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くもりのち、はれ異伝ー約束の夜へ-  作者: 夏みかん
第1話
6/33

天使消失(6)

いつもの習慣というのは本人が自覚しないところで働くものだ。毎朝5時に起きて往復十キロのものランニングに腕立て伏せや腹筋といった基礎体力作り、そして染み込んだ武術の型を練習している周人は今日もまた目覚ましが無いにも関わらずしっかりと目を覚ます。もはや目覚まし時計よりも正確に目覚める周人だったが、すぐ鼻先で規則正しい小さな寝息を立てている少女の寝顔を焦点の定まらない目で見つめた。寝ぼけた頭が覚めてくるにつれて焦点が定まり、カーテン越しに明るくなってきている窓のおかげで少女の顔がはっきりと認識できた。愛しい人の寝顔を間近で見つつ小さなあくびをした周人はタオルケットがはだけて肌を露出している肩にそっとかけてあげる。夏だけあって既に暑い感じがするが何分二人とも素っ裸なだけに体が冷える恐れがある。周人は眠る恵里の顔を見つめながら昨夜というよりはつき先ほど体験した夢のような時間を思い出して思わずニヤけてしまうのだったが、果たして恵里の体、とりわけ心臓に負担を与えなかったかどうかという不安もあった。なにせ2人とも全てが初めての経験だっただけに手順も何もかもが未知の世界だ。冷静さを保ちながらも本能と欲望のままに走ってしまったのではないかとも思える周人は安らかな寝息を立てている恵里を見る限りは大丈夫そうだと思い、そう自分に言い聞かせた。顔の傍に置いている左手にそっと触れれば無意識的にそれを握り返してくる。周人は繋がれた手の温もりを感じながら目を閉じ、再度眠りへと落ちていくのだった。そして次に目を覚ました周人は自分を見つめている視線を感じて重いまぶたを開いた。そこにはカーテン越しの朝日を受けて微笑む恵里の顔があった。早朝に繋いだ手はそのままのようで、しっかりと握り合っているのが見て取れた。


「おはよう」


天使のような笑顔でそう言う恵里の言葉に周人も淡い微笑を浮かべてみせた。


「おはよう・・・よく眠れた?」

「うん」

「そっか・・・」

「でもイビキがうるさくて目が覚めた」

「マジっ?」


さっきまでぼんやりしていた意識が今の一言で急速に覚醒した。思わず身を起こした周人だったがくすくす笑う恵里の顔を見てほっとしたような、それでいて少し怒ったような顔をして再度寝転ぶ。


「嘘だよ。可愛い寝息立ててた。子供みたいに」


にこやかにそう言う恵里に小さく笑った周人は自分は子供みたいでも恵里は天使のようだったと早朝見た寝顔を思い出していた。


「もう8時半、起きて朝ご飯食べたら出かける準備しないと」

「そっか、そんな時間か・・・・・・寝たのが遅かったわりにはそんなに眠くはないな」


2人が寝たのは結局2時半頃だった。その上周人は5時に一度目を覚ましている。実質6時間も寝ていないのだが実にさわやかな朝なのはやはり恵里と一緒にいるせいだろう。恵里はタオルケットを胸に当てながら身を起こし、寝癖ではね上がった後頭部の髪を数回撫でてからカーテンから透ける朝の光へと顔を向ける。その仕草に周人の胸は高鳴り、寝顔同様やはり天使のように見えていた。透き通るような白い肌を見せるその背中に翼があっても不思議ではないとさえ思える周人もまた身を起こすと下半身にタオルケットを置いて座ったまま背伸びをした。そんな周人の上半身を見ている恵里は昨夜暗かったせいでよく見えなかったそのたくましい筋肉質な体に驚く。鍛えているとはいえ、がっしりしたわけでもなくあくまで自然な形で筋肉がついている実にかっこいい体つきに感嘆のため息をついた。


「すごいね」


きれいに割れた腹筋をまじまじ見ながらそう言う恵里に微笑んだ周人はわざとその腹筋に力を込める。さらにくっきりと割れる腹筋にそっと触れた恵里はその硬さに驚いた。例えるならばまるで鉄板のようだ。


「すごいね・・・」


もはや同じ言葉しか出てこない恵里に小さく笑う周人は腹筋に触れている手をそっと握ると自分を見つめる恵里の瞳を覗き込むようにしてみせた。


「こんなに鍛えて意味があるのかって思ってたけど、今なら意味があるよ。君を守るために、そのために鍛えてるってね」

「うん。守ってね、王子様!」


そう言って抱きしめあう2人は軽いキスをした後、恵里はベッドを降りてシャワーを浴びに行った。何も隠されていない悩ましい曲線を描く後ろ姿を見つつだらしがない顔をする周人だったが、何があろうとも絶対に守り抜く決心を胸にベッドから降りると散らかすように脱ぎ捨ててある下着を履くのだった。


その日は近くにある大型公園でサイクリングをしたり散歩したり、パターゴルフをして楽しんだ。身も心も結ばれたせいか2人の中にもはや壁などなく、周囲に見られて恥ずかしいという気持ちもなくなって堂々といちゃつくこともできた。それでも巷で見るようなバカップルと言われるよう行為はもちろんしていない。元々そういう性格ではない2人だけに、手を繋いで歩いていたのが肩を抱くようにくっついて歩くだとか、ベンチに座って1つのアイスクリームを一緒に食べあう程度のものだ。今、2人は幸せの絶頂にいた。何をしていても楽しいし、何を話しても盛り上がる。人を好きになる喜びを知り、愛する、愛される、想い、想われるということの意味を噛み締めた。人気がなくなればそっとキスをし、抱きしめあう。世界が違って見えるほど充実した時間を過ごした2人はいつも通りと言うべきファミレスで夕食を取ったあと、名残惜しそうにして別れた。もちろん明日も会う予定として。帰宅した周人はTシャツはそのままに着慣れたややボロっちいジャージを履いてランニングへとでかけた。住宅地を抜けて広めの道路の先にある人工的に作られた川を横目に毎年春には素晴らしい桜を咲かせる桜並木が緑豊かな葉を揺らしてトンネルを形成している中を駆ける。その先には少し大きめの野球グラウンドが緑のフェンスに囲まれて存在しており、さらにその奥には濃い茂みによって囲まれたその土地本来の土が残された公園があった。その公園でひとしきりトレーニングをした後、そこをぐるりと回って川を挟んで反対側にある綺麗に整地された子供向けの公園、砂場や滑り台など多数あるその公園を通って帰るのが毎朝毎晩のコースとなっていた。


「よっ!」

「おう、テツ、珍しいな」


ブランコの横でストレッチをしていた哲生に声をかけられた周人はその足を止めて近寄っていく。暗い公園にカップルの姿すらなく、ジョギングをしている人も見当たらない。だからこそ、向こうから走ってくる人影に注意していた哲生はすぐにそれが周人だと気づいたのだ。


「珍しくないって。夜は珍しいけど朝はほぼ毎日走ってる」

「そんな程度じゃ体がなまるぞ」

「『気』の本質は内部に作用するからな。ようするにメンタル面だ。よって体を鍛えるのは人並み以上で十分。お前みたいに異常には鍛えない」


何故か偉そうにふんぞり返るようにしてそう言う哲生に苦笑を漏らした。


「跡取りがこれじゃ、佐々木流もおじさんの代で終わりだぜ」

「そうでもないさ」

「そうかい」


そう言う周人に向かって一切の殺気、予備動作もなしに手刀が振られる。顔を狙って振られたぼんやりと淡く輝くその手を、周人は無造作に掴んで見せた。


「また強くなったのか?」


まさか掴まれるとは思っていなかった哲生は苦笑気味にそう言うが、周人は余裕の表情で笑っている。当てるつもりで、本気で放った不意打ちを簡単に防いだその動きは哲生の予想を遥かに上回るものだった。


「強くなる、強くならなきゃならない理由ができたからな」

「恵里ちゃんか」


きっぱりとそう言った周人の言葉から導き出される答えは実に単純明快であり、2人の関係を知っている者であれば誰でもわかるものだった。


「いやに気合十分だな・・・エッチでもして気持ちが高ぶったか?」


その言葉に周人は息を飲むようにしながら顔を赤く染めた。いつもはポーカーフェイスでかわす周人だったが、結ばれてから1日も経っていないせいかあの夢のような時間、美しい裸体を思い出してしまった挙句に表情に出てしまったのだ。冗談で言った言葉がまさか本当だったとわかった哲生は驚きを超えた衝撃を受けて固まってしまい、それから肩をワナワナと震えさせた。特定の彼女がいない哲生だが、気に入った子には片っ端から声をかけている。それは自分に合った、自分と波長が完全に合う女性を追い求めているからだ。だがいつしかそれはただ可愛い子と仲良くなっていろいろなやらしい事を含めた経験をしたいというよこしまな欲求へと変化してしまっていた。だからこそ、自分でもまだなのに先に周人がそれを経験したという事はショックでしかなかった。哲生はおもむろに周人の胸倉を両手で掴み上げると鼻息も荒く顔を近づけた。


「こいつぅ!俺でも、俺ですらまだなのに・・・なのにお前は!しかも胸もそこそこなそのスタイル抜群の恵里ちゃんとぉ!・・・で、どうだった?よかった?感触は?気持ちよかった?どんな感じだった?」


最初の怒りはどこへやら、矢継ぎ早にそう質問を浴びせる哲生の腕を強引に振り解いた周人は呆れを通り越してもはや怒りがこみ上げてきた。


「なんなんだよ、お前は!ほっとけって!何でいちいちお前に報告しないといけねぇんだよ!」

「うらやましいからに決まってるだろうが!」

「しるか!そんなにしたけりゃミカとでもしてろ!」

「・・・・・そういう妥協案もあるなぁ」


突然アゴに手を当てながら神妙な顔つきになる哲生を見た周人は急速に冷静になりながら今の言葉が失言だったと自分を責めた。ただエッチしたいためでも言葉巧みにミカを誘えば哲生を好きなミカはそれを承諾するだろう。一時の快楽を求める哲生と好きだからこそ全てを捧げるミカ。その場合傷つくのはもちろんミカだ。


「でも、やっぱ無理だな。たしかに顔もそこそこ、胸はまぁかなりデカイし、スタイルもいいけど・・・最初の相手としたら却下だな。ここはやっぱ学年ナンバーワンの美咲ちゃんしかいない」


腕組みしてそう言う哲生は自分の言葉に納得してうんうんうなずいた。そんな哲生に大きなため息をついた周人は脱力しきりとなり、いまだにぶつくさ言いながら何かを想像してニヤニヤしている哲生を残してさっさと走り去ったのだった。


その日は遊びに出かける予定だったのだが、夏休みの宿題である読書感想文のための本を探すために学校の図書館を利用したいと言う恵里の希望を叶えるために周人もそれに同行することにした。周人自身は読書感想文など適当に書いて出すつもりだったのだが、真面目な恵里はそれをしない。だが常に一緒にいたい周人は制服に着替えることも苦痛ではなく、待ち合わせ時間である10時に間に合うように家を出たのだった。普段通学している感覚で電車に乗り込むが、ラッシュの時間でもなければ学生もおらず、余裕で座れるという状況に違和感を覚えてしまう。それに制服姿の学生が一般客の中に混ざっているということ自体が周囲の雰囲気的に違和感となっていた。夏休みであるこの時期、この時間に制服姿でいる周人は少し注目を集めながら一駅を過ぎ、恵里のいる駅に到着した電車を降りようとした矢先に1つ向こうのドアの前に立つ彼女の姿を見つけて車両を移動しながら軽く手を振った。それに気づいた恵里はトレードマークとなった可愛らしい笑顔を見せながらドアが開いたと同時に車内に飛び込んできた。


「乗ってるかなぁって思ってたけど、さすがだね」

「待たせるのは嫌いなんだ。待つのはいいんだけどね」


そう言いながら笑う2人はガラガラの椅子に並んで腰掛けた。もちろん今からは名前で呼び合うことはせずに以前どおり名字で呼ぶ。さらに手を繋いだりもしないという暗黙の了解が働いたが、お互いが意識しなければ手が触れ合い、ついつい名前で呼んでしまっていた。今はまだいいが、学校では絶対にそれをしないように決めた2人はどこか会話もぎこちなくなりながらいつも歩いている道を行く。部活でランニングをしている同級生たちに会釈をしながら校門に近づいていくのだが、2人が並んで歩いているだけで話題になっていた。そんなことなど気づかずに校内に入った2人は昇降口で上履きに履き替えた後、まっすぐに3階にある図書室へと向かった。それなりの広さを誇る図書室は誰もいないと思われたのだが、意外にも2、3人の生徒が読書をしていた。


「夏休みの過ごし方を知らないのか?」


つぶやく周人が通り過ぎざまに学年章を見ればそれが3年生であることがわかる。参考書も多数置いてあるここで受験勉強をしているようであり、さっきの言葉を自分で撤回しつつも1年後の自分をそこに重ねて少しげんなりした表情になった。恵里が本を選んでいる間は退屈な周人は窓際に腰掛けてそこから見えるグラウンドの様子をぼんやりと見ていた。そのまましばらく眺めた後、チラリと恵里の姿を追うが背の高い棚を見上げながらまだ本を選定しているようだ。もはや座っているのも退屈になった周人はそっと立ち上がるとトイレへと向かった。ゆっくりした歩調でトイレへと入り、用を足してまたゆっくりと図書室へと向かう。


「木戸じゃないか・・・休み返上でどうした?」


後ろからそう声をかけられた周人がゆっくりと振り返れば、そこには担任の教師である坂本が立っていた。とりあえず頭を下げた周人はどう弁明しようかと脳をフル回転させる。読書感想文のことを持ち出せばここで本を借りた上にしっかりとした感想文を書かなくてはならなくなる。かといって恵里についてきたといえば2人の仲を勘ぐられてややこしいことになってしまうだろう。悩む周人はとっさに調べものですと答えた。


「パソコン関係の本が見たくて・・・買うのももったいないと思ったもんで」

「そうか・・・・そうだ、お前、明日暇か?」

「え・・・あ、いや・・・昼間は問題ないですけど・・・」


とっさにそうバカ正直に答えてしまった自分をしまったと思いつつ、ドキドキしながら坂本の返事を待つ。


「じつはプールの掃除をしなきゃならないんだが・・・夏風邪をひいてるやつがいてな。できたら手伝って欲しいんだ。もちろん報酬としてジュースをおごる」


明日の昼間は恵里が家の都合で会えないため、夕方に会うことにしていた。よってプール掃除は日差しも最高潮な午後から行なわれるという話を聞いた周人はとりあえずOKとし、後で恵里と相談しようと考えた。周人の返事に満足げな顔をした坂本はよろしく頼むと言い残し、職員室のある方向へと去っていった。その坂本の後ろ姿を見ながら鼻でため息をついた周人は少し早足になりながら図書室へと戻る。恵里が待っているのではないかと思ったが、恵里は一冊の本をぺらぺらとめくりながら何かを考えるようにしている状態だった。周人は元いた窓際の席に座ると近くにあった雑誌タイプの参考書を開いてカムフラージュのように目の前に置くと、少し遠い目をしながらあくびを噛み殺すのだった。そうして三十分後、ようやく本を借りた恵里がうつらうつらしていた周人のほっぺたを優しくつまむ。その衝撃で体をビクッとさせて目を覚ました周人は笑いをこらえながらもくすくすと漏らす恵里の笑顔を見て小さく微笑んだ。そのまま図書室を後にした2人はまっすぐ昇降口に向かうと靴を履き替えてすぐさま学校を後にした。時間はちょうどお昼になろうとしている。


「じゃぁ明日はどのみち夕方になっちゃうね・・・」

「プールで水浴びも悪くないし・・・ま、さっさと終わらせてすぐ帰るさ」

「うん」


どこか暗い感じのその返事に周人が顔を覗き込む。恵里は暗い顔をしていたが、それに気づくと微笑みを浮かべてくれた。


「ねぇ、手ぇつないで帰ろうか?」


今はまだ学校を出たばかりであり、貯水池を迂回する道に差し掛かったばかりだ。どこで誰が見ているかわからないだけに周人は少し戸惑ってしまった。


「いいけど・・・いいのか?」

「いいよ」


はっきりそう言う恵里に苦笑を漏らした周人はいつものように優しく手を握り、指を絡めあう。


「結構アレだな、大胆になったよな、恵里も」

「それだけ周人が好きってこと!」


付き合い始めた当初では考えられないその言葉と積極的な態度に苦笑した周人だったが、それも悪くないと思えた。なによりその恵里の変わりようは自分がさせたと誇れるからだ。


「オレが恵里を好きな方が大きいけどな」

「あぁ~!ひっどーい!絶対私の好きって気持ちの方が大きいよ!」

「いいや、オレだね」

「私よ!」


周囲が聞いたならばノロケ以外の何物でもない会話を続ける2人は照りつける真夏の太陽すら敵わないほどのアツアツ振りを発揮しながら駅へと向かい、そこでファーストフードの昼食を取ったのだった。


その日は絶好のプール掃除日和だった。大きな入道雲が空を支配しようとその姿を誇示する中、周人は同学年の生徒たちとわいわい騒ぎながら掃除をしていく。家を出る前に恵里にメールをした周人は早く帰ると約束をしていたし、恵里からも『早く帰ってきてね、約束だよ!』との返事が返ってきていたために、周人ははりきって早く終わらせようと気合を入れていた。だが実際はそううまくいかない。坂本が生徒ごとプールに水を巻けば生徒は逆襲とばかりにモップを振りかざす。そんな感じで掃除をすれば早く終わるわけもない。だが楽しい時間に変わりがないために周人もまた時間を忘れてはしゃいでいたのだった。学校指定の水着姿の生徒7人と監視役の教師2人は午後1時から始まった掃除を遊び半分でやったために5時すぎまでかかって終わらせ、更衣室でねぎらいのジュースを飲みながら談笑をして楽しんだ。周人は掃除が終わった直後に掃除完了メールと打ち上げのことを告げ、少し遅くなると恵里にメールをした。この調子で行けば家に着くのは6時を回るかもしれない。そう考えていた周人の携帯がズボンのポケットの中でぶるぶる震えてメールの受信を告げた。


『あんまり遅いと泣いちゃうゾ!家に迎えに行くから早く帰ってきてね!』


その文章を見た周人は小さく微笑むと用事があるからと言って荷物をまとめ始める。


「なんだよ、彼女と待ち合わせかぁ?」


その坂本の一言で周囲が盛り上がる。


「彼女って稲垣?仲いいもんなお前ら」

「違うよ・・・テツと約束してるもんだから」

「テツと言う名のコードネームの女だな」


そんな周囲の冷やかしを受けながらも軽くかわした周人はみんなに別れを告げると意味ありげな笑みを残して更衣室を出て行った。


「マジで急がないとマズイな」


電車の時間まであと10分少々。普通に歩いて15分かかるために走らなくてはならない。はしゃぎすぎて少しへばっている周人だが、恵里を想えば力も出る。だが無情にも夏休みとあって定期が無く、切符を買っている間に電車は行ってしまった。ガックリうなだれる周人は15分に一本しか来ない今の時間帯を呪いつつ恵里に乗り遅れた旨を伝えるメールを送ったのだが、結局電車が来るまでに返事は返ってこなかった。


いつもトレーニングをしている公園から四百メートルほど南に向かった所に電車の高架があり、そこが最寄りの駅となっていた。周人は駅を出てすぐに恵里に電話をかけるが一向に出る気配がない。何度コールしてもそれは一緒であり、留守電へと変わってしまった。


「こりゃ結構怒ってるなぁ・・・」


苦々しくそうつぶやいた周人は水着が入った小さなリュックを背負うと今日は運動靴ということもあってジョギング感覚で走り始めた。普段通学となれば学校指定の革靴でなければいけないのだが、今日はそういうものでもないためにスニーカーを履いて出ていたのだ。荷物も苦にならないほどでしかないために軽快に飛ばす周人はこれならば今日の夜のトレーニング替わりになると思っていた。時間はもう既に7時を回っており、早く帰るという約束を破る結果となっている。その思いからか少しペースを上げた周人が茂みの公園に差し掛かったその時、頭の中で何かが引っかかるようにして電撃に近いものが走った。すかさず立ち止まり、周囲の様子をうかがうが別に変わったところはない。だがますます頭の中で鳴り響く警鐘は大きくなる一方だ。


「なんなんだ・・・この違和感・・・・いや、『気』か?」


そう思い、周囲の気配を探るべく意識を集中させた。柔らかい風に揺れる木の葉、その風のゆらめき。自然が織り成す気配の中になにかドス黒いものを感じた周人はその気配がする左手側の茂みの方を凝視した。意識を集中させてその茂みの様子をうかがえば全身に鳥肌が立ってくる。


「何だ・・・こいつは・・・」


凄まじい気合のようなものがそこから膨らんでいくのを感じた周人は荷物を下ろすとゆっくりとそこへと近づいた。膨らんだ気は周人を包み、その影響で喉がからからに渇いた上にますます鳥肌が立っていく。いまだかつて感じたことの無い恐怖を誘う気配に目つきを鋭くし、気合を入れたその瞬間、そこから飛び出したものが周人の顔面に向かって拳を振るって襲い掛かってきた。それはどう見ても拳だったがかなり大きく、さらにもはや無意識的に反射神経のみで避けた周人にも見えないほどのスピードだ。古武術を習い、幼い頃からそれを叩き込まれてきた周人だからこそ避けることができたと言えようが、その周人ですら見えないほどのパンチを放つ者は茂みを背に周人の前に立ちはだかった。軽く2メートルはあろう背丈に加え、全身の筋肉がギチギチに張ってまるでボディビルダーのようだ。しかもその大男はスキンヘッドであり、細く鋭い目にギラギラとした光をたたえている。上半身は裸であり、膝までしかない緑の短パンを履いたその姿は野人というべきスタイルをしていた。大男は口元を吊り上げ、悪鬼のような笑顔を見せながらその大きな拳を握った。ミチッという音が聞こえるほど強く握られた拳はまるでハンマーのようだ。


「今日は楽しい!お前は強いみたいだし、あの女も最高だった!」

「誰だ、テメェ!」

「さぁ・・・誰でしょう?」


そう言ってケラケラ笑う大男は実に楽しそうだ。


「ふざけるなぁ!」


男に対する恐怖心を抑え、周人は凄まじいまでのスピードを持った回し蹴りを放つ。だが男は避ける事もせずにその分厚い鎧のような腕の筋肉で平然と受け止めると信じられない速さのパンチを二度三度繰り出してきた。受け止めれば骨が折れると判断した周人はもはや全力で、必死で避けることしかできない。技を教えてくれた祖父ですらここまでのスピードをもったパンチなど放てないだろう。防戦一方の周人は一旦間を開けようと大きく後方に飛び退いたのだが、男はそれすら追いつきながらまたも巨大な拳を振りかざした。男の拳が周人の顔面を捕らえたと確信した瞬間、周人は素早く右側に回りこんで目に見えないほどの速さを持つ蹴りを放った。だが男はそれを丸太のごとき腕で軽がるとブロックし、それを振りほどいて周人に蹴りを見舞う。受け止められた足がしびれたせいで動作が遅れた周人はとっさに左足を軸に身をかがめてそれをなんとかかわすと地面を転がって間合いを空けた。


「強い・・・強いなんてレベルじゃねぇ!なんなんだ・・・人間か?」


息を切らす周人はすぐに立ち上がって構えるが、何故か男はじっと周人を見たままで動こうとはしなかった。やがて終始笑っていたその男はひときわ嬉しそうに歯を剥きだして凄惨な笑みを浮かべた後、ものすごいスピードでその場を立ち去っていった。完全に消えた男の気配にホッとした周人はその場にヘタリ込むようにして座り込むと暑さから来るものではない汗を流して両手を地面についた。あのまま戦っていれば確実に殺されていただろうと思える。


「なんなんだよ・・・一体」


そうつぶやいた周人はあの大男が茂みの中で何をしていたかが気になった。それに男が言ったあの台詞、『あの女も最高だった』という言葉も気に掛かる。ゴクリと唾を飲み込んだ周人はゆっくりと立ち上がると恐る恐る茂みに向かう。そこにあるかもしれない最悪の状況を想定しつつ茂みの前に立った周人はその最悪の状況が当たったことに体を震えさせた。ほとんど全裸、下着が片足に残った状態の少女らしい裸体が土にまみれて横たわっている。あの男にかなりいたぶられたようでふくよかな胸は赤く腫れあがり、あちこちにあざらしいものものまで見て取れる。何より無残なのは下半身だ。大量の血と男のものとわかる体液を流し、暴行されたことがはっきりとわかるその少女は顔を向こう側に向けているので顔はわからない。ピクリとも動かない様子から気を失っているのか、はたまた死んでいるのか。緊張から喉がカラカラな周人はゴクリと唾を飲み込んでからゆっくりと周囲を見渡すようにした。その少女の衣服らしいものが無残にもボロボロにされて放置されているのが見える。抵抗したのだろう跡も土の乱れから見て取れた。だが、周人はその少女の破かれた服を見て顔色を変えた。


「まさか・・・これって・・・」


見覚えがある引き裂かれた白いワンピース、それが恵里が着ていたそれと同じ物だと気づくまでそう時間はかからなかった。痛いほど動きを早める心臓、息苦しさ。間違いであってくれと何度も頭の中で反復しながら茂みをくぐった周人は恐る恐る少女の顔を覗き込んだ。乱れた髪はショートカット、その髪が頬にかかっているが周人にはそれが誰なのかすぐに認識できた。最悪の状況を遥かに上回る悪夢のような状況に言葉も出ない。夢ならば覚めてくれと願い、ガクガクと震える体を押さえ込もうともせずその場に膝が崩れた。息もままならず、胸が痛い。全身が引き裂かれる痛みと苦痛、そしてこみ上げてくる後悔の念。周人は震える手でそっと髪を撫でるように頬から離してあげるとその土にまみれた頬に大きく震える指で触れた。すでに冷たいその頬、顔。先日見たあの天使としか思えない神々しいまでの美しい裸体はそこにはなく、まるで雨に濡れた人形のように泥まみれとなっている。土にまみれ、血を流し、汚されて冷たくなった体をそっと抱き起こした周人は力いっぱい抱きしめると同時に絶叫した。泣きじゃくる周人の体の揺れに合わせてか細い四肢が力なく揺れ動く。決して安らかとは言えないその顔を胸に埋めながら、声にならない声でその名を叫んで泣き喚いた。涙が溢れるが泣いているといった感覚は無く、あるのは苦痛と悲痛なるまでの想いだけだった。身を、心を引き裂かれる痛みだが、実際に引き裂かれた方がどれだけましなことか。早く帰ると約束しながらそれを破った罰がこれなのか。それならばあまりにひどすぎる。だが神だけを責めることはできない周人はただ恵里を抱いたまま叫ぶように泣いた。もう2度と動くことは無い、あの何ものにも変えがたい可憐で魅力的な笑顔を見せてくれることは絶対にない愛しい人の亡骸を抱きしめる周人は獣のようにただひたすらに泣き叫ぶのだった。

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