06:目が覚めても異世界
秋は意識が浮上してから頭が覚醒するまでに、比較的時間を要する。しかしながら暫しすべすべのリネンを堪能して、違和感を抱いたところでそういえばここが異世界(仮)であったことを思い出し、はっきりと目覚めた。
それでもなんとなくまだ夢の中にいるんじゃなかろうかという気が拭えずに、上体を起こして少しぼんやりとし、しばらくしてようやく顔を洗ったところで扉がノックされた。
「はい」
『おはようございます』
誰と問うまでもなくユリアさんだ。タオルを手渡してくれた。ふわふわもこもこで、現代の技術でもこれを作るのは難しいんじゃないかと思う。しかも化学繊維じゃないんだよ、多分。
敏感肌用とかいう謳い文句で売り出したら飛ぶように売れそう。
わたしがタオルを堪能していると、ユリアさんは次にクローゼットを開けて、なんとドレスを取り出してきた。
『マリナ様は緑がお似合いになりますね。最近は流行らないのでこれしかありませんけれど、宰相に掛け合って他にも用意させますわ』
要はこれを着ろってことなんだろうな。にっこり、という効果音がぴったりな笑みを披露してくださったユリアさんに、私は抗う術を持たなかった。
ドロワーズって言うの? シュミーズだっけ? ユリアさんの手伝いの下、なんだか非現代的な下着を身に着ける。すごいレースだ。これ全部手編みなんだろうが、それが大変恐ろしい。これで何人の庶民がご飯を食べられるんだろう。
次から下着くらいは自分で着たいけれども、このレースに爪を引っかけずに着れる気がしない。コルセットは気を遣っていただけたようで、そこまでキツくは締められなかった。ありがてぇ。
ドレスというと夜会のイメージなんですけど昼間から着るんですか。光沢のある生地が使われていなくて比較的落ち着いたデザインなのは幸いだ。こんな私でもこの服を着れば、どこぞのお嬢さんといった雰囲気を醸し出すだろう。馬子にも衣裳である。
薄化粧を施してもらい、朝食を摂ることになった。なったのだが。
……私はそれを朝食だと認めることはできなかった。これはランチじゃないのか? あるいはブランチ?
まあ、私は朝からでもカレーだろうとトンカツだろうと食べられるので、問題ないけど。なかなか豪勢だ。例えがちょっと悪かったので訂正すると、がっつりしているんじゃなくて、とにかく量が多い。
チキンに似た肉の入ったサラダ、野菜のスープ、ベーコンぽい肉、果物盛り合わせ、カリカリの巻パン二つ。もちろん残さずにいただきました。味に関しては正直慣れである。二食目なのでまだ慣れるには至らないが。
朝食後、私がお茶を飲み切るとユリアさんは、食器をのせたカートを押して出ていった。その間に昨日貰った羊皮紙を取り出す。今日聞いた分を覚えている限り書きだすと、もういっぱいいっぱいだ。
戻ってきたユリアさんが私の手元を見てまた出て行った。そして紙の束を持って戻ってくる。
『どうぞ、お使いください』
「あ、ありが……コルマフエタ」
あっさりと受け取ってしまったけれど、これ紙だよね。昨日のとはちがう質感。中世ヨーロッパは……十五世紀ぐらい……? 日本だと安土桃山とか江戸はじめあたりかな。あの時ってどうなんだろ。江戸時代には寺子屋があったから時期の近い安土桃山時代も、庶民は紙を使えたかも。
私は理系だったから日本史は中学校で習った範囲しか分からないわけで。世界史は高校一年の時に受けたけどフランス革命以降からだったし、理系って決めてたから真面目に受けてないわけで。
あまり高価なものをホイホイ貰うわけにはいかないので精一杯考えるけれど、分からないものは分からない。
そういえばペンとインクも普通に使ってたけど、インクの原料は何だ? 日本人だから忘れてしまいそうになるけど、昔のヨーロッパでは羊皮紙を使っていた。墨を元にして考えるとススと水と、あと羊皮紙は紙と違って水を吸わなさそうだしのりも入っているかも。
それにしても羊皮紙って動物から皮を剥ぐ工程は全部手作業だから高そう。いや、ヴォイニッチ手稿が二百枚くらい羊皮紙使ってるくらいだしそうでもないか。でも成立時期が違うかな。くそう、エセ中二病を呪うぜ。
ここに来る前に見た街を思い出す。本屋はあっただろうか。シルクロードの存在も踏まえれば中世ヨーロッパのどこかしらの時代には既に、紙が存在していただろう。江戸時代の日本人の識字率は世界トップクラスなので、つまり中世ヨーロッパの庶民は日本人ほど文字の読み書きができない、つまり紙も庶民には普及していない? この世界と私のいた世界には大きな違いが無さそうなので、この国でも然り。
庶民には普及していないけど存在するってことは、めちゃくちゃ高級品ってことだから……。色々想像すると気が引けるけれど、無いと困るので有り難く頂戴しておこう。
それに私はこの国では文盲でもあるのだ。日本語なんて自分用のメモにしか使えない。急ばが回れ。簡単な単語から覚えていこう。
まず、紙に『清水茉莉那』と書く。
次にその紙をユリアさんに見せて、文字列を指でなぞりながら「しみずまりな」と言う。
最後に名前書いて、という意味を込めてペンを動かし、ものを書く真似をする。
なんとか通じたようで、ユリアさんはなにやら曲線を書いてくれた。筆記体のようで、どこで文字同士を区別するのかは不明。左から右に書くのだということだけは分かった。そこは一緒だ。よかった。
次に書かれた文字を指でなぞり、これが名前全部なのか単にユリアと書いたのか聞く。めちゃくちゃ長いから全部なんだろうけど。
「ユリア?」
『いえ、アユリアナ・ヴィンディッシュ=ヴォルフェンビュッテルと書きました』
「アユリアナ・ヴィン……」
『ヴィンディッシュ=ヴォルフェンビュッテル』
「ヴィンディッシュ……」
『ヴォルフェンビュッテル』
「ヴォルフェンビュッテル」
名前長いなあ。しっかり確認を取って、横に読み方を書き記しておく。
私の名前はこの言語ではどういうふうに記述するのかな。
「私の名前……えっと、まりな、ユリア……」
うーん、これがなかなか難しい。こっちの言葉で書かれたユリアさんの名前を指差しながら唸っていると、ユリアさんが新しい単語を書き加えた。
『これでマリナと読みます』
「まりな?」
『筆記体では分かりにくいでしょう』
さらさらとペン先が滑り、活字体らしきものが書き加えられる。変わった記号だ。アルファベットやキリル文字、ギリシャ文字とは似ても似つかない。やっぱここは異世界だね、プチ感動。まじで家帰りたい。
『文字を学びたいようでしたら……絵本か何かを用意させます』
ユリアさんになにか言われた。よくわからないので日本人お得意の曖昧スマイルで乗り切り、名前を練習する。やっぱ自分の名前くらい書けないとね! ジャンヌ・ダルクだって文盲だったけど名前は書けたんだ。
まりなはアルファベットだとmarina、ユリアさんはアユリアナでayurianaなので、もし母音が同じ数だけあったらiとaに当たるものは判別できる。ついでにnも。そこで気がついた。
まりなが8文字だ。なぜ? やっぱアルファベットと一緒っていうのは安直だったか。もしくは「ち」がchiになるのと同じ原理だったりするのだろうか。ただ、まりなだからなあ……。
それからドイツ語だとアユリアナはajurianaになる。ウムラウトの存在もあるし、だからやっぱりアルファベットと同じように考えてはいけないかもしれない。
とりあえず解読を開始する。aは一番最後の記号だろうと判断。推定nは二つ並んでいる。marinnaみたいなイメージだ。なるほど?? それマリンナにならない? 別人じゃない?
私が考え込んでいると、扉がノックされた。昼食の時間にはまだ早いように思うけれど。
ユリアさんが応対し、入ってきたのはアルトさん。
『文字の勉強ですか』
『ええ、マリナ様は随分と勤勉でいらっしゃるようですの。後で簡単な本を用意させて、読み聞かせて差し上げようと思いまして。言葉も学べて一石二鳥ですわ』
『それなら私が昼休みにでも調達してきますよ。……本題に入っても?』
『よろしくてよ』
ユリアさんはアルトさんと親しいようで、まあユリアさんは貴族だからパイプがあるのだろうが、一介の騎士とメイドには見えなかった。まさか恋人同士!?
『マリナさん、あなたと同じで、異世界から渡った方々の書いた書物の写しです。読めるものはありますか?』
「え?」
突然羊皮紙の束を渡される。何だどうした。
くるくると丸まったそれらを広げると、見知った文字が現れた。アルファベットだ。
「英語だ……」
私以外にもこの世界に来た人が居たのだ。だから一部の技術や文化が不自然に発展していたんだ。前例があったからこそ彼らは慌てずに、ましてや殺さずに私をここまで連れてきて衣食住を与えてくれたのだ。知らんけど。
『もしマリナさんに読める言葉でしたら暇つぶしにでもどうぞ。こちらの言葉が分かるようになったら、我々にも教えていただきたい』
「あっ、ありが……コルマフエタ!」
『どういたしまして』
今日の午後は英文の解読をすることにした。なにしろ外国人の走り書きのまま読むことは難しいので、まず活字体に書き換えなくなはいけない。次に活字体の文を読みながら、日本語訳を別紙に書く。わからない部分は空けておく。
走り書きというのは本当に分からないのだ。それに知らない単語だと文脈から補うこともできない。結構絶望的では?
夕食までになんとか一枚目の羊皮紙半分が終わったが、この文書がマニュアル的役割を担っていることがわかった。これを書いたのは女性で、彼女はこの世界の人からテヤ神のナントカに繋がる存在としてナントカだったそうである。
というのも文書の初めに彼女の簡単なプロフィールが書いてあったのだ。彼女はユダヤ人だったので、テヤ神の存在を受け入れることはできなかったらしい。まあユダヤ教は一神教だもんな。……ともあれ、それはこの翻訳が合っていればの話。
それからニューハンプシャー大学に通っていたこと、趣味はサイクリングだけれどここではもうできないこと。
アメリカの大学なんてハーバード大学とマサチューセッツ工科大学くらいしか存じ上げなくてよ!
きりのいいところまで仕上げてしまい、相変わらず見た目だけおフランス味を感じる夕食を頂く。食後の紅茶を飲んでいると、ユリアさんがどこからともなく絵本を取り出した。
『インゴノール伯爵からマリナ様に。ほとんど絵ですから分かりやすいですわ』
絵本かぁ。やっぱ文字を覚えるなら絵本からだよね。中世ヨーロッパの印刷技術ってどうだっけ。活版印刷なら量産可能だけど、普通に渡された紙が普通の紙っぽくない手触りだった時点でなかなか不安だ。そもそも絵本って中世ヨーロッパに存在してたのか。あまり高価なものは受け取りたくない。
『折角ですからわたくしが読み聞かせて差し上げますね』
にっこり笑顔のユリアさんに既視感を覚えた。ユリアさんはいいお母さんになれそうです。
ユリアさんがカップを片付ける間、高そうな絵本をパラパラとめくった。一ページずつがちょっと分厚い。まあ折角なので有効に活用させていただこうか。
絵があんまり可愛くないのはご愛嬌だね。
名前がドイツ風だったり英国風だったりするのは気にしてはいけないと思います。異世界ゆえに。