17.舞踏会、運命の婚約破棄
学院が誇る歴史ある講堂では夏季期末試験が無事終わったことを祝してパーティーが開かれていた。
この学院は上流階級の子弟が多く通うことからこういったコネ作りの催しが何かと機会を見つけては開かれる。今回のパーティーもその意味合いが強く、ただの学生の慰労会程度のものがウェスホーク王国を代表する貴族たちが集う政治的なイベントに様変わりしているのだ。
ベルはノンアルコールのシャンパンを傾けながら目の前の光景に気後れしていた。何やら普段では見ないようなお歴々が歓談をしている。
ベルはこれでも学科試験ではトップクラスの成績のため偉そうな貴族と何度か挨拶をしてようやく解放されたところだ。結局最後まで慣れることはなかったが、しかしいずれは慣れる必要があるかもしれない。成績と容姿を見てぜひ養子にと言う貴族もいたし、何よりこれからウルク王子と婚約するのだから。
そうだ、王子との婚約だ。
めでたいことのはずだがベルはそれを思い出し、少し憂鬱な顔になる。ウルク王子は本当にことの重大さを分かっているのだろうか?
聞くところによればコーネリアスの実家はかなりの力を持つ公爵家、そうそう簡単に婚約破棄とはいかないのではないか?
能天気な王子が心配でベルは慎重に王に根回しするよう何度も言ってはいるのだが、ちゃんと理解しているのか怪しい。ベルの今の不安は根を探せばそこに行きつく。
いや、大丈夫だろう。腐ってもあれで王子なのだ。そういった国内事情は口を酸っぱくして教えられているに違いない。無駄な心配よりももっとこのパーティーを有意義に利用しなくては。
ベルは自分が悲観的になりすぎていると思い直し、一時の間、悩みを忘れることにした。
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「お前がぁぁぁぁあ! お前が、わたくしのフィアンセをぉぉぉぉお!」
暗い室内に感情を震わせる声が響き渡る。いや、声だけではない。ザクザクと何度も何かを刺し貫く音がその声の合間に挟まることで、そこで行われている凄惨な光景への想像力を掻き立てる。
暗い室内では声と音だけが響き、わずかに見える影からはそれが女性であること以外は分からない。
ピシャ。
一瞬、窓の外が光る。続いて雷が落ちる音。その光は一度では終わらず、何度も室内を照らす。光の瞬きが女性の顔を人の脳裏に鮮烈に焼き付ける。
女性の正体はコーネリアスだった。普段の溌剌とした表情からは程遠い血の気のない顔色とほつれた茶髪が見る者を恐怖に震え上がらせる。
美しさの陽の部分が喜悦なら陰の部分は間違いなく恐怖である。そう確信させるほど、コーネリアスの姿は美しかった。
コーネリアスが立ち上がりこちらを向く。今まで見えなかった顔の半面には返り血の化粧が施されている。
観衆がどよめく。戯曲には無粋な観衆の反応が止むのを待ちコーネリアスは最後の台詞を朗々と歌い上げる。
「おお、王子。わたくしの王子。わたくしは何も怖くはありません。この世界にわたくしよりも愛される人がいようとも、あなたの愛を独占できるのは、わたくしだけなのですから」
雷の音を再現していたドラムが戯曲の最後を盛り上げるべくテンポを上げる。
照明を担当する魔術師が明滅させていた光を落ち着かせ、その輪を徐々に広げて講堂全体を照らしていく。
終劇の余韻が消えたところで万雷の拍手が主演のコーネリアスへと降り注いだ。
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やべえよ、やべえよ、やべえよ。あれ絶対マジだよ。マジで殺す気だよ。
ベルはいつも心の中でもお嬢様言葉を心掛けていたが、それを忘れるほどに恐慌で我を忘れていた。
あの時、コーネリアスが最後のあいさつのために礼をした一瞬、間違いなくこちらを見た。間違いない。絶対に見ていた。あれはお前をこうしてやるというメッセージだ。どうする? 取りあえず王子と話し合って、そうだもっと外堀を固めて万難を排してからでも婚約破棄は遅くはない。王子もあの劇を見ればそう思うはずだ。いや、一応、万が一のために、王子には念を押しておこう。うん、それがいい。
ベルは周りを見てウルク王子の居場所を探す。王子はすぐに見つかった。なにせ目立つ立場にいる人間だから。しかし、この時はさらに目立つことをしようとしていたために余計に衆目を集めていた。なぜか、王子は王の前に出て膝をついている。
まるで何かを願い出るように。
「父上、いえ、ウェスホーク国王陛下。本日は大事なお願いがあります」
「おいおいおいおい待て待て待て待て」
令が焦って地の声で止めようとする。しかし腐っても相手はこの国の王子、周りを警護する護衛が不意に近づいて来た者は例えこの学院の生徒であっても制止する。
「いや、待って、お願い、通して。ホントにやばいから。あのバカ、ホントにやばいから」
おっと、これは完全に不敬罪。
だがその様子から王子の友人と判断して護衛は聞かなかったことにしてくれたようだ。だが、温情はそこまででベルがそれ以上王子に近づくことは許してくれない。そうしている間に王子が決定的な一言を言う。
「僕はコーネリアスとの婚約を解消したい。僕は本当の愛に気付いたのです」
「なん……、だと」
「陛下、僕は真実の愛のためなら例えこの身分も捨てる覚悟です」
「貴様、貴様何を言っているのか分かっているのか……」
「はい!」
何かをやり遂げたかのように王子の表情は穏やかになり、それとは対照的に国王はわなわなと震え出す。
ベルはもう嫌な予感しかしない。なのにウルク王子の顔は何の問題もないとでも言いたげだ。
信じていいのか? いやダメだろう。ベルが足止めされている間にさらに事態は悪化する。
「そんな、ウルク王子。わたくしとのことは偽りだったとでもいうのですわよか」
「コーネリアス、君はベルに嫌がらせをしているようだね。そのような人間と一緒になることはできない」
「そんな、よよよよ」
待って、そんなことないから、全然気にしてないから。ちょっと王子、勝手に話を進めないで。
「もはやお前はこの国の王子ではない、そうしなければ無理を言って婚約したコースレア公爵に申し訳が立たん」
「ええ、その覚悟はできています。僕は王子ではなく、一人の人間としてベルと添い遂げるつもりです」
やめて、無職は駄目。王子で玉の輿がしたいの。愛とかどうでもいいの。
「そんな、わたくしは、王子を愛していたのに、ですわよ」
泣き崩れるコーネリアスに同情が集まる。
「なんて可哀そうなコーネリアス様」「コーネリアス様にはアホかわいい魅力があるのに」
別段、略奪愛を成功させたベルに白い目が向けられるわけではないが、ベルはいたたまれなくなりすごすごと退散することにした。そしてウルク王子、いや元王子といえば、自分の願いが聞き入れられたことに満足し、周りの状況を理解することなくベルを追っていったのだった。
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コーネリアスは馬車に乗り首都にある邸宅へと戻ってきた。コーネリアスの実家であるコースレア公爵家からは親族は誰も来ていない。今は領地の農園の租税をまとめるので忙しいのだ。一人娘の扱いとしては冷徹にも思えるが、コーネリアスは気にした様子もない。
侍女たちが礼をして迎える廊下をコーネリアスは黙したまま足早に通り過ぎる。向かう先は自分の部屋、結局一言も発することなく自室に閉じこもった。
既に、先ぶれによって事情を知っている侍女たちは何も言わずお嬢様の神経を逆なでするような干渉を避けた。
コーネリアスの広々とした部屋には誰もいない。
普段から着替えも手伝わせず立ち入りを制限しているこの部屋はコーネリアスが唯一安心して心をさらけ出せる場所だ。そんな場所でコーネリアスは今までの沈痛な表情を崩して誰にでもなく言った。
「シャアッ、やっとあの無能から解放されっぞ、オラッ」
拳を握り高々と突き上げたその姿はまるで試合に勝った投手の様に晴々とした覇気に満ちていた。