1.30代サラリーマンの平均的休日
「ベル、君はなぜ僕を頼ろうとしない。僕は確かにこの国の王子だ。だが君のためなら…」
王子の綺麗に切りそろえられた金髪がおでこに触れそうなほど近づく。そして前髪と同じ色の瞳が意志の強さを伝えるようにこちらを覗き込んできている。
「それは無責任なのかもしれない。しかし、僕は思う。大切なものを守れない人間に国を背負う資格があるのかと。偽りの愛に従うことが誠実なことなのかと」
王子との距離があまりに近すぎて思わず後ずさってしまう。しかし、それで王子の情熱が揺らぐことはない。王子が離れた分をすぐに詰め寄りベルは壁際に挟まれる。
「嫌か?君に嫌われるのは怖いな。他のことなら何も怖くないが、それだけは耐えられそうにない」
一転して、王子が弱気な態度を見せる。さっきまで強気だった態度とのギャップに心がぐらつく。王子のきめの細かい絹のような頬に赤みが差し近づいてくる。王子の唇が額に触れようとしている。壁に抑え込まれるように王子の両手が逃げ場をふさいでいる。
○「やめて!私とあなたの身分差じゃ幸せになんて…」
×「……」
△「鼻毛、出てますよ」
□「好き、めちゃくちゃにして」
▼▼▼
これは、実質二択だな。
令は無精髭を撫でながら画面を見つめる。選択肢の裏に表示されているCGは今攻略しようとしている王子の顔のアップだ。間違いなく鼻毛は出ていない。そして、これはあくまで乙女ゲー。18禁につながる選択肢は御法度だろう。いや待てよ、詳しい描写を省いて朝チュンならありうるのか。だがそれにしたって□の言い方は露骨に過ぎないか?
令は喉の渇きを感じて、座卓の上の缶ビールに手を伸ばす。だが持ち上げた缶の軽さに中身が無いことをすぐに理解した。
どうしようか、まだ昼間なのにもう3本目だ。いや、いいだろう、折角の休日だ。日頃のストレスを発散するためだと言えば30代の肝臓も我慢してくれるだろう。
令は都内の健康器具メーカーで営業をやっている30代の中年に足を突っ込んだ男だ。倫理観などかなぐり捨てて効果の怪しげな商品を小金持ちの成金共に売りさばく。理不尽なノルマと戦うためには自分も理不尽になるしか無い。まともな神経を持った同僚はとうに辞めてしまい、当然そんな状況では後輩も育たない。必然的に戦うべきノルマは更に強大になり、共に戦う味方はどんどん数を減らしている。
そんな未来の見えないストレスを抱える令の唯一の癒しが休日の乙女ゲーだ。最近は同人サークルから出ている昔ながらの直球ストーリーがお気に入りだ。あまりひねられるといつまでも目的の男を攻略できずに逆にストレスになるからだ。そういう意味では、最近見つけた同人サークルは当たりだったな。レビューが0件で不安だったが、なかなかどうして世界観も作りこまれている。まるで現実の世界を参考にしているみたいだ。
令としてはリアリティは重要だ。女主人公に感情移入するためではない。別に令はイケメンに口説かれたい願望があるわけではないのだ。令は全く逆の想像をして楽しんでいるのだ。
こいつ、こんなに真剣に口説いてるけど中身がおっさんだって知ったらどうするんだろ。
酔っぱらってふらつきながら立ち上がると、4本目を取りに冷蔵庫に向かう。
さっきから人生の全てを投げ打って一緒になろうとしているのはおっさんなのだ。これからおでこにキスしようとしている相手はおっさんなのだ。イケメンが美人の許嫁を捨てて選んだのがおっさんなのだ。
こんなに愉快なことはない。
令は若干、人の悪い笑みを浮かべる。まあこれくらいの悪趣味は普段の受難を考えれば神様も見逃してくれるだろう。令は冗談交じりにそう考えた。
令が足元の確認をおろそかにしながら、ふらつき歩く。焦点は独身用の小さな冷蔵庫にしか合っていない。そんな中、まるで令の目を盗むように空の缶が静かに転がる。
冷蔵庫まであと三歩。ビールが喉を通り過ぎる爽快感を思い出し令の喉が鳴る。
冷蔵庫まであと二歩。缶の転がるスピードが不自然に速くなる。
冷蔵庫まであと一歩。令が冷蔵庫の扉に手を伸ばす。その一歩の先に缶が割り込む。まるで狡猾な罠のように。
「お?」
口から出たのは、驚きで頭が真っ白になったとき特有の何の意味もない言葉だった。できるならもう少しましな、かっこいい一言が言いたかった。30余年生きてきた集大成の言葉になるのだから。
▼▼▼
「夕方のニュースです。本日、昼頃に都内のアパートで男性が死亡している状態で発見されました。隣室の住人により何か大きな音がしたと管理人に連絡が入り、警察立会いのもと部屋を調べたところ、この部屋の住人と思われる男性の遺体が発見されました。警察関係者によると男性は頭部を机に強く打ちつけ死亡しており警察は事件、事故の両面で……」