完結出来ない人は志しが高すぎる
エタることは悪いことではない、というのが私の持論です。
人気が出ない小説にしがみつく必要はない。
ブクマも評価もされないなら、見限ることも大事だ。
一度始めたことは何が何でも最後まで書ききれ、なんてのは無責任な綺麗ごと。
駄目なものはどうあがいてもダメ。
潔くあきらめて、また別の小説を書き始める。
執筆者の時間は限られている。
応援してもらえないものにこだわる必要は全くない。
そう思ってます。
しかし翻って。
何度長編小説にチャレンジしても最後まで書ききったことが一度もない人。
“書かない”ではなく“書けない”という人。
そういう人は、エタってはいけない。
何が何でも書ききらなければいけない。
人気が出なくても、読まれなくても、矛盾に気付いても、グダグダになっても、話が思いつかなくても、とにかく岩に齧りついてでも完結を目指して欲しい。
それは読者のためではなく、自分の能力を伸ばすために。
長編小説を書ききる、というのは、これ以上ない経験になる。
知識ではなく実感として「小説を書く」ということの意味が分かる。
そして何より、自分の未熟さを知ることが出来る。
最後まで書ききれない人の特徴は、“自己評価が高い”ということがあげられるかと思います。
ただこれはちょっと意地悪な言い方で、もっと柔らかく言うと“志が高い人”。
傑作が書きたいのになんだこの小説は。
もっと壮大な話が書きたいのに、なんでこんなしょぼい展開に。
俺はもっと出来る。
構想ではものすごい名作が出来ているんだ。
あとはこれを具現化するだけでいいんだ。
今回は失敗しただけ。
実は次のプロットも考えてある。
また一からそれに手を付ければ、今度こそ誰もが涙する名作がかける――
こういう考えはまるで駄目です。
誤解を恐れず言うなら。
面白い構想やワクワクするアイデアだけなら誰でも出せます。
プロというのは、“それを商品として具現化出来るから”こそすごいんです。
もう一度言います。
素人の“アイデア”だけには、何の価値もありません。
これ面白いんじゃない? なんて思いつきは小学生でもできます。
この感覚は、書ききるまで実感が得られません。
なぜなら、途中でやめてしまう人というのは、“自分が書きたいところだけ書いている”からです。
長編小説というのは、『自分が書きたい場面』『自分が得意な場面』だけで構成されてるわけではありません。
苦手なシーン。
書くのが億劫なシチュエーション。
そういうものも書かなくてはいけない。
そしてそれが書けるかどうかが、その人の“本当の実力”ということになるかと思います。
繰り返しになりますが。
10万字以上の長編を一度、完結させましょう。
すると、いかに“書ききる”ということが難しいか、ということに気付けます。
出だしはみんなかけるんです。
それは、みんな書きたいシーンから始めるからです。
書きたい場面だけ書いて、苦手なシーンが来ると行き詰まり、思っていたように書けず、途中でやめてまた一から書きたいシーンから始める。
このループを抜け出したい人への助言は、一つです。
名作・傑作を目指すのはやめましょう。
理想が高すぎると、筆が止まります。
なんてしょぼいんだ、こんなの俺の小説じゃない。
そう思って、やり直したくなります。
でも、その“しょぼい”のがあなたの実力なんです。
どうせしょぼいんだから、しょぼく書いてやる、というつもりで書き進むんです。
そして、そのしょぼい中での“最善”を目指して書くんです。
この作業は最初は屈辱です。
恥ずかしいです。
自分の能力のなさと向き合う、とてもしんどい作業です。
しかし、これが出来ない人は小説書きに向いてません。
というより、創作自体に向いてない。
ものを創る、というのは、自分の恥と向き合い、人に恥を晒すことですから。
描写だのストーリーテリングだの、そう言った技術の向上はそれから先の話です。
書き始める→息詰まる→エタる→また最初から始める のループに陥って、一度も完結させたことのない人は、まだ物書きとしての土俵にすら上がってません。
自分に才能があるかないか、の判断は、一度でも長編を書ききってから測るようにしましょう。