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政治話題への忌避(きひ)観、忌避感についての一考察

作者: ふりがな
掲載日:2019/02/05



民衆の政治への忌避観は、歴史的には、民主主義の発達から始まった物で、ハンナアーレント辺りを読むと、教会による政治権威の否定が、大衆の政治への忌避観の中心となっていたのかなと私は思う。

それは、世俗主義に対する教会の在り方を、大衆にも押しつけるやり方だったのではないだろうか。

今作品の執筆の前に、少し政治話題への忌避感について調べてみると、実はその忌避感は幻想であり、忌避感などないとの指摘もある。

しかし、大衆が政治家を嫌うように、何らかの忌避感自体は存在するのだ。

その正体とは、なんなのか?


こんにちは、ふりがなです。

再び政治話題について、やりたいと思います。


昨今の日本における政治への忌避感と、政治話題への忌避感は別物なのようです。

中立性、即ち公共性を帯びる政治話題について忌避感を持つ人は居なくて、昨今の日本における政治への忌避感は、忌避観と呼べるような物なのではないかなと思います。

中立性を帯びるというのは、対立関係を持たない政治の話題ですね。

そのような中立性の高い政治関連の話題に、忌避感を持つ人は居ないそうなのです、まぁ、現実を省みてそりゃそうだろと思うと同時に、実際に聞くと驚きもしますよね。

ですから、必然的に、中立性の確保出来ない政治話題を対象にしたときには、非常に忌避感を持つ人が多いのでしょう。


先に、日本に蔓延る政治への忌避観について書こうと思います、

その正体については、まず、政治が未知の物で、庶民側に耐性がないという事が挙げられます。

知らない事柄への始原的な恐怖は、誰しもが持つ物で、自信のない、しかし、自分に近い関係のある事柄などには、特に忌避感を持ったりする物なのでしょう。

知りもしないのに、決断しなければならない問題が、身近に存在する。

何故、自分達がそんなことに、関わらなければならないのだろうか。

これは、日本の教育において政治の中立性自体を目指すあまりに、政治の中立性をも恐れてしまった事に、原因があるようです。


知らない事柄への恐怖というのは、例えば、昆虫食のような物でしょう。

芋虫の揚げ物や炒め物を、知らない、経験がないので、不必要なほどに過度に恐れる。

我々は、まるで、昆虫食のように、中立性を帯びない政治話題を恐れているのです。


とんな風に、政治話題を昆虫食のように恐れているのかというと、「穢れ」に近い状態で、忌避感を持ってるのかと思われます。

「穢れ」とは、物理性だけでなく精神性をも汚染し、伝染する呪いのような思想です。

ですから、政治関連の話題は、まるで呪いのように禁句(タブー)と見る人が居るのです。

日本においては、不潔、不浄、理想でない状態を穢れと見るようなので、まぁ、政治関連の話題を見て、それを、まるで昆虫食のような呪いだと思えるのなら、塩でも握りながら、参加すれば良いのでは無いかと個人的には思います。


平たく言えば、政治への忌避感とは、穢れという神様の信仰と同じなのですから、過剰に忌避感を持つ層は、権威主義と非常に親和性の高い母集団だったりするのでは無いかと思ったりするのですが、今回、関連する記事は見つかりませんでした。

また、知らない事柄への恐怖は、正常性バイアスとも親和性が高そうです。

とにかく、自身の正常性バイアスを優先する人なら、知らない事柄は否定しまいますよねという話。


ここからすると、教育課程において、政治関連の話題から遠ざかっているか、近くにあるかのみが、日本人の政治話題の忌避感の原因の大半を占めている、というのが実状のようです。

つまり、私たち日本人は、政治話題に対して、経験的にも、知識的にも納得していなく、また、それによって自信も無いから政治話題を避けるのです。


Q.何故、政治の話を避けるんだい?


それは、政治について、私が何も知らないからさ。

きっと、その話題は、穢れていて、呪われるから止めておこう。


こういう話ですね。

忌避観、忌避感というよりは、自信のなさという話ですが、それを穢れと同一視するというのは、うーんという所、実際どうなんでしょうね。

でも、実生活で、自分に全く関係の無い知らない話をされても、まぁ困るしなぁという所。


では、只でさえ政治話題を避ける傾向にある私たちは、中立性の低い政治話題について、何故特に強い忌避感を持つのでしょうか。


利益相反関係について、教科書でまるで取り扱わない国家、日本。


公正取引委員会の仕組み、セクショナリズム等、利益相反関係は社会に出れば、自ずと経験していく物ですが、概念的に、教育課程において、利益相反関係は馴染みの無い物なのかもしれません。


片方が得をする分だけ、もう片方が損をする。

社会全体からすると、利益の総計そのものは変動しない。

よって、損得の移動の前後では、利益相反関係にある両者の関係性だけが悪化する。


これが、利益相反関係の説明です。


まるで、昨今の移民労働者問題の中核を説明するような概念ですが、利益相反関係のある話題は、必ず二陣営以上が敵対し、ほぼ、中立性の無い話題になります。

そして、分業体制下にある政治の問題の多くとは、理想的な状態を目指す物では無く、半ば利益相反関係にある両者の妥協点を図る事にあるのです。


この手の不勉強に対しても、私たちは、耐性をまるで持たないようです。

知らないんだからしょうがないとしか思えませんが、政治における利益相反関係の「争い」は、そもそも理想の無い話ですので、やはり、第三者から見ると、「穢れ」のように思う人が多いのでは無いでしょうか。


また、気付けば、自身が利益相反関係に巻き込まれていた場合、これも、伝染するような「穢れ」として扱われるのかなと思います。


という事で、この二つの政治の実態への理解がまるで無い、という未知への始原的な恐怖、そして「穢れ」信仰が、政治への忌避観の根拠にあると思うのですが、政治家への信頼については、また別なのかなと思います。


そちらの方は、既に別の記事で少しやったので、割愛させていただきます。


ですので、結論、普段ある私たちの政治への忌避感とは、実は、「穢れ」信仰による忌避観という幻想で良いのかな、という所。


じゃあ、忌避感の出ない政治について書けるのかと突っ込みが来そうですが、そちらは話題が広くなりすぎそう。

テーマは忌避感についてですので、これで終わりとさせていただきます。


しかし、この考察すると、忌避感を持つ層というのは、ある程度思想の固まった頃合いとなりそうです。

20代の方が、政治に忌避感が強かったんじゃないかなと、思いますが、どうなのでしょう。

社会に出ると政治に触れるので、順当なのかもしれませんが。




政治の仕組みと「日本の民主主義」を直結する、頭の悪いやり方がまん延していますが、それだと、やはり政治については欠片も解らないのでは無いかなぁと思ったりしています。


最低でも、政治の三大要素、利益、暴力、権威の書いてない本は、政治の教科書とは呼べないのかもしれません。

因みに私の考える政治の要素は五大要素です。


一つは政治の結実そのものである、ルールです。

作品そのものがヒントのような物ですが、最後の一つは何でしょう?



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