんはサリーちゃんの祖父なのか?」
「? ちがいますよ、おじーちゃんは『ゲコゲコわかガエルくん』を買ってくれたおじーちゃんです」
そういえば、そんな話があった気がする。確か第2章、剣聖の孫編が始まったときの最初の話であった気がする。そうか、そういう落ちなのか、今回は。
令は認めたくなかったがもう見ないふりも無理そうなので認めることにした。
このさっきから人間大のワラ人形に抱きついてアルコール臭い息を吐いている、どうしようもない老人が剣聖の孫、ネスケ・ネイクリッドだったのだ。いや、剣聖本人が若返りの薬を飲んで孫を詐称していたのだ。
こうして令の抱いていた剣聖の孫に玉の輿で剣術道場で左団扇生活の野望は敢え無く潰えた。
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剣聖ネイクリッド翁が目を覚ますと知らない天井が目に入った。
はて? いつものように酒場でしこたま酒を飲んで店主に蹴りだされてからどうしたのじゃったか。ああ、そうじゃ、あの魔法道具の店に行ったんじゃった。もう若返ったところでモテモテハーレムは無理じゃというのに未練なのかのう。自然とそちらに足が向いてしもうた。
その後は、なんだかちくちくする女子と酒を飲みなおして、それで―――。
「目覚めましたか」
ネイクリッド翁が横になっているベッドに一人の少女が近付いてくる。
カビの臭いが残る布団とクモの巣が取りきれない部屋の中でその少女はなお輝かしく赤い髪を揺らしていた。少女の名をネイクリッド翁は知っている。おっぱいが残念な子、もといベル・ベチカだ。
確か、生家が没落して身寄りがないとかで奨学生の寮で暮らしているという話だったはずだ。割と接点も多く例の一件では世話になったはずだが忘れっぽくなった頭には乳の小さき者に割く余分なスペースがないのだ。
「いやあ、すまんかったのう、お譲ちゃん。年甲斐もなく悪酔いしてしまってのう」
ネイクリッド翁は自分の正体を明かさずとぼけ通すことに決めた。もし万が一、ありえないだろうが自分が若返りの薬で学院に入り浸っていたことがバレるのだけは避けなければいけない。
剣聖の孫を名乗っていたのも調子に乗りすぎて自分の名前に傷がつくのを回避するためだった。いざとなれば自分の孫を騙った詐欺師の仕業と白を切り通せばいい。だからこそネイクリッド翁は大胆な行動に出れたのだ。
「ふふふっ、そうでしたか。お体にはお気をつけになったほうが良いですよ、もうお年なんですから。ネイクリッド翁」
とっさに表情筋を固めて驚きが顔に出るのを防ぐ。
剣の駆け引きではあたり前のことだが相手の出方に動揺してもそれを悟らせてはいけない。相手に情報を与えることは敗北につながる。
「これはまいったのう。ワシのことを知っているとは若いのに感心じゃ。しかし、ワシもそれなりに見栄を張らねばならぬならぬ身。このことは内緒にしてくれると助かるのう」
あくまでも好々爺の雰囲気を崩さずにネイクリッド翁は話を進める。それに対してピンと背筋を伸ばした美しい姿勢で翁のそばに立ったベルは仮面のようにきれいに笑いながら頷く。
「勿論です。そんなにご心配になることはありません。だって、当たり前じゃないですか。私達、お友達同士なんですから。
ねえ、ネスケ・ネイクリッド、さん」
油断させ、防御を降ろさせてからの喉元に迫る突き。ネイクリッドは完全に虚を突かれた。相手を見誤った、いや見誤されたというのが正解だろう。
最初にネイクリッド翁と呼ばれたことで自然と自分は剣聖であり、相手はただの小娘という認識を差し込まれた。普段のネイクリッドなら相手が何か企んでいれば息遣い、所作、視線の動き、それらから看破できた。だが剣聖と小娘という圧倒的な力量差がその当然すべき警戒を怠らせた。
「ネスケ・ネイクリッドさん。私はあなたの味方です。だから安心して。そしてこれはあなたにとって良いお話ですよ」
ベルの教本通りの洗礼された所作は彼女の胸の内を一寸も漏らすことはない。ベルの計算された口角と目尻が描く柔和な曲線は人を安易な楽観へと導くようにできている。ベル・ベチカはあらゆる情報をネイクリッドに渡さない。一方で虚を突かれ追い詰められたネイクリッドは無防備に素顔を晒している。
どちらが勝利し、どちらが敗北したのか。それは誰にでも解る問いだった。