この命捨てても(1)
いつもは静かな住宅地は集まっているパトカーの多さに騒然とし、多くの野次馬でごった返していた。住宅地と人工的に作られた川とのちょうど中間地点というべき川沿いの公園でその事件は起こったらしく、土の地面を囲むようにして存在している茂みを含めたその公園全てが警察官によって立ち入り禁止とされていた。道路に面したその茂みを隠すように、テレビなどでよく見られる青いビニールシートがテントのように張られて視界を遮り、さらにそこがよく見えないようにと赤いライトを回転させたパトカーが2台停車して野次馬から事件現場を守るようにしているのだった。報道機関はまだ現れていないようで、それを目当てに来ている若い、いかにもチンピラ風といった格好の男たちが数人周囲を見渡すようにキョロキョロしていた。だが、男たちの期待も空しくついに報道機関は現れなかった。警察による仰々しいまでの厳戒態勢にも関わらず、殺人事件があったと言われるその現場に報道機関が1人も現われないというのも変な話だ。結局、白骨死体が見つかったがそれは犬のものだったという噂が流れたのはその事件から一週間経った日の事だった。
暗い廊下に置かれた茶色い横長の椅子に座っているのはまだ高校生とおぼしき少年だった。電気が点いているとはいえ薄暗いそこは病院か何かの廊下のようであり、白い壁と廊下、そして天井以外にある物といえば少年の目の前にあるこれまた白いドアだけと言えよう。うなだれるようにして座っている少年はガックリと頭を垂れ下げ、目も虚ろで一見すれば意識が無いようにしか見えないほどだ。焦点の合わない目はひび割れが見える白い床の一点を凝視したまま瞬きもせずに動かない少年はまるで魂でも抜けたかのように背景である白い壁同様無機質な存在となっていた。だからなのかはわからないが、自分以外誰もいない廊下を早足で駆けてくる靴音を聞いても何の反応も示せずにずっと同じ態勢でいるのかもしれない。角を曲がって現われたのはきちんとした制服に身を包んだ中年の婦警と、その婦警に先導される形で歩いているこちらも中年の夫婦とおぼしき男女だった。男性は会社帰りなのかスーツにネクタイといった身なりだが、女性の方はズボンこそ茶色い綿のパンツだったが、上は部屋着に見える赤いTシャツだった。そのアンバランスさがその女性の心理を顕著に表していると言えるのかもしれないが、悲痛な表情をしていた女性は椅子に座って呆けている少年を見て眉間にシワを寄せ、見る間に憤怒の形相へと変化させた。やがて婦警は少年を無視してその目の前にある部屋、ドアの上に掲げられた霊安室と書かれたその前へと立つ。
「さきほど司法解剖を終えたばかりです」
そう言いながら静かにドアを開く。部屋に入り、開け放ったドアの前に立った婦警は一礼してその中年夫婦を霊安室の中へと招きいれた。女性は少年を睨みつけるようにしてから部屋の中に入り、男性は死体のような少年を一瞥して女性に続く。先に入った女性は後から入ってきたその男性、夫の右腕にしがみつくようにするとその夫に支えられるようにして静かにゆっくり前へと進み始めた。部屋に電気は灯っておらず、中央に置かれたベッドの上に寝かされている人物の頭部分、白い布で覆って顔を見えなくしているその頭上に置かれた花と線香を挟む形で置かれているろうそくのわずかな明かりしかない状態であった。部屋のドアを開いたせいで風が舞い、ろうそくの火がゆらゆら揺れるたびに中にいる3人の影をも陽炎のごとく揺らめかせた。夫は足取りの重い妻を気遣いながらも白いシーツにくるまれてベッドに横たわっている人物の真横に立つと、震える手つきで顔を覆っている白い布に手をかける。夫にしがみついている妻は全身を小刻みに震わしながら祈るような気持ちでゆっくりめくられていく白い布の下にある顔に注目をしていた。だがその祈りも空しく、白い布の下から現われた顔は自分がよく知っている愛する娘のものに間違いなかった。夕食の支度をしていた際に鳴り響いた一本の電話。警察からのその電話を取った少女の母親はその知らせに一瞬気を失うほどの衝撃を受けながらも夫のいる会社に連絡を入れ、なんとか自分を保ちつつここまで来たのだ。間違いであってくれと何度も何度も祈りつつここまで来た母親の願いを打ち砕くその残酷な光景にめまいを覚え、夫に支えられてなんとか床に倒れこむことだけは回避できたのだった。
「外傷はありません。死因は暴行時によるショックの心臓麻痺。体内から犯人の体液も検出されました。現在鑑識班がDNAを調査中です」
そう知らせることが自分の任務とはいえ、同じ女性、同じ年頃の娘を持つその婦警にとってそれは最もつらく残酷な仕事と言えよう。悲痛な顔をしつつそう告げる婦警に小さく頭を下げた父親は静かに涙を流しつつ、娘の遺体にのしかかるようにして号泣する妻の背中をそっと撫でた。声を枯らせて泣きじゃくる妻を見つつ、苦痛を表現した涙をたたえたままの父親は一瞬ドアの向こうに見える少年を見てから婦警に質問を投げた。
「犯人については・・・何かわかっていますか?」
涙のせいで声が震えるが、ゆっくりと、だがしっかりとそう言葉にした父親の質問に婦警は冷静さを保つよう自分に言い聞かせながら答えを口にする。
「第一発見者であるあの少年の証言から、犯人はスキンヘッドの大男だそうです。お嬢さんを暴行した現場近くを通りかかった彼を襲い逃亡したとのことです」
その言葉に父親はこらえていた涙を一気に溢れさせ、人目もはばからずに泣いた。嗚咽が漏れる霊安室の前に座ったままの少年は全く動かないまま、相変わらず虚ろな表情で床を見つめているだけだ。魂の抜け殻になったようなその少年は長い前髪のせいかその目の光すら失っているように見える。
「この子が何をしたって言うの?この子がぁ・・・・・・恵里ぃぃぃ!」
絶叫する母親の声が霊安室はおろか静かな廊下にこだまする。眠るように横たわる娘はどんなに揺さぶられても、揺り動かされても、力なくその動きに合わせて体が揺れるのみであり、決して二度と目を開くことはなかった。母親はひとしきり咆えるがごとく泣きじゃくった後、急にフラフラと立ち上がるとおもむろにずっと座ったままの少年の方へと歩き始めた。
「あんたが・・・木戸ね?」
もはや化粧も何も無い涙でぐしゃぐしゃの顔を悪鬼のごとき怒りに変え、座ったままの少年である周人を見下ろしながらそう言う母親の声には怒りと憎しみが込められていた。ここでようやくその顔を上げた周人は瞳に光さえない虚脱した表情をしていた。もはや目に恵里の母親の姿が映っているかどうかも疑わしい。そんな周人に向かって無造作に腕を振り上げた母親は憤怒の形相を浮かべたまま力任せに周人の顔を、頭を殴りつけた。
「あんたが!あんたなんかが!あんたみたいなのと付き合ってなければ!あの子は死なずに済んだのよぉっ!」
涙を流したまま何度も何度も拳を振るう母親のなすがままにされている周人は衝撃を受けるたびにその体を揺り動かす。防御もなにもせずただ殴られつづける周人はそれでも人間らしい感情を何も見せずにいた。母親はそんな周人の態度が余計に腹立たしく、さらに力を込めて殴り続けた。止めに来た婦警すら弾き飛ばした母親はなおも執拗に殴りつづける。鼻と口から血を流しながらも無抵抗、無気力な周人。ここでようやく夫が周人から引き離し、まだ暴れ続ける妻を引きずるようにして霊安室の中へと引き入れた。
「止めなさい。気持ちがはかるが・・・・彼もまた傷ついているんだ」
「傷ついているのは私たちでしょ?あいつと付き合っていなければ、今ごろみんな一緒に楽しくご飯を食べてたのよぉぉ・・・恵里ぃぃぃぃぃ!」
母親は叫ぶようにそう言いながら強引に夫を振りほどくと力なく床に座り込んで泣きつづけた。父親は妻の傍らに膝を付きながら同じように涙を流しつつ優しい手つきでその背中をさするようにしてあげる。周人は婦警が取り出したハンカチすら受け取らずに再び床へと視線を落としてしまった。白い床に滴る赤い点々は増えていく一方だ。婦警はそっと優しく口と鼻から流れる血を拭いてあげると立つように促したが、周人は立つ気配を全く見せようとしない。
「行きましょう・・・さぁ」
再度優しく言ったその言葉に反応したのか、周人は婦警に支えられるようにしてゆっくりと立ち上がると、首を垂れたままフラフラしながら廊下を歩いた。涙も枯れんばかりに泣きじゃくる妻の背中をさすりつつ、死人のような顔をして去っていく周人を見やった父親は沈痛な表情を見せつつ同じように号泣するのだった。
今の精神状態ではとても詳しい事情聴取は不可能と判断した警察は周人を帰すことにした。自宅に電話を入れて迎えを要求したせいか、すぐに両親と哲生、そしてミカも駆けつけた。婦警に付き添われるようにして座る周人は椅子に腰掛けていたのだが、背もたれにもたれることはなくうなだれるように頭を下げ、人形のようにじっとしている状態にあった。右の鼻に詰められたティッシュが薄い赤に染まっている上に唇の端も切れて血が出た後が見受けられる。名前を呼ばれてもそちらを見ることもしない周人は死んだような目を床に向けているのみで何の反応も示さない。そんな周人に近づいた静佳がそっと周人の背中に触れた瞬間、周人の瞳に光が戻り、ゆっくりとその悲痛な顔を静佳の方へと向けたのだった。
「母さん・・・・・オレ・・・恵里を・・・・」
「もういいから、行きましょう。さ、立って」
さっき婦警が何度声をかけても微動だにしなかった周人が言われるままに立ち上がるその光景は奇蹟に近かった。魂の抜け殻だった周人を立ち上がらせた静佳はやはり母親だと思う婦警は簡単な説明をした後、車に乗り込むまで見送ってくれたのだった。
「彼女の家族もつらいでしょうけど・・・でも、彼女を発見した彼もまたつらいのにね」
遠ざかる車を見ながら小さくそうつぶやいた婦警は苦しげな顔をしたまま蒸し暑い夜の風に髪を揺らすのだった。そんな婦警に見送られながら広めの座席を誇る日本で一番の自動車メーカーであるカムイモータースの高級セダンモデルのヴィクトリアに乗る5人は言葉も無く暗い空気を漂わせていた。警察から一報を受けた静佳は帰宅したばかりの夫源斗と共にガレージへと走ったのだ。その際に珍しく仲良く一緒にいたミカと哲生に事情を話した結果、こうして一緒に来てくれた次第だ。周人は後部座席でミカと哲生に挟まれる形を取りながらも先ほど同様うつむいたまま虚ろな目で自分の膝をぼんやりと見ているだけだった。
「恵里ちゃん・・・・どうして・・・・・」
「犯人は?お前、遭遇したんだろ?」
青白い顔で震えるミカと違い、実に冷静な哲生はいつになく真剣な目で周人を見つめてそう質問を投げた。
「はげ頭の・・・・・大男だった・・・・・・・異常に、人間じゃない強さで・・・・・・でも、逃げられた・・・・・」
ぼそぼそつぶやくようにして夢遊病者のごとくそう言う周人に哲生は悲痛な表情で舌打ちをした。もはや昨日までの周人はそこにはおらず、いるのは周人の姿をした偽者のようだ。生気に満ち、幸せいっぱいだったあの周人の面影は微塵もなくなり、それこそ赤ん坊の頃からの付き合いをしている哲生とミカが見る初めての周人のその状態はかろうじて生きている老人に近いといえよう。
「あいつが・・・・恵里を・・・・・・・・・・・・・殺した」
搾り出すようにそう言うが、そこには何の感情もこもっていなかった。恵里を失った悲しみも、恵里を殺した犯人に対する怒りも何も。沈痛な面持ちで運転をしている源斗は息子の痛みが伝わるかのように胸が痛み、じっと前を向いたまま苦々しい顔をしている静佳は小さなため息をついたのみで何も言おうとしなかった。車内に漂う重い空気を吹き飛ばすこともできない4人は死んだような目をしている周人にどう声をかけていいかわからず、ただ沈黙を続けるだけだった。
翌日、新聞に小さな記事でその事件は取り扱われた。世間的にこういう事件が多いのかはわからないがその記事の小ささに両親は憤慨し、同級生たちはショックを受けた。通夜を営む祭儀場では葬儀屋があわただしく駆け回り、悲痛な心境に暮れながらも気丈に打合せをする父親、そして泣いてばかりの母親の姿もあった。駆けつけた親戚も号泣する中、犯人逮捕に向けて警察が本格的に動き始めたとの情報に一同はただただ早期決着を願うことしかできなかった。その頃、周人は電気も消されてカーテンも閉じられた部屋のベッドの上で膝を抱えるようにして座っていた。生きているのか死んでいるのかすらわからない状態の象徴といえる生気のない目は相変わらずだ。そしてそれは詳しい事情を聞くためにやってきた警察と対面しても同じであり、抜け殻になったような体を支えてくれたのは心配になって家を訪ねて来ていたミカと哲生だった。あの明るかった面影はなく、死んだようなその姿にミカは涙し、哲生はつらい気持ちを隠せずに沈痛な表情しかできなかった。哲生は周人がどれだけ恵里を好きでいたか、どれほどの決意で彼女を守ろうとしているかを知っていただけにそれができる力を持ちながら何もできなかった周人の気持ちを察したが、どう声をかけていいのかもわからない。そしてミカもまた恵里がどれだけ周人を好きでいたかを知っているだけに、とめどなく溢れてくる涙を拭うことしかできないでいた。青いビニールシートでテントのようにされた事件現場で現場検証を行なう中、周人はか細い声で事件当時のことを思い出しながらどういう状況だったかを説明した。だが、恵里の変わり果てた姿を見つけた茂みを見ることも近づくことさえ全くできなかった周人は土にまみれたその姿、冷たい感触を鮮明に思い出して胃の中の物を吐くといったことをしてしまうほどだった。自分の非力さを呪い、悲しみと絶望だけが心を支配している。犯人に対する怒りすらその心に押さえ込まれているのかまったく湧いてこなかった。結局夕方までかかった現場検証を終え、周人は両親とミカ、そして哲生に連れられる形で通夜を行なう祭儀場にやってきた。魂を抜かれたような周人を見た恵里の父親は悲痛な顔をしながらもそんな周人に頭を下げ、泣いてばかりいた母親は恨みを込めた目で睨みつけるようにしていたが最後まで周人は何の反応も示さなかった。やがて始まった通夜だが、周人は焼香すらできずにいきなりフラフラと立ち上がるとその場を立ち去るように外へと出た。入り口である自動ドアをくぐればすぐそこは駐車場だ。多くの友達が涙に暮れる中、彼氏であった周人はたった一滴の涙すら見せなかった。ただ虚ろな目で頭上に浮かぶ爪の先のような形状をした月を見上げているだけだ。やがて通夜を終えた同級生の女子、恵里の友達たちが外へと出てくる中に立つ周人に向かって恵里と周人が付き合っていたことを知る女子生徒の1人が近づいてきても何の反応も見せずにただ月を見上げているのだった。
「あんた・・・何?涙も見せないなんてサイテー!」
そう言われても変わらずぼーっと月を見ている周人に向かって恨めしい顔をするその女子の言葉に一緒にいた友達も一斉にうなずく。
「途中でいなくなるし・・・大体あんたが第一発見者なんでしょ?あんたが殺したんじゃないんでしょうね?」
泣いたせいで目が充血したその女子の言葉にも全く反応を見せない周人はゆっくりした動作で月から近くにある高級そうな車へと視線を落としたのみだった。その反応にますます怒りをたぎらせる女子生徒は周人の腕を掴むと無理矢理自分の方へと体を向けさせた。
「あんた・・・恵里のことホントに好きだったの?あんたなんかと付き合った恵里が可愛そうだよ!そうしなければこうして・・・・・こんな・・・・」
そう言うのが精一杯なのか、その女子は涙に声を震わせながらも周人を睨むことしかできなくなってしまった。周人はその女子と目を合わすことなく、ただ地面をぼうっとした様子で見ているのみであり、言葉1つ発しない。それが女子生徒の怒りを再度燃焼させた。
「何よ、そのわざとらしい演技はっ!謝れ!恵里に・・・」
周人に掴みかかってそう叫ぶ女子生徒の腕を掴み上げたのは無表情の哲生だった。突然腕を掴まれて怒りの矛先を哲生へと向けた女子生徒だったが、その目に宿った静かな怒りを見てその怒りが徐々に薄れていくのを感じる。
「もうよせ。それこそ死者を、恵里ちゃんを冒涜することになる」
静かにそう言う哲生はそっと掴んでいた腕を離すと優しい手つきで周人の背中を押すようにして祭儀場の中へとうながす。
「でもっ!こいつが!」
「友達を亡くした怒りをこいつにぶつけたい気持ちもわかるけどな、好きな相手を失った、その変わり果てた姿を見つけたこいつの気持ちも察してやれよ。お前が本当に恵里ちゃんの友達なら、それができるはずだろ?」
いつになく真面目で冷静にそう言う哲生にその場にいた女子たちは皆黙り込んでしまった。祭儀場の入り口付近で心配そうにその様子を見ているミカは胸の前でギュッと拳を握り締めたまま頬を伝う涙も拭わずにその場に立ち尽くしていることしかできない。
「さぁ、行こうぜ」
そう言って周人の肩を抱くようにしながら周人の歩くペースに合わせて前へと進む哲生に何も言い返せない女子たちはそれでもまだ周人の背中を睨んでいた。やがてミカの傍へとやってきた2人は周人の両親にうながされて車へと乗り込み、その場を後にしたのだった。
結局、葬儀の時も周人は全く涙を見せなかった。棺桶に花を添えることも、その死に顔を見ることも無く、周人は抜け殻のような状態を続けていた。ただぼうっととびっきりの笑顔を見せている正面上に置かれた遺影を見つめているのみであり、かといって何か反応を見せるということもない。哲生とミカに寄り添われて両親に頭を下げるのが精一杯の周人は最後にもう一度だけ遺影を振り返った。そんな周人を見る恵里の父親は何を思ったのか妻が止めるのも聞かずに外へと出た周人たちの後を追った。3人はまだ入り口を出たばかりであり、今日という日に似合わない素晴らしい青空の下でぼうっとした周人を見ている哲生、そしてハンカチで涙を拭いているミカへと歩み寄った。間もなく出棺となるこの時に喪主がいないことでざわめく場内を無視してやってきた父親はまっすぐに周人の正面に立つと虚ろなその目を覗き込んだ。
「君といた2ヶ月間、娘は本当に幸せそうにしていた・・・だから、それに関しての礼だけを言わせて欲しい・・・ありがとう」
そう言って軽く頭を下げた父親を見上げた周人は一瞬だけ父親と視線を交わしたがまたすぐに焼けたアスファルトへと顔を伏せるようにしてしまった。ミカと哲生にも軽く頭を下げた父親は足早に場内へと戻ると怒った顔をする妻をなだめつつ出棺の準備に取り掛かったのだった。だが、今の場面においても全く何の反応も見せなかった周人は昨日の女子生徒のみならず他の生徒や友達たちからも白い目で見られるようになってしまった。冷たい視線を感じて戸惑うミカをともない、哲生はそんな視線など気にならないのかさっさと周人を連れてその場を立ち去ったのだった。
単純に暑いというよりはどこか蒸し暑い感じがする。しかも今の時間は午後6時を回っており、普通で言えば少しは涼しさを感じてもいい時間帯なのにこの暑さは異常とも取れるだろう。多くの家庭では昼間からクーラーを入れていないと蒸し焼けになってしまうここ最近の真夏日には閉口気味になっており、窓を開けても一向に入ってこない風に苛立つほどであった。そんな暑い中、ミカは今日発売の雑誌を買い忘れていることに気づいて外を歩いているのだが、キャミソールにミニのパンツという格好でも暑さを避けることはできなかった。ひときわ目立つ大きな胸も関係なく、自宅から歩いてわずか3分足らずの本屋へ行った後で自宅の前を走る道路を挟んで斜め向かい側にあるコンビニで涼しい風に当たりながら立ち読みをする。暑かった空気が嘘のように快適なその空間をしばらく楽しんだミカは時計を見ながら間近に迫った夕食の時間に合わせられるようにとコンビニを出るのだった。風呂上りに雑誌を読みながら飲むためのジュースを買い、意気揚揚と店を出たのもつかの間、殺人的な熱気、湿気がまとわりつくかのようにさっきまでの快適な空気を押し流していく。大きくため息をついたミカはそんな暑さから逃れるように買った雑誌でパタパタ団扇替わりに仰ぎながら車が途切れるのを待っていた。
「あれ・・・・しゅうちゃん?」
ちょうど道路を挟んで真向かいをトボトボとした足取りで歩いているのは間違いなく周人だ。相変わらずぼうっとした様子だが、葬式も終わって気持ちの整理がついたのか外出出来ていることににんまり笑ったミカはようやく途切れた車の波を確認して小走りで道路を渡る。反対側から同じようにして渡っている会社帰りのサラリーマンの目を引くほど大きく揺れている胸を弾ませながら、ミカは後ろから周人に声をかけた。
「しゅ~うちゃん!」
肩をぽんと叩いて笑うミカを見る周人の目はどこか冷たく、長めの前髪で隠されているその瞳に宿った光は無いに等しかった。睨むような周人の視線すら笑って受け止めたミカはチラッと自分の見ただけの周人がそそくさと歩き出すのを見て黙ってそれに並んで歩いた。昨日までのような呆けた様子は無いものの、やはり持っている空気は暗く、そして重かった。ミカはそんな雰囲気を感じ取ったせいもあって何も言わずにただ一緒に並んで歩いているだけだ。やがて2人は大通りから右に折れて少し狭い感じのする路地へと入っていく。ここまで一言も発していない周人に対し、同じように何も言わずに並んで歩いているだけのミカの手が偶然ながら周人の手に当たった。その瞬間、体をビクッと震わせたのはミカか、それとも周人か。恐る恐る周人を見たミカは驚いた顔をして元から大きな目をさらに見開いた。自分から見て左側を歩いている周人の頬が濡れている。垂れ下がった前髪で目はよく見えないが、頬は上から伝う雫で濡れていたのだ。肩を震わせながら歩く周人の足取りがゆっくりと止まる。それにあわせてミカも足を止めると恐る恐る周人の正面へと回った。ギュッと目をつぶり、肩に力を込めるように震えながら泣いている姿がはっきりと見える。一昨日、そして昨日と涙を全く見せなかった周人が、今、子供のように泣いているのだ。顔を伏せ、とめどなく流れ落ちる涙を拭うこともせずにただ泣きじゃくる周人をそっと抱き寄せたミカもまた目から涙を流していた。
「え・・・・・り・・・」
搾り出すようにしてそう言うのが精一杯なのか、周人は強くミカを抱きしめるようにしながらその胸に顔を埋めて泣いた。力なく膝が折れ、まだ熱さを残すアスファルトの上に膝立ちになる2人は抱き合って涙を流した。やがて先に泣き止んだミカが周囲の視線など気にすることもせずにただ泣きじゃくる周人の頭を撫でてあげる。まるで女神のような慈愛に溢れたその抱擁に、周人は嗚咽を漏らしながら泣きつづけたのだった。
「大丈夫?」
ようやく落ち着きを見せた周人が自分の胸から顔を離すのを見たミカは優しくそっとそう言葉を発した。青いキャミソールの胸部分は色が変色してしまうほど濡れているが、ミカはそれを気にすることなく両膝に手を置きながらしゃくりあげる周人をみつめた。
「すまない・・・・・・・オレ・・・・」
搾り出すようにそう言うのが精一杯の周人に聖母の微笑を浮かべたミカはそっとハンカチを差し出してあげた。周人はそれを受け取りながらほんの少し、注意していなければ誰も気付かないようなかすかな笑みを浮かべてそれを受け取ると自分の濡れた頬をそれで拭いていくのだった。
「こうして並んで帰ったこととか、手が・・・・・手を繋いだことを・・・・思い出したら・・・・あの時で涙は、涙は枯れたと・・・・思ってたのに」
言いながらもまた涙が零れ落ちた。通夜でも葬式でも見せなかった涙が、恵里を失ったという現実を受け入れられなくて自分の中に閉じこもっていたために流れなかった涙がここへ来て一気に溢れ出したのだ。その冷たくなった体を、変わり果てた体を抱きしめて泣いた時以来の涙はとめどなく溢れて小さなハンカチでは拭えないほどの量となっていた。どれだけ恵里を好きでいたかを表現するその涙を見たミカもまた大粒の涙を止めることなく流しつづけた。やがてひとしきりの涙を流した後、2人はゆっくりと立ち上がり、すぐ近くにある駐車場の車輪止めに腰をかけた。ようやく落ち着いた周人は以前同様ぼんやりとしているが心ここにあらずというような状態ではなく、何かを思い出しているような感じで一点を見つめているのだった。ミカももう泣き止んでおり、こちらはいつものような感じで暗くなった空を見上げていた。
「ありがとう・・・少し、スッキリしたかもしれない」
黒いアスファルトを見つめたまま静かな口調でそう言う周人だが、そこに一切の感情もなければ表情もなかった。それでもミカはにこやかに微笑むとそんな周人の横顔を見つめてみせる。なんの表情もないその横顔だったが、ミカはそこに死んだようにしていたこの数日の周人にはない温かさを感じるのだった。
「いや、スッキリはしてないかもな」
今言った言葉を即座に否定した周人は無表情のままそっと顔を上げた。悲しみをたたえた目は薄闇に浮かぶ白い雲を見ている。
「仕方ないよ・・・まだお葬式が終わったばかりだし、犯人も捕まってないし」
普段の子供っぽい間延びしたしゃべり方が芝居なのかと思えるほど真剣にそう言うミカの口調に思わず苦笑を漏らす。そんな周人を見て微笑むミカは少しながら精神状態が安定してきている周人にホッとしていた。
「いつまでもこうしていても・・・あいつは喜ばないよな、絶対」
その前向きな言葉に嬉しそうな顔をするミカだったが、実際立ち直るにはまだまだ時間が掛かることはよくわかっている。そう簡単に気持ちが切り替えられないほどに恵里を愛していた周人を知っているだけに今はその気持ちを尊重しようと思ったのだ。
「早く捕まるといいね、犯人」
「・・・ああ」
そう言う周人の表情は硬い。あの時たまたま遭遇した犯人の顔は今でもはっきり覚えている。切れ長の細い目にスキンヘッド、さらには2メートル近い巨体。何より人間とは思えないほどの強さを持ったあの男の事を思い出せば怒りとともに恐怖も蘇ってくるのだ。自分の強さにそれなりの自信を持っているにも関わらず、相手の攻撃を防ぐのが精一杯だった。圧倒的存在感、パワー、そしてプレッシャー。どれを取ってもおおよそ人間とは思えない強さを持っていたあの男を、果たして警察がすんなりと捕らえられるかは疑問だ。だが、今は信じて待つしかない。
「復讐したいとか、思ってる?」
大人びた口調でそう言うミカの言葉に顔を上げた周人だが、眉間にシワを寄せて表情を曇らせるしかできない。
「したいと思う反面、あいつとは向き合いたくないって自分がいる・・・あの強さ、オレやテツとは次元が違う」
「そんなに?」
「あぁ・・・・・・人間とは思えない」
ミカは周人と哲生がどれほどの実力を持っているかをよく知っている。以前に3人で東京に遊びに行った際に二十歳前後の不良グループ8人にからまれたのだが、わずか数秒で全員の意識を奪い去るほどの強さを誇っているのだ。その周人がそうまで言う相手など想像もできない。
「そう・・・」
もはや返す言葉も持たないミカのその返事に小さな苦笑を漏らした周人はおもむろに立ち上がると座っているミカに手を差し出した。その手を握るミカを引っ張り起こした周人はその頭に左手をポンと乗せる。
「ありがとうな。お前がいてくれてよかったと思ってるから。本当に感謝してるから」
照れたようにそう言うと、周人は自宅の方へと向かって歩き出した。そんな周人の背中ににこやかな笑みを見せながら、ミカは周人が泣いたことを誰にも言うまいと心に誓ったのだった。