02:そうだ、懐かしの有機化学だ
しかし私は話しかけることを諦めなかった。世界共通語だとされている英語が通じないとなると、これはもう絶望的だ。
「Ist es OK?」
というわけでファンタジックな彼らには、ドイツ語なら通じるのではないかと、こうして試しているところである。
だがそんな努力も虚しく、何一つそれらしい反応は返ってこない。
「Oh mein Gott!」
アメリカ人のように大げさな反応をしてみる。無理これあかんやつ。
私のへなちょこドイツ語ボキャブラリー、いや、どちらかと言うとグラマーはここで尽きた。それにドイツ語で煽っても煽ってる感じしないよね。嫌味を言うならロシア語だというのが、私の勝手な印象だ。
ちなみにロシア語には、Рентгеноэлектрокардиографическийという猛烈に長い単語がある。これで一単語だ。キリル文字にアルファベットを対応させると、rentogeno-electrocardiographicにイチェスキーというのがくっついているものだということが分かる。
アルファベットの文字列を見て分かったと思うけど、心電図X線のことだよ。イチェスキーとはなんぞやなどと聞いてはいけない。アルファベットを含むのは致し方ないとして、たった五文字で表現できる漢字って素晴らしいね。
他にも例えば、長い形容詞として有名なものに、хлебосколбаскойлюбезнопроизводительныйというのもある。いやあ、長いロシア語の単語は中二心を大変くすぐるのである。
尤も今ここでそれを披露する気はない。だって言葉が通じないからね。噛まずに言い切ってドヤってもひたすら虚しいからね!
私は騎士さんズが私の言葉を理解できないのをいいことに、ちょっとばかり調子に乗っていた。
「Hello~Hello~Are you CHICKEN?」
挑発行為に腹を立てないだと? なんてことだ! 不健全だ!
呆然としている騎士。木の上から騎士をあおる女子大生。
わお。異端者狩りってわけじゃなさそうだから、こうして様子を見ているのだが、何の反応もないとただただ虚しい。煽るのが楽しいのは、相手から何かしらの反応が返ってくるからなんだな。かしこくなったわ。
とにかく真面目にコミュニケーションをとることにする。木から降りて、未だに座り込んでいる彼らの前に立った。
「まりな。しみずまりな」
自分を指さして、そう言う。
「あなたたちは?」
表むけた手のひらを、二人に突き出して尋ねた。これで理解できなかったらどうしようか。
でも意図を察したらしい細身のほうが、口を開いた。
『私はアルトジアゾ・リヒター。宰相補佐……まあ、要は文官です』
ジアゾって聞いて吹きかけた。なんたってアニリンの希塩酸溶液に亜硝酸ナトリウム水溶液を加えるとジアゾ化が起こって、塩化ベンゼンジアゾニウムが……。まあいいや。それはともかく。
「≪わらしはル≫……? すみません。もう一度お願いします」
長すぎて、どこからどこまでが名前なのかわからない。全部名前だって言われたら泣く。
『アルトジアゾ・リヒターです』
名前長いな! ゆっくり言ってくれたので、頑張って記憶に留めて復唱する。
「≪アルトジアゾリヒタデス≫?」
『アルトでいいですよ。アルト』
「アルト」
短いと覚えやすくていい。
大柄な方を見ると、彼も答えてくれた。私の身長は一五七㎝なんだけど、この人は一九〇㎝くらいありそうだぞ。アルトさんは一八○㎝くらいかな。それでもだいぶでかい。
『ハロルド・ヒドメタソン。ぜひハロルド、と。ハロルド』
「ハロルド」
おっけい、覚えた。で、どうしよう。
『言葉も通じず、不安なことも多いかとは思いますが、私たちと来てはいただけませんか? 貴女はテヤ神のいとしごである可能性があります。いとしごは保護されるべき存在です』
アルトさんが大真面目な顔で何か言ってるけど、さっぱりわからん。だけれども、女は度胸だ。
「アルトさん、ハロルドさん。私、今迷子みたいで頼れる人がいないんです。知らない人について行っちゃダメってこと、今時幼稚園児でも知ってるけど、あなたたちについていきます」
もちろん向こうが理解してるとは思ってない。馬のところに行くと、二人は察してくれたようだ。多分ね。
異世界(仮)でも馬は馬だ。蹄が大きい気もするが、馬なんぞ見る機会もないからよく分からん。分からんことだらけだ。
『気になります? 馬ですよ。馬。そちらにはいなかったのですか?』
「ヤー?」
馬はヤー。アルトさんが教えてくれた。一つ賢くなった。
『この国の言葉が分からないだけなのか……。マリナさん、これは分かりますか? *****、¥¥¥¥¥、#####……』
アルトさんから大真面目な顔で話しかけられる。もちろん全く分からないので首を振ると、アルトさんは残念そうに肩を落とした。
『マリナ殿は私の馬に乗せる。いいか?』
『副団長殿、貴方は彼女を酔わせるおつもりか。貴方の操縦は荒すぎる』
そして二人はなにか揉めている。もしかして馬に興味を持ったのはいけないことだったか。
『丁度あれは私の馬だし、私なら賊に襲われても彼女を守れる。テヤ神のいとしごだと判明したわけではないが、丁重に扱うに越したことはないだろう』
ハロルドさんが勝ち誇った顔をして、私のところに来た。そんでもって脇の下に手を入れ、私を持ち上げて前に乗せる。
うひょー。仮にも体重四十六kgの人間をこうも易々と持ち上げるとは!
『……丁重に扱う気があるなら、丁寧な操縦をお願いしますよ。最優先すべきは彼女の意志ですからね? マリナさん、気分が悪くなったら知らせてくださいね』
アルトさんがハロルドさんと私に向かって何か言った。多分心配してくれている。顔がそういう顔だ。でも言葉が通じないってことを忘れていただいては困るのだ。お気持ちだけありがたく受け取っておきます。
私を乗せたハロルドさんの馬が先、アルトさんの馬が後ろで出発した。どこへ向かうのかは知らない。処刑台ってことはないだろうけど。
「アルトさん、ハロルドさん。これからよろしくお願いします」
『……分かりました』
『……承知』
そして通じないのに返事してくれるお二人は、とても優しい人だと思う。
休憩を挟みながら広大な大地を進んだ。まじでファンタジー。北海道の田舎ってこんな感じなのではないだろうか。あたり一面はてしなく野原なのだ。
地平線というのを私は初めて見た。少し感動した。それから森の中も通った。一度森に入ると延々と森である。さすがに飽きる。BGMが流れていないのが残念でならない。
なお、休憩時間を無駄にする私ではない。そのかん色々なことを聞いた。
太陽、水、それからありがとう。ほかの言葉は道を指したのか地面を指したのか、ただ花といったのかその花の固有の名前だったのか分からなかった。
ところで休憩毎に馬を乗り換えたのだが、ハロルドさんの馬よりアルトさんのほうが乗り心地が良かったのは秘密だ。
有機も無機も暗記地獄で嫌いでした。ベンゼン環をきれいな六角形で描けた時は嬉しかったです。