この命捨てても(2)
九月。新学期となり、周人は以前と変わらぬ様子で登校してきた。恵里を失ったショックを引きずりながらもそれを表に出さない周人だったが、周囲の目は同情ではなく、冷たいものとなっていた。付き合っていたことを隠していた2人だが、哲生やミカ、圭子が知っていたように恵里側の友達の何人かもそのことを知っていた。その女子生徒たちから通夜や葬式における周人の様子が広まったせいで『彼女を失っても涙さえ見せず、今は普通にしている偽善者』とのレッテルを貼られていた。そんな状態にあっても普段通りの自分を演じている周人だが、実際は全くと言っていいほど立ち直ってはいない。ことあるごとに恵里を思い出し、沈痛な気持ちに打ちのめされていたのだ。そんな周人を知っているミカと哲生はそんな噂をかき消そうとしたのだが、本人である周人に止められて歯がゆい思いをしているのだった。周人は放課後の時間を屋上で過ごすようになっていた。夕焼けに染まる空は赤く、グレーの雲の縁が赤い輝きをもっているのが幻想的だ。そんな景色をぼんやり見つめながらも思い出すことはといえば恵里のことばかり。もう2度と一緒に帰ることも、笑いあうこともできない。引き裂かれるほどの痛みを我慢できずに涙をこらえる周人の背後で、重い鉄製のベージュ色した扉が開く音にゆっくりとそっちを振り返った。
「たそがれてる?」
その声に小さく微笑んだ周人はまたすぐに前に向いてしまったが持っている雰囲気は柔らかい。新学期が始まって2週間、以前のようにこうして周人の横に並ぶ圭子とまともに話をするのはこれが始めてだ。好きな人ができた、付き合い始めたといった時の周人を知っている圭子にしてみれば、いつもと同じようでどこか違う周人に声をかけにくい思いを抱えていたのだった。変に慰めようにもどう慰めていいかわからなかったのだ。それに周人に恋心を抱いていただけに、どこか複雑な心がそれに上乗せされているのもまた事実だ。恵里を亡くした周人に今度は自分が支えになり、恋人同士になりたいという気持ちが心のどこかにある自分を嫌悪していた。それでも今は周人を元気にしたいという気持ちが大きく、ミカからよくここに来ていると聞いていたので意を決してこの屋上へとやってきたのだった。
「泣かなかっただなんだで噂になってるけど、無視しなよ?」
手すりの上に手を置きつつ隣にたたずむ周人と同じ夕日を見やる圭子の顔が朱に染まっている。そんな圭子の横顔をチラリと見た周人はかすかな微笑を浮かべたが、それもほんの一瞬でかき消えたために圭子はそれを見れずじまいだった。
「泣かなかったのは事実だからな」
「泣いてるじゃん、今でも・・・でしょう?」
はっきりそう言う圭子を驚いた顔をして見やった周人に対してゆっくりとそっちを見る圭子。何を思ってそう言ったかはわからないが、ズバリ言い当てられた周人の顔には動揺がありありと見えた。そんな周人に優しい笑顔を見せた圭子は朱色に紺色が混ざり始めた東の空を見るように、手すりを背中にしてよく見えるように態勢を入れ替えた。
「以前の木戸君とは感じが違うからねぇ・・・それぐらいわかるよ」
それはそれで本当のことなのだが、実際は好きな人だからこそそれに気付いたとは言えない。
「かなわねぇな・・・お前には」
苦笑気味にそう言うのみで否定をしない周人に小さく微笑んだ圭子はまたも態勢を入れ替えて西の方、真っ赤に燃える太陽が揺れている様子へと顔を向けた。はっきり言って恵里より美人のその横顔だが、周人がときめくことはない。圭子にとっては悲しい話だが周人にとって圭子は友達にしか思えないのだ。
「はっきり言って、まだまだ立ち直れそうにないけど・・・でも、無理に立ち直ろう、元気に見せようとは思えなくてな」
「まぁね・・・ラブラブだったんだから」
圭子のその言葉に小さな苦笑を浮かべてみせる。暮れ行く空を見る2人の影は長く、濃い色をしていた。
「ありがとう」
周人は顔を横に向け、長い前髪をかきあげながらそう言った。その表情は優しさと哀愁、悲しみと感謝といった複雑なものを浮かび上がらせていたが、圭子には笑顔に見えていた。
「元気でた?」
「あぁ・・・ちょっとだけだけど・・・な」
そう言って夕日を見つめる周人の横顔を見やる圭子は夕焼けのせいではない赤さを頬に見せながらもほんの少しだけでも好きな人を励ますことができた自分に満足していた。いつか周人が立ち直るきっかけを自分が与えてあげたいと願いながら周人から夕日へと視線を向ければ、円形を崩しつつ山に没する真っ赤な太陽がゆらゆらと揺らめいている姿が見えた。
「私はあんたの味方だからね」
「わかってる。サンキューな」
小さく微笑む周人に微笑み返す圭子は胸のときめきが大きくなるのを感じながら、そのときめきに言い知れない充実感を覚えるのだった。
何者かによる少女強姦殺人事件は突然捜査の打ち切りが言い渡された。捜査本部に動揺が走る中、その上層部の決定に1人疑問を抱く男は事件の詳細が記された報告書を片手に気難しい顔をしていた。第一発見者は少女の恋人であり、その際に犯人と接触している。よって犯人の特徴ははっきりと証言されており、犯人の体液からDNA艦艇も完了していた。つまりは犯人もすでに断定されているのだ。にも関わらず逮捕もせず突然の捜査打ち切りに疑問を抱く者も多かったが、刑事局長からの文書を見せられれば所轄警察では何も言えず、その命令に従うしかなかった。
「やっぱり圧力かけやがったのか、じーさん」
つぶやくようにそう言うと書類の束を机の上に放り投げた。雑然とした机の上に置かれたその書類が原因で数枚の書類が雪崩を起こしたが男は気にすることもなく足と腕を組んで椅子にもたれてふんぞり返った。
「確固たる証拠、掴んでやるしかないか」
オールバックの髪を撫で上げるその中年の男は緩みきったネクタイを気持ち程度だけ直すとそそくさと部屋を出て行くのだった。
「打ち切り・・・ですか?」
センターで分けられた髪もどこかざんばらな中年男性は眉を曇らせてそう搾り出すように言うのが精一杯だった。突然現われた2人の刑事に娘を殺した犯人の捜査打ち切りを告げられて激しく動揺する妻を支えるようにして座りながらも、夫は気力を振り絞って刑事を見つめるようにしてみせた。
「はい、残念ながら」
「わずか一ヶ月で打ち切りなんて・・・どういうことです?」
娘を失い、その命を奪った憎き犯人を一刻も早く捕まえて欲しいと願っていた夫婦にとってその知らせは信じられないものだった。事件からわずか一ヶ月で捜査の打ち切りなど聞いたことがない。だが、厳しい表情の若い刑事から満足のいく説明はされず、どこかしどろもどろな様子も見え隠れしていた。
「犯人の断定はできなかったのですか?」
「はい・・・」
「いや、できてますよ、実はね」
一緒に来ていた中年の刑事がここで初めて口を開いた。若い刑事がその刑事の方を驚いた顔をして見やる状況からして、本来それを口にしてはならないことがうかがい知れた。
「ようするに、犯人はかなりの権力を持った者なのです。よって警察すらその圧力に屈したわけです」
オールバックの男は刑事でありながら他人事のようにそう言うと、何かを言おうとした若い刑事を一睨みしてその口を閉ざさせた。鋭い眼光もまたその威力を発揮していたせいかもしれない。
「ですが、はっきり言いまして、私はまだあきらめていませんよ」
ベテランの刑事なのか、中年の男はそう言うとゆっくりと顔を上げた被害者の母親の目を見た。憔悴しきった顔は色を失い、まるで死んだような目をしている。
「が、どこまでできるかはわかりません。なのでとりあえず今は捜査打ち切りを承諾していただきたい・・・」
今回の来訪の目的は捜査の打ち切りを被害者家族に承諾してもらうことが目的である。もし内密的な捜査打ち切りが表沙汰になって裁判ともなれば政府をも巻き込んだトラブルに発展する恐れがある、それほどまでの人物が犯人なのだ。鋭い眼光をそのままにそう言うベテランの刑事をじっと見やった夫は妻をそっと抱き寄せ、小さいながらもうなずいてみせた。
「わかりました。とりあえずは了承します。ただし、あなたが捜査を続けているという証明が欲しい」
「もちろん、情報が入り次第逐一連絡及び報告は入れます」
「あ、秋田警部・・・それは・・・」
若い刑事がそう口を挟もうとしたが、秋田と呼ばれた警部の眼光が鋭く突き刺さりそれ以上何も言えなくなってしまった。キャリアとして若い頃からその腕を鳴らしてきた凄腕警部を恐れているのは部下たちだけでなく、上層部も同じであった。それほどまでに頭が切れるこの秋田は今現在、ある現職大臣の汚職を追っているのだった。無論上層部の許可無しにだ。
「では表面上は捜査打ち切りを了承。内々に動いているあなたを信じればいいのですね?」
「そうしていただけると助かります」
「わかりました」
きっぱりとそう言った遺族、被害者の父親に驚く顔をしたのはその妻だけではなく若い刑事も同じだった。理不尽な理由で捜査が打ち切られる事実、そして内々で捜査を続けるといった秋田の言葉。どれをとっても遺族にとっては納得のいくものではない。妻は異論を唱えようとしたが夫の強い眼光に屈したのか、また顔を伏せてしまった。若い刑事は張りつめた空気に汗を流しつつ睨み合うかのようにしている2人を見やることしかできなかった。
「ご理解に感謝いたします。では我々はこれで失礼させていただきます」
そう言って一礼した秋田は若い刑事を促して恵里の仏前に手を合わせると早々に家を後にした。2人を見送った恵里の父親は去っていく車の後ろ姿を見て小さなため息をついてから家の中へと戻る。うなだれるように座ったままの妻を気遣いながら居間に腰掛けた父親は強い意志の込められた瞳をしながらそっと妻の肩に手を置くのだった。
「何故だろう・・・何故か彼の言う言葉に惹き付けられてね・・・託してみたくなった。事情は大体察しがつく。おそらく犯人は政府の息がかかったものだろうさ。役所勤めの私にはよくわかる」
「だからって・・・あんなにあっさり了承しなくても!」
さっきまでの死んだような目が嘘のようにギラついた目で恨みがましく夫を睨む。愛しい娘を殺した犯人を逮捕できないと言った言葉が信じられずに呆然としてしまったせいで反論する気になれなかった妻は、落ち着いてきた今になってその要求を飲んだ夫に対して強い怒りを覚えたのだ。
「もちろんこのまま黙ってはいないよ・・・何の進展もなければ今の事実を全て公表して訴えるさ。たとえ私たちがどうなろうともね」
警察にすら圧力をかけられる相手だけに、たとえ訴えを起こしても真実が明らかになるとは思えない。それどころか自分たちの身にすら危険が及ぶ可能性が非常に高い。今の情緒不安定の妻にその話は余計な負担を大きくしてしまうだけだ。そう考えた夫は秋田の要求を飲んだのだった。たかだか一人の刑事の力でどうもできはしないだろうが、何故か自分は彼の目に引き付けられたのだ。この人ならば信じられると思えたのだ。もしかすれば亡き愛娘が自分にそれを訴えているのではと考え、条件を飲んだのが正しい理由かもしれない。そんな幻想的な理由を今の妻に伝えるのは難しいという想いもあって、夫は全ての責任を自分でかぶる覚悟でいるのだ。
「絶対に犯人は罰せられる。どんな権力を持っていようが、真の正義の前に必ず屈するさ」
そう言う夫はそっと優しく妻を抱きしめると笑顔を見せている娘の写真に目をやるのだった。
その知らせを聞いた周人の眉間にはシワが寄り、奥歯を噛みしめて怒りを表現した表情に加えて殺気立った気が全身から溢れていた。周囲からすればほとんど以前通りの周人に戻っているように見えながらも、実際はまだまだ暗く落ち込んだ周人を知っているミカはこうまで怒りをあらわにした周人に寒気にも似た感覚を覚えていた。恵里を殺した犯人に対してさえこうまでの怒りを見せたことはない。それに関しては恵里を失ったという消失感や救えなかったという自責の念が恨みを上回っていたせいもあるだろう。だが、DNA鑑定に加えて周人の証言から似顔絵まで作成された。しかも相手は2メートルはあろう巨体にスキンヘッドだ、人物を絞り込むのは容易いはず。だが警察はわずか一ヶ月の捜査で確証を得ずに意味不明なまでの一方的な捜査打ち切りを発表したのだ。しかもそれを周人に告げたミカからの情報によれは恵里の両親は捜査打ち切りを了承したと言うではないか。ミカは恵里の月命日に手を合わせに行った際にその情報を得てあわてて周人に知らせたのだ。その結果がこれである。
「打ち切り?打ち切りだと?」
怒りで身を震わせているせいか、声も震えている。全身、肉体と魂で怒りをあらわにしたままの周人は困った顔をしながら怯えるミカに背を向けると猛スピードで走り去った。
「しゅうちゃん・・・」
何か自分がとんでもないことをしてしまったような感覚に襲われるミカはあわてて携帯電話を取り出すと哲生に電話するのが精一杯であり、言い知れない不安が胸を締め付けるばかりであった。
恵里の亡骸を発見した公園の南には電車の駅があり、高架となっている線路に並行して通っている幹線道路沿いに警察署と消防署が並んでいた。恵里を殺害した犯人を捜査しているその警察署は4階建ての白い建物で、最近外壁の塗装が塗り直された綺麗な輝きを見せていた。だが、その外観とは裏腹に中は古びた様子で木造建築の名残があちこちに見えている上にどこか雑然とした配置は来訪者に緊張を強いる感覚を与えていた。人間の本能なのか、別に悪いことをしていなくとも警察署や交番、警官を見れば後ろめたい気持ちになってしまうものである。だが、ついさっき飛び込んできたやや前髪の長い高校生とおぼしき少年はその瞳に怒りの炎を灯らせたまま一人の婦人警官と向き合っていた。
「恵里を殺した犯人の捜索を打ち切るって聞いたぞ・・・どういうことだよっ!」
「それは上が決めた方針だから・・・」
婦人警官は自分に対して敵意を剥き出しにしている目の前の少年である周人を知っていた。事件当日、被害者の第一発見者であり、犯人と遭遇した被害者の恋人である周人を気にかけてずっとそばにいた人物だからである。あの日は恋人を失ったショックで放心状態となり、まるで廃人のようになっていた周人が今、目の前で怒りを爆発させている。
「じゃぁその上の人間を呼べっ!」
「おいおい、君ね、そういう態度はよくないぞ」
そう言って背後から声をかけてきた警官をキッと睨む周人の全身から怒気と殺気が一気に噴出し、警官と婦人警官はおろか近くにいた者全てを凍りつかせた。
「そういう態度を取らせているのはあんたらだろうが・・・たかだが一ヶ月で捜査打ち切りの理由を聞かせろよ!」
「一般市民が口を挟むことではない!」
周人の気に押されながらも、警官ははっきりとそう言いきった。その言葉に周人の顔つきが変わり、まるで血に飢えた獣のような目で警官を見やるとゆっくりと体の向きを入れ替えた。
「一般市民だぁ?あんたら何様だよ・・・たかだかハゲの大男を見つけることもできねぇで偉そうにしてんじゃねぇ!」
「お前が考えているより遥かに捜査は難しいんだ!」
両者が掴みかからんばかりに睨み合うのを近くにいた警察官がなんとかなだめようとするが、周人はそれらの手を全て払いのけるとグルリと周囲に立つ警官たちを見渡した。その目から放たれる怒りの火はもはや炎に近い。
「あぁそうかい・・・ならオレはオレで探すさ。あんたらみたいな間抜けに用はねぇよ。せいぜい駐車違反でも捕まえて嬉しそうにしてろ、能無しが!」
吐き捨てるようにそう言うと、周人は目の前で赤い顔をして怒る警官を押しのけて外へ出ようとした。だが今の周人の言葉に全員が怒りをみなぎらせ、数人の警官が周人の目の前に立った。どうしていいかわからない婦人警官はうろたえるしかなく、困ったような顔をしながら殺気だった同僚たちと周人を交互に見ることしか出来なかった。
「えらい騒ぎだな・・・」
殺気めいた署内に似合わぬ柔らかい口調で入り口から入ってきた中年の刑事、秋田は周人の前に立つ数人の警官を押しのけてその目の前に立つ。周人は秋田にさえ敵意を剥き出しの目を向けつつも目の前の道が開かれたために大股で出て行くのだった。
「秋田警部・・・あいつは・・・」
「聞いてたよ、全部な。だが、はっきり言って口は悪かったが、彼の言った言葉は正論だよ。犯人を断定しながら逮捕できない我々は能無しだよ」
そう言うと周囲を見渡す。警官たちはバツが悪そうな顔をしながらもまだ怒りを消さずにその場に立ち尽くしていた。何も好き好んで捜査の打ち切りをしたわけではない。だが命令には逆らえないのが実情なのだ。ただ一人の例外、秋田を除いて。
「もうしばらくこっちでやっかいになるよ。まぁ2、3日になるかな・・・調べ物がすんだら本庁に戻るからさ」
柔らかい口調を崩さずにそう言って奥に消えた秋田の背中を見ながら1人、また1人と自分の席へと戻っていく警官たち。そんな様子を見てホッと胸を撫で下ろす婦人警官は周人が出て行った入り口を見ながら小さなため息をつくのだった。
その日を境に丸3日学校を休んだ周人が家に戻ったのは夜中だった。一切の連絡をよこさなかった周人を激しくしかった父親の源斗だが、周人は源斗を無視して軽い食事を取ったのみでさっさと自室に戻ってしまった。学校には病欠だと報告しているのだが、周人がどこで何をしていたかは分からないだけに不安も大きかった。その上に今のような態度である。夜中であることを考慮して大声を張り上げることだけは抑えた源斗だったが、やはりその怒りは収まらない。なだめる静佳にも怒りをぶつけつつもとりあえずは就寝となり、その日はそれで終わった。早朝からの第2ラウンドでは一切口を開かない周人に源斗のゲンコツが飛んだのだが、周人はあっさりとそれをかわすとさっさと身支度を整えて学校へと出て行った。代々受け継がれてきた木戸無明流という古武術において歴代最強と言われた父親の鳳命の才能を全く受け継ぐことがなかった源斗は格闘におけるセンスは人並みであり、厳しい性格ながら腕っ節が弱いのが欠点だった。対する周人はその鳳命の才能全てを受け継ぎ、さらに高みへと行ける超天才的センスを持っていた。わずか十五歳の周人が本気で試合をした鳳命を倒したのは何も鳳命が六十歳を間近に控えていたからではない。年老いているからこその強さすら持った鳳命を修羅場も知らぬ周人が倒したのだ。つまりはまともな戦いの経験などほとんどない周人が自ら持つ格闘センスのみで鳳命を倒したことに他ならない。これで場数を踏み、いくつもの修羅場を乗り越えればまさに無敵の存在となることは明白だった。それは鳳命が認めたほどであり、凡人の源斗が周人にゲンコツを浴びせることなどできるはずもなかった。それでもこれまで源斗の雷を防御せずに受けてきたのは周人が源斗を父として尊敬し、畏怖していたからだ。だが、今の周人にそれはない。どこで何をしてきたかはわからないが常に殺気を伴い、鋭い目つきで異様な雰囲気をかもしだしているのだ。
「あいつが帰ってきたらどこで何をしていたか聞き出せ」
こちらも不機嫌そうにそう言うと会社へと向かった源斗を見送る静佳は小さなため息をついてから掃除機を手に2階へと上がった。丸3日家を空けていたせいか、周人の部屋はかなり綺麗だった。元々毎日掃除をしている静佳だけに埃もないも同然だったが、ベッドにテレビ、パソコン、ステレオと本棚以外はほとんど物らしい物もない部屋のせいか、ずいぶんと片付いて見える。周人はあまり部屋に物を置かない性分だった。出せば片付けるのが面倒な性格だったのと、元々そう物を欲しがらない性格が重なってのことだ。静佳は部屋の真ん中にある小さな丸いテーブルの脇に掃除機を置くと勢い良く窓を開け放つ。
「まだ、始まったばかり・・・か」
つぶやくようにそう言うと小さなため息をつく。雲でかすんだ薄青い空を見上げる表情も、そして気持ちもどこか暗い。そう、今見上げているこの空のように。
いつになく機嫌が悪いのか、それとも恵里を失ってからこうなってしまったのか、無愛想な周人は無表情のまま席に着くと霞がかったような空を見上げた。丸3日学校に来なかった理由は病欠だが、実際は家を空けていたということを知る者はいない。ミカや哲生ですら風邪だと聞かされていたからだ。
「おはよ。風邪は治ったの?」
その言葉の主に目線だけを向けた周人は肘をついた手にアゴを乗せたまま身動き一つ取らなかった。もちろん表情も変わらない。ただ単に無愛想なだけにしか見えない今日の周人だが、声をかけた人物である圭子にしてみればそこに違和感を覚えるのは当然だった。いつも周人を見ている、好いている圭子だけに、その些細な変化も逃すことはない。
「どうしたの?」
「何が?」
いつもと少し違う低い声はどこか人を寄せ付けない雰囲気も持っている。明らかにおかしい周人の様子に眉を曇らせた圭子だったが、小さく唇を尖らせたのみで何も言わずに肩をすくめる仕草を取った。周人は薄くかかった雲で覆われた空へと視線を向けたまま全く動かない。
「・・・ま、元気そうでよかった」
近寄りがたい雰囲気に負けたのか、圭子はそう言うと自分の席へと戻っていった。周人は一切圭子に視線をくれることなく身動きすら取らない。そんな周人を遠目に見ながらまるで変わってしまったその雰囲気に背筋が冷たくなるような感覚を覚える圭子だった。
夕方に帰宅した周人は制服を着替えた後、またすぐにバイクにまたがってどこかへと出かけ、深夜に戻ってきた。源斗の問いにも答えず、親子の関係はますます悪化の一途をたどった。そんな日がさらに3日続いた日、いつものようにバイクにまたがった周人がヘルメットをかぶろうとした矢先、小さな何かが凄まじい勢いで周人の顔面めがけて飛来してきた。常人であればその飛んできた物体が額に当たるまで接近に気付かないであろう速度だったが、周人は左手でそれを掴むとそれが何かを確認することなくポイと地面に捨ててしまった。
「恐ろしいのぉ、お前は・・・それに恐ろしいまでの殺気じゃな」
そう言って口の端を歪める背の低い老人は真っ白な頭を撫でるようにしながら六十歳を目の前にしたとは思えない鋭い目つきを周人に浴びせていた。しかも鋭いのは目つきだけではない。殺気でもなければ怒気でもない鬼気を発している。触れれば切り裂かれそうなその鬼気を浴びれば普通であれば身震いし、恐怖で金縛りになってしまうほどだ。だが、その恐るべき鬼気を跳ね返すほどの殺気を放つ周人はバイクから降りようとはせずにその老人を睨みつけたままだ。
「どけよ」
「彼女を殺した犯人を探しにいくのだろう?」
全くの無表情だった周人の顔色が一瞬だけ変化したのを老人は見逃さない。
「無駄じゃ、『ヤツ』を見つけられたとしても、お前じゃ歯が立たんよ」
その言葉に顔色だけではなく表情も変化した。無理もない、今日まで恵里を殺した犯人を追い求めてアチコチ走り回り、東京まで繰り出していた周人は一週間経つ今になってもまだ何の手がかりも得ていないのだ。それなのに近くに住んでいるこの老人、祖父の鳳命がそれを知っている口ぶりなのだ、無理もない。
「知ってるのか?じいちゃんはアイツを知ってるのか?」
「・・・知っている」
「教えてくれ!アイツのことを!」
「知ればお前はヤツを追うじゃろ?」
「当たり前だっ!」
「死ぬぞ」
その一言に込められた力は絶大だった。言い知れない悪寒が背筋を走り、ピリピリと皮膚が揺れる。
「お前では絶対に勝てんし、何よりそこまで辿り着けん」
祖父の言葉に重さを感じた周人は無意識的に大きな音を立てて唾を飲み込んだ。言葉に込められた恐怖だけでここまで怯えた経験などない。それほどまでに強い念が込められたその言葉に負けそうになる。だが、周人の中にある怒りと憎しみがそれを凌駕していった。
「辿り着くさ。たとえオレがどうなろうとも、オレはヤツを殺す」
さらに殺気を膨れ上がらせる周人を見る祖父の目は細くなり、まるで線のようになった。鳳命は小さくため息をつくと2、3歩周人に歩み寄り、その閉じられているかのような細い目を開いた。
「その男の名は久我晴海。日本の闇を統括する最強の男じゃ」
「久我晴海」
憎しみが込められた口調は殺気を増大させ、表情を怒りに変えるのに十分すぎた。ここへきてようやく掴んだ犯人の名前、そして素性。日本の闇を統括すると言われてもピンとも来ていない孫を見る鳳命はやれやれとばかりに頭を振ると、何かを考え込んでいる周人に歩み寄った。
「ヤツは『キング』と呼ばれる世界でも、いや、人類においてトップクラスの強さを持っておる。ヤツの配下は数知れず、そしてかなりの強さを持つ者を4人従えている、と聞く」
「いくらなんでも人類ってのはオーバーだろ・・・」
「いや、マジじゃ。はっきり言って『キング』の強さは常識の範囲を大きく超えておる。ヤツに勝てる人間などまずおらんし、勝とうと思えばプロの武装集団と最新兵器でもない限り無理じゃろう」
自分の知る祖父である木戸鳳命は強さにおいてはプライド高く、戦国時代から四百年以上の歴史を持つ木戸無明流の中でも最強と言われていた存在だった。瓦にヒビを入れることなく穴を開け、その蹴りのスピードは常人をはるかに超越していた。本気になった自分ですらそうたやすく体にヒットさせることが難しいほどに強いのだ。その強さを持つ鳳命がこうまで言う人物だ、『キング』とはそれを超えた実力を持っていると理解できる。だが、それとこれとは話が違う。相手が最強であろうがなかろうが恵里を殺した犯人には違いないのだ。最強だからといって、はいそうですかと引き下がることなどできるはずもない。
「なら、オレがそいつを倒せば世界最強なわけだ」
周人は感情のない口調でそう言うとさっさとヘルメットを被ってエンジンを始動させる。目の前に仁王立ちする鳳命に一瞥をくれながら無言でどけと促すが鳳命は表情一つ変えずにたたずんでいるのみだ。そんな鳳命の横をすり抜けるようにして走り去った周人をゆっくり振り返る鳳命の顔つきはかなり鋭くなっていた。
「阿呆が」
そうつぶやいた鳳命はもう見えなくなった周人には目もくれずにさっさと家の中に入っていくのだった。