自分さがし =けんじ=
『ゆうすけ君、行っちゃったわね…』
電車を見送りながら、母さんが言う。
俺は黙って頷いた。
『なーんか、ここに来た頃の事を思い出しちゃったわね。』
大きく伸びをしながら、母さんが言う。
俺たちがここに来た時も、冬だった。
はじめはこの美しさと寒さに、圧倒されたっけな…
『さて…と、帰りますか。』
俺たち2人は、家路についた。
「この世界」に来た頃を思い出しながら…
『おい、沖』
衣川課長の怒号が、部屋中に響く。
『お前、こんな報告書もろくに書けねぇのか!誤字脱字だらけでよぉ?文章も長ぇし…やる気あんのか?』
…そんな事は無い。
規定に沿って、フォーマット通りきちんと報告書を上げた。
実は田本係長にも目を通してもらって、完璧とのお墨付きを貰っていた。
誤字脱字も、システム上ひとつもなかった。
理由は分かってる。
人前で俺を叱り飛ばす事で、俺を貶めたいだけだ。
数ヶ月前、俺の任されたプロジェクトが大成功した。
ただ、普通表彰されるのはその部署の最高責任者なのに、その時に表彰されたのは俺だった。
肩書きも役職もない、年数だけが経っている俺。
社長は知っていた。
衣川課長がプロジェクトを管理せず、田本係長や俺に責任を押し付けて、自分は「接待」と称して遊びほうけていた事を。
それも、無理矢理相手を「招待」して。
その見せしめで、はじめは田本係長が表彰されるはずだった。
…でも、表彰されたのは俺だった。
どうせ、田本係長が「自分は衣川課長に目をつけられたくない」とでも思って、俺に表彰を「押し付け」たのだろう。
あの表彰から、課長のパワハラが酷くなった。
前からパワハラはあったが、耐えうるものだった。
でも、今は…理不尽過ぎる。
理屈や道理が通っていない。
仕事だぞ?
学生じゃないんだ。
でもこの男には、その「理屈」や「道理」が通らない。
上長達は全く動かない…いや、動けない。
部長や…社長さえ、衣川課長を黙認している。
この部署に配属される前から、まことしやかに囁かれていた噂。
『この会社の裏ボスは、衣川課長らしい。』
俺は気にも留めていなかったが、どうやら噂は本当だったらしい。
理由は知らない。
知っても、どうしようもないからだ。
ただ一つ言えるのは、俺の居場所は、もうこの会社には無いという事だけだ。
家に帰ると…
母親が父親に殴られていた。
意味もなく殴られていた。
父親は、高度成長期に小さな町工場を立ち上げた。
そして丁度高度成長期に乗っかって、仕事は順調だった。
工場を拡大する事は無かったが、俺も何不自由なく大人になった。
ただ、俺は不器用で、繊細な技術を要する父親の仕事を受け継ぐ事は出来なかった。
バブル崩壊後も何とか持ち堪えていたが、リーマンショックと前後して、変な投資話を信じ込み、大金を失った。
工場も、熟練した職人達も乗っ取られ、手元に残ったのは、僅かばかりの退職金だけだった。
その日から父親は酒に浸り、意味もなく家族…特に母親を殴った。
一人っ子の俺は、その日から家族を支えるため、社内でも給料の良い今の職場に異動願いを出した。
…衣川課長の話を聞いたのは、異動願いを出した後だった。
今思うと、異動願いが快諾され、直ぐに辞令がおりたのは、もしかして「生贄」を欲していた衣川課長の一声だったのかもしれない…
母親が、2階に上がってきた。
ボロボロに破かれた服…あちこちに出来た痣…
年老いた妻をレイプする夫なんて、最低だ。
『けんじ…母さんが居なくなったら、父さんの事、お願いね…』
呆然としていた母親が呟いた。
…死ぬつもりだ。
直感的に理解した俺は…
『母さん、家出しよう』
反射的にそう口をついて出ていた。
次の日…
辞表とセキュリティカード等借りていたもの一式を持って、会社の人事部へ行った。
規定違反だの、礼儀がなっていないだの、散々罵られたが、死を覚悟した人間からすると何でもない事だった。
最寄りの駅に着くと、母親が2人分の荷物を持って待っていた。
『何が必要か分からないけど…とりあえず…』
母親はそう言った。
母親も薄々気づいていただろう…
この旅の終着は「死」である事を…
電車に揺られ、暫くすると異常な眠気に襲われた。
…寒い…
ゆっくり目を開けると…
辺り一面、美しく輝く銀世界だった。
乗り換えた覚えはないが、電車のシートも、ボックス席に変わっている…
母は、俺にもたれて寝ている。
『…母さん』
優しく揺すり起こす。
眠そうな母は、ゆっくり体を動かした。
そして…寒さを感じ、窓の外の風景を見て
『…ここどこ?』
未だ夢の中にいるような声で、母が言った。
『お目覚めになりましたか?』
通路から声がする。
見ると、1人の女性…俺と同年代くらいの女性が…声を掛けてきた。
『あの…すみません、ここ、どこですか?俺たち東京から来たんですが…』
と尋ねると
『…ここは、傷付いた人が集められた世界です。』
女性は、そう答えた。
『傷付いた人の集まる世界…』
事態が飲み込めない…
死んではないようだが、さっき電車に乗り込んだ世界とは違うようだ…
『ここは、元の世界で他人から傷つけられた人々が集められる世界。逃げたいとか、死にたいとか…そういう願望がある人々が集められるので、住んでいる人達は みんな優しいんです。』
『じゃあ、あなたも…』
俺の質問に、俯きながら女性が話し出す。
『私は、小学生の時にここに来ました。
当時は、ちょうどバブルがはじけて、大量に解雇された時代で、父も解雇されました。
それまではある程度裕福だった生活が、一気に貧しくなり…それは、両親が貯金せず見境なくお金を使いまくっていたのもあるんです。
生活が立ち行かなくなったのを知った両親は「生活保護を受けるより、死んだ方がマシだ」と考えたようで、私たちに睡眠薬を飲ませ、1家心中しようとしたんです。
危険を察した私は、睡眠薬を飲んだふりをして、親に見つからないように家を飛び出しました。
電車の最低運賃しか持っていませんでしたが…逃げなきゃ…と思って…
気がついたら、ここにいました。
今は、ここで知り合った「両親」の元で生活しながら、農作業をしています。』
そんな事って、実際にあるんだな…
身勝手な親の巻き添えにならなくて、本当によかった…
『私達も…死のうとして、電車に乗ったんです…』
母が俺達の事を話し出した。
一通り話し終えたところで、女性を見ると…
…泣いていた。
『本当におつらかったですね…よく頑張りましたね…』
泣きながら、母を抱きしめてくれた。
なんて優しい女性だろう…
久しぶりに、俺の心臓が高鳴り、顔が赤くなってきた。
…恋?
まだ何も知らない相手に恋するとは…学生みたいだな…
でも、俺は彼女に釘付けになった。
『そういえば、名前を伺っていませんでしたね。私は なおみ。苗字は今は「裏田」といいます』
『私は沖かなえ、息子のけんじです。』
母が名乗ると…
『沖…けんじ…』
急に彼女…なおみさんが考えこんだ。
『出身の小学校、聞いてもいいですか?』
『区立第五小学校です。』
『3年生の時、何組でしたか?』
『3組…ですけど…』
『……………けんちゃん?』
『…………?????』
『私の事、分からないか…そっちの世界では「山垣」っていう苗字だったんだけど…』
『山垣…』
俺の思考がグルグルと音を立てて回転する。
『…なおちゃん!なおちゃんか!』
山垣なおみ。
俺が小3の時、忽然と姿を消した少女。
というか、山垣家の1家心中の話は、街でもかなり噂になっていたから、俺はてっきり「なおちゃんも死んだ」と思っていた…
…そして、俺の初恋も、その時に終わった。
『…なおちゃんが生きてた…』
母も腰を抜かす。
『おばさん、お久しぶりです。』
なおちゃんが母をまた抱きしめた。
『なおちゃん、苦しい!苦しいわよ!』
母は、笑いながらなおちゃんを引き剥がした。
俺たちは、さっきまで死のうとしていた。
それが今、この美しい世界で生きていて、さらに「なおちゃん」に再会している…
なんていう事だ…
『けんちゃんも、おばさんも、今はまだここに居場所がないんでしょ?なら、うちにおいでよ!
父も母も、とりあえずこの世界に来た人を家に泊める事は慣れてるし、もし元の世界に帰りたかったら、帰り方も分かるわよ!』
俺たちは、なおちゃんの誘いを快く受けることにした。
『…ただいま…』
家に着くと、鍋の匂いがしてきた。
『おかえり〜♪寒かったでしょ〜?』
なおちゃんがスリッパをパタパタさせながら、迎えに出てくれた。
あの後、俺となおちゃんは結婚した。
籍は「裏田」になった。
俺の母は、同じ敷地内に小さなログハウスを建てて住み始めた。
それでも夕食は、必ず俺たちと一緒にとるようになった。
『パパァ!おかえり〜!』
『ぱぱぁ、おかーりー』
カンタとみゆが、俺に抱きつく。
『ただいま』
2人をギュッと抱きしめると、
『パパもギューーーーーっ!』
カンタが抱きついてきた。
首に巻きついた息子の腕の意外な力に
『ぐるじい…パパ…死んじゃう…』
わざと苦しがると
『ごめんごめん、ごめんなさい!パパ、大丈夫?』
涙目になるカンタ。
ニッコリ笑って
『大丈夫だよ!』
というと、カンタはホッとして、今度は優しくギュッとしてくれた。
『けんちゃん、お客様なんだけど…』
俺を客間に誘うなおちゃん。
戸を開けると、そこには…
『…田本係長…』
『…よぉ…』
白髪だらけの、背筋の丸まった田本係長がいた。
俺の記憶が間違っていなければ、係長はまだ50そこそこ…老け込む歳でもないはずだ。
『10年振り…だな。』
声にも覇気がない。
…そして、なおちゃんが気を利かせて日本酒を出してくれてたのか、もう出来上がった状態だった。
『よくここが分かりましたね。』
わかるわけが無い。
ここは傷付いた人の集まる世界なんだから。
『俺も死のうとして…気づいたら、お前の義理の親父さんて人に介抱されてた。』
お義父さんが…田本係長を介抱したのか…
田本係長が口を開いた。
『お前が会社を辞めた後、うちの部署がぐじゃぐじゃになったんだ。
…いや、お前のせいじゃない。先にそれは言っておく。
衣川課長の不正の件が、お前の退職と同時に明るみに出てな。
今までは揉み消して来たんだが、今度ばかりは株主の耳に届いてしまってな…誰かが株主の主だった人にリークしたらしいんだ。
衣川課長は、実は大きな取引先のお偉いさんの息子でな、その取引先とは衣川課長の雇用と引き換えが条件で続けていたんだ。
今考えりゃ とんでもない話なんだが、先代が取り付けた条件だから、こっちも条件をのむしか無かった。
ただ、お前があの部署に来るのと前後して、社長が替わっただろ?
で、あの社長がそういう「コネ」とかを嫌う「実力主義者」だったもんだから、まず衣川課長が目に付いたって訳だ。
そして、お前の退職…社長は今でも悔しそうに話すんだよ、何であの時、お前を引き留められなかったんだろう…って。
それだけ、お前は社長に買われてたんだな。
そんなお前を守れなくて…ごめん。
話を戻すと、お前の退職が後押しとなって、衣川課長を更迭…島流しする事が決定した。
ほとんど人の住まない島の営業部。本当の「島流し」だ。
例の取引先も、はじめは息子への制裁に怒って、契約を実際に打ち切ってきたんだが、本当の理由を知って、元通りとは行かないけど、八割方は取引が元通り行えるようになった。
俺は、もしあの時俺が授賞式に出ていたら…もし課長に圧力をかけられた時にその勇気があったら…今でもお前があの部署にいて、社長のもとで本領発揮出来てたのにな…って…そんな考えに苛まれるようになって…鬱になったんだよ…
胃に穴が開いて、1ヶ月入院して…そのまま、退職した。
退職金も辞退してな。
今は、預貯金と、妻の収入で何とかなってる。
息子二人も大学卒業して、独り立ちしたしな。
でも…くるしくてな。
今でも課長に怒鳴られるお前が夢に出てくるんだよ…それでも毅然としてるお前が…
お前、あの時は家でも大変だったんだってな、知らなかったよ…
そういえば親父さんは、施設に入って世話を受けてるらしい。安心しろ。』
…わざわざそれを言いに?
…いや、違う。
田本係長も「苦しんでいた」んだ。
相当苦しんでいた。
胃を壊し、精神を壊す程に…
俺は、田本係長への冷たい気持ちを悔いた。
『係長、本当にすみませんでした…俺、ずっと係長の事…』
そう言いかけた時
『…いいんだよ。きっと、俺は今日、沖に…あ、今は「沖」じゃないのか…ま、いいや、お前に会うために生かされてたのかもしれん。
沖、本当にごめんな、こんな先輩で…』
そう言うと…
パタリ
田本係長…いや、田本さんは倒れてしまった。
いびきをかきながら…
『…疲れてたのね…』
気づくと、なおちゃんが田本さんに毛布をかけていた。
田本さんは、これからどうするのだろう…
…いや、田本さんの"奥さん"は、どうしているだろう…
帰らぬ夫を心配していないだろうか…
『けんじ、おかえり。』
義父が戸の向こうに立っていた。
『お義父さん、まだ電車って動かせますか?』
『…お前、父親をこき使うんか?』
義父は笑いながら、文句を言った。
『まぁ、この人を奥さんの元に送り届けんと いかんからなぁ…』
義父は頭をかくと
『どのくらい時間を戻すんだ?届け先は?』
『阿佐ヶ谷駅付近に、今日の16時30分前後で。』
『了解。』
そう言うと義父は
『由美子ぉ!ちょっと けんじにコキ使われて来るわァ!』
大声で義母にそう伝えると、田本さんを担いで笑いながら出ていった…
『さ!じいじはさっきご飯だけ食べたから、私達もご飯にしましょ!』
なおちゃんが言った。
…義父は、田本さんを送り届ける事を、はじめから計算に入れていた…
義父の思慮深さに改めて尊敬の念を抱きつつ、食卓に向かった。