3.剣聖の孫の活躍・モンスター編
剣聖の孫、ネスケ・ネイクリッドはベルのクラスへと編入することが決まった。
そこに他意はないのだろうが、ベルのクラスはより一層騒がしくなったことは言うまでもない。ただ、ネスケを取り巻くその中心にいるのはベルではなくコーネリアスだった。
「おーほっほっほっほ、ネスケさん。何かわからないことがあったら何でもおっしゃってくださいですわよ」
「えっ、じゃあおっぱ、いや、何でもねえよ。女が俺に話しかけてくるんじゃねえ」
ネスケは言いかけた言葉を飲み込むとどこか無理矢理に作った低音の声でコーネリアスに言った。身長差から見上げるような姿勢で凄んでみせるネスケは別段怖いというわけではない。ただ子ども扱いするわけにもいかないのでコーネリアスは反応に困る。仕方ないのでコーネリアスは腰を落とすと相手よりも低い位置で丁寧に謝罪した。
「それは申し訳ありませんでしたわ。ですがこれから共に学ぶ間柄、何かありましたら遠慮なく頼ってくださいまし」
貴族の子女として完璧な立居振る舞いでネスケに頭を下げる。その姿に周りの生徒たちは感動でため息を漏らし、思わず賞賛の拍手をする。
教室の皆がコーネリアスの堂々とした態度に見惚れている。しかしその中でただ一人、ベルだけはコーネリアスの真意に気付いていた。
しまった、まさかコーネリアスがこうも早く他の男を掴まえに行くとは。元王子と別れたのはついこの間なのだから傷心を癒すとか世間体を気にするとかそういったインターバルタイムがあるものだと勝手に期待していた。
コーネリアスを甘く見ていたことをベルは後悔したが、ここで慌てて自分もと割り込むのはいかにも浅ましい。何せベルは一応、ウルク元王子をコーネリアスから取った形になっているのだ。ここでネスケにも粉をかけていると思われるのはいかにも気まずいだろう。
そんなことを考えながらベルはネスケとコーネリアスが近づくのを指をくわえて見ていた。だからこそベルだけが気がついた。
さっきからネスケがチラチラとコーネリアスの胸部に視線を吸い寄せられているのを。
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ネスケが編入して初めての座学の授業。しかし、ネスケは剣ばかり振って来たとのことで早速、授業で失敗している。
「なるほどなるほど、ネスケ君は歴史の方は不得手のようですね」
教師が若干いやらしくネスケの答えを寸評する。
黒板に書かれた歴史的事件についての問題だったのだがネスケはあまり詳しくなかったらしく的を外した言葉しか出てこなかったようだ。
教師の指示に従い席に着いたネスケは小さく舌打ちすると教室の外へと視線を向ける。不良と呼ばれる人種にはお決まりの反応だが、ネスケの頭が周りと比べて一段低いところにあるせいか周りがネスケを怖がっている様子は無い。
ただ期待の編入生が若干残念なことに同じクラスの生徒たちも盛り下がっている様子がどことなく空気から伝わって来た。
「さあ、それじゃあこの答えを誰か―――」
「きゃぁぁぁ! ゴブリンよ! ゴブリンの群れが!」
教師が言いかけたところで学院に悲鳴が響き渡る。
いつもは静謐な学院の空気が女子生徒の悲鳴で震え、さらに続くモンスターの下劣な鳴き声で汚されていった。
「落ち着いて、皆さん落ち着いて。訓練通りに避難所に移動します。大丈夫、落ち着いてください」
教室が騒然となる。気の早い者、いや危機に敏い者は席を立とうとするが教師がマニュアル通りに生徒たちを押しとどめる。いったん席につかせ興奮をやり過ごすと避難に向けて悠長に整列させようとしている。
しかし、その流れに逆らう一人の少年がいた。
「君、勝手な行動は―――」
教師はその少年の肩を掴み、しかしその顔を見て言葉を止めた。
「どうやら俺の出番のようだな」
授業の時とは打って変わって、その視線には力がみなぎっている。
その力に押し返されるように教師が肩から手を放すと少年、ネスケ・ネイクリッドは鎖から解き放たれたように駆け出した。向かう先には4階の高さから中庭へと面した窓しかない。しかし躊躇うことなく窓を割り外へと飛び出す。ガラスの破片が騒々しく遥か下の中庭へと降り注ぎ、その中に年若い黒狼が、踊る。
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後に庭師はこう述懐している。
中庭の常の美しさはゴブリンの猥雑な饗宴に塗り替えられていた。それはあたかも貞淑な淑女が悪漢に汚されていく、そんな瞬間を見ているような胸を悪くする光景だった。
そしてそんな中庭には一人、逃げ遅れた少女がいた。真っ赤な髪、華奢な体躯、そして消え入りそうなほどに怯えた声は不謹慎ながらもゴブリンを前にしたヒロインをイメージさせ視線を外せなくなる。
そんな乙女の危機に英雄は現れた。
ネスケはその場に落ちていた折れた枝を拾い上げるとゴブリンたちへと向かう。
少女とゴブリンたちの間に降り立ったネスケは丁度、背中で赤髪の少女を庇うように立ち、その姿はさながら姫を悪漢から守る流浪の騎士そのものだった。
ゴブリンたちが下卑た声を上げる。その声の意味は人間には分からない。しかし、ゴブリンたちの役どころを考えれば容易に想像がつく。たった一人の騎士を打倒し、姫を蹂躙する。そのために上げる罵声と歓声の類だ。
ゴブリンたちにとってはまだ年若い少年一人では興奮を助長する適度な障害ぐらいにしかならない、そう思っていた。
いや、ゴブリンたちの不注意を責めるべきではないだろう、達人が気配を絶てばその足元の草花すらそこにある武の塊に気付くことなくのん気に風に揺られる。本物の強者とはそういうものなのだから。
最初のゴブリンがようやくネスケの異常さに気付いたのは彼が真正面に立ち影がゴブリンの視界を覆った時だった。いつの間に、そうゴブリンが小さな頭の片隅で思った時にはもうネスケの間合いからは逃れられなくなっていた。
ネスケが枝の先端、かろうじて尖っている先をゴブリンの胸に押し当てる。しかし所詮はただの木枝、そのまま力を入れればポキリと折れるだけの代物、常人が扱えばだが。
だが今その枝を握っているのは剣聖がその技量を認めた天才だ。
枝の先端がズルリとゴブリンの胸に潜り込む。枝は横から力が加われば容易に折れる代物でしかない。しかし、その繊維の方向一つ一つを理解し絶技をもって力を加えれば確かな感触が戻ってくる。達人が剣を選ばないと言われるのは剣の存在意義を軽んじているからではない、どのような剣にも個性がありそれを理解し扱い切る技量こそが達人の所以だからだ。
それを証明するようにゴブリンの胸に潜り込んだ枝の先端はその心臓に到達し穴を穿った。
ネスケが枝を引き抜くと、ゴブリンの空いた胸の空洞から心臓から押し出された血が一定間隔で吹き出す。ゴブリンは何が起こったのか訳が分からずその血を止めようと穴を小さな手で押さえる。しかし心臓のポンプの力はゴブリンの細い腕では抑えきることが出来ない。心臓が押し出すリズムに合わせて血の噴水が草地を湿らせていく。
トマレ、トマレ。
徐々に顔色が悪くなりながらゴブリンはそう祈っていた。人間にはその鳴き声を区別することは出来ないが、先程とは違う感情がそこに込められていることぐらいは分かる。
トマレ、トマレ。
大地の湿りが泥濘みに変わる頃、ようやく心臓が血を押し出すのを止めた。それを見たゴブリンは安心したように安らかな顔になり、そして事切れた。
次のゴブリンはけたたましく鳴きネスケを威嚇したがその喉に穴を開けられ言葉を奪われた。
次の次のゴブリンは肺に穴を開けられ呼吸を奪われた。
次の次の次のゴブリンは脳に穴を開けられ恐怖を奪われた。
次の次の次の次の……。
そうして全てのゴブリンに穴が開いた時、そこに立っていたのはネスケ・ネイクリッドと彼が守った赤髪の少女、ベル・ベチカだけだった。
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「キャアアアア」
先ほどとは違う黄色い悲鳴が学院に木霊する。ベルがわざとらしく涙など浮かべながらネスケに駆け寄り正面から抱きついた。その瞬間を校舎の窓際に鈴なりに集まった生徒たちが見守っている。彼らはまるで歌劇の一幕のようなネスケの活躍に声援を送る。
「「「ネスケ! ネスケ! ネスケ! ネスケ!」」」
その声援にネスケは右手を大仰に振り応えた。そして左手はそっとベルの体重を支える。
そして、
その瞬間、
カッコつけて窓から飛び降りた衝撃を全て食らっていた腰に激痛が走る。
悶えるネスケ、抱きしめるベル、その事に気づかない生徒たち。ただただ声援だけが学院に響く。