10.没落貴族令嬢ベル・べチカは挫けない
ベル・ベチカの朝は早い。
長らく使われることのなかった古ぼけた寮は水道などという気の利いたものは無い。そのため、ベルは朝起きるとまず近くにある共有の井戸から水を汲むことから一日を始める。
朝食として買い置きしてある保存の効く固いパンはコンソメスープでふやかしながら食べる。農家が届けてくれる週に一度の新鮮な牛乳はなるべく早く飲み干さなければいけない。煮沸殺菌などが出来る設備のないこの世界では傷んでいくスピードが現代とは比べ物にならないのだ。
台所に火を入れるのは夕食のときだけ。燃料だって安くはない。夕食時になるべく傷みにくい物を作り朝食にするのが最も効率がいい。後は昼食用に焼きそばをパンに挟めば準備の半分は終わりだ。
次は身だしなみを整えるところから始める。
今までのベルは学生服の上から丈の長いクロークを着ていた。誰かに見られた時にいつも学生服であることを訝しまれないようにだ。
何か聞かれれば貧乏だからで通すしか無いが、その結果洋服のプレゼントをされると断りきれずに詰む可能性が高い。この魔法の学生服を脱いでしまえば薄幸の没落令嬢ベルは一瞬で30代男性に変ってしまうからだ。
だからこそなるべく中の学生服を見られないようにしているのだ。
ベルは寝る時以外は常にこの学生服を着ている。もし万が一ベルの正体が見られようものなら、下手をすれば処刑されかねない。
とはいえ、この学生服も完全ではない。あくまでも外見が美少女に見えるだけで中身はおっさんのままだ。身長差や歩幅等のどうしても誤魔化せない部分はどうやら魔法の力で違和感を感じないようにさせているみたいだが、それでも最低限の身だしなみは整えておかなければ、何が原因でバレるか分からない。
ふと、気付き、ベルが足を触る。スカートから覗いた足は白磁のように艶やかな光を放っているがベルが触った感触はさわさわと草ムラのようにくすぐる何かがある。
ベルは何かを悟り、桶に溜めた水を贅沢に使って支給されている石鹸を泡立てると足に塗りたくる。そして、よく切れるカミソリで注意しながら足先から太ももまで丹念になぞる。
今まで見えていなかった黒いものが桶の水に浮いている。ベルはそれを誰にも見咎められないようにこっそりと庭に捨てた。
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「おーほっほっほっほ、何だかまた貧乏くさい匂いがしますですわよ」
「ごきげんよう、コーネリアス様」
わざわざ隣のクラスから難癖をつけに来たコーネリアスにベルは律儀に挨拶をする。コーネリアスの高笑いで始業が近いことを知った他の生徒達は次々に自分の席に着き教師がやってくるのを待つ。必然的にベルの席の前に立つコーネリアスだけが一人目立つ格好になっているが彼女はそのようなことは一つも気にしていないようだ。
(流石は悪役令嬢だな。肝の太さが違いますわよ)
相変わらずお嬢様の言葉遣いに慣れないベルは心の中でも練習しながらコーネリアスの胆力に賞賛を送った。
しかし、それを表に出すわけにはいかない。あくまでも貧しく健気な美少女ベル・ベチカを演じなければ玉の輿に乗る計画は完遂できないのだ。
「申し訳ありません、コーネリアス様。皆様をご不快にしないようできるだけ時間をかけて洗っているのですが、皆様のように香水を買うお金もなく」
「違いますわ。なんだか、こう、そう館の中年庭師のような匂いですわよ」
「ぎくー」
てっきり滅多に洗うチャンスのない魔法の学生服の匂いを言っているのかと思っていたがそうではなかったらしい。
学生服にかけられた魔法により容姿だけでなく声や体臭といった違和感は感じないはずなのだが流石は悪役令嬢、なにかこう女主人公をいたぶるための特殊な能力で魔法の力をねじ伏せたのかもしれない。
「やあ、コーネリアス。君も来ていたのかい?」
「ウルク様、どうしてここにいるのですわよ」
コーネリアスが慌てた様子で王子を見返す。どうやらコーネリアスはウルク王子が学院に来ていないと思っていて、ベルに堂々と嫌味を言っていたようだ。
「ふう、たまたま親善試合の予行演習が早く終わったんだよ。しかし、コーネリアス、まさか君も僕と同じものを狙っていたとはね」
「? 狙ってとは、何のことでございますわよ?」
「ふふふ、ごまかしても無駄だよ。お見通しさ。君もあの焼きそばパンに夢中なんだろ」
ウルク王子は大きく足音を鳴らし右手をまっすぐコーネリアスに伸ばすと、その人差し指で眉間に触れる。
育ちの良さを思わせるピンと伸びた背筋と丹精に整えられた容姿も相まってその仕草は人々の目を引く。
「ひっ」
コーネリアスはベルをいびっていた後ろめたさからウルク王子から打たれるのではと、とっさに目を閉じ両手で顔を守ろうした。しかし、ウルク王子はそんなコーネリアスには関心が無いらしくそのままベルの元へと向かった。
王子は席に座り縮こまるベルの肩にそっと手を置くと顔を寄せる。王子の金色の髪がベルの赤毛に触れそうなほど近づきベルの心音が跳ね上がる。そのまま王子の鼻がベルの髪の寸前で止まり、そこで息を吸い込んでいる。
「僕には甘い香りしかしないよ、ソースの」
ウルク王子はベルを安心させるように微笑みながらもう一度彼女の髪に鼻を近づける。それは決して冗談を言っているのではない真剣に語りかける仕草だった。
まあ、実際はおっさんの加齢臭なのだが。おそらくはウルク王子の思い込みから別の甘い香りが連想され、魔法の力によってその匂いが実際にしていると思わせているのだろう。
ちょっと申し訳ない気持ちと、もし万が一ここで魔法が解けたらどうなるのかという恐怖でベルはウルク王子に返事をすることが出来なかった。
「きー、覚えてらっしゃい、ですわよ」
コーネリアスはそんなベルの態度がウルク王子に恋する乙女の戸惑いと感じたのか嫉妬に狂う心情をよく表した言葉と態度で走り去っていく。
(本当に、惚れ惚れするぐらいの悪役令嬢ぶりですわぞ)
ベルは心の中でコーネリアスを褒める。
「それじゃあ、僕も自分の教室に戻るよ。ベル、本当に君からはいい香りしかしなかったよ。じゃあ」
自然な態度で人を魅了するウインクをしながらウルク王子が去っていく。真実を知っているベルは複雑な心境が顔に出ていたがとりあえず手を振って応えた。
「おほん、それじゃあ出席を取るぞ」
既に教壇に立ちいつになったら教室の後ろで行われている痴話騒動に決着がつくのか待っていた教師が咳払いをする。生徒たちも口を挟むわけにもいかず、ただ前を見て聞き耳を立てていた。
そこで初めてベル・ベチカは気付いた。
(もしかして、私、浮いてますわぞ?)