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くもりのち、はれ異伝ー約束の夜へ-  作者: 夏みかん
第1話
5/33

天使消失(5)

4階建てのビルの外観は青く、商店街に続く通りに面した側にある狭い入り口には階段と、一番奥にエレベーターもあった。花屋と酒屋に挟まれたそのビルの3階でエレベーターを降りた周人は降りてすぐにある1つしかない緑色した鉄の扉に掲げられていた看板が無くなっていることに首を傾げた。そのままドアノブに手をかけてゆっくり回してみるが、やはりというか当然完全には回らない。仕方なく周人はドアの横にあるインターホンを鳴らして様子をうかがうようにしてみせた。自分がここへ来るのはもう2年以上振りになるためにその表情は緊張に満ちていた。


黒いワンボックスカーに近づいているのは大山康男である。暑さに弱く、肌も弱い康男は小太りな見かけ通りというべき感じで夏が苦手だった。かといって寒い冬も苦手な康男は近くに借りているアスファルトで整備された駐車場に来ているのだった。自宅から歩いてわずかに2分の場所にあるその駐車場は全部で十五台が駐車できるスペースがある。だが今止っている車は康男の車を含めてわずかに4台のみだ。キーを差し込んでドアを開け、急いでエンジンをかけてクーラーを全開にする。康男は車内に溜まった熱気を逃がすためにクーラーを利かせながらも全ての窓を開放し、自分は日影部分に立ってエンジンが温まるのを待った。


「あの子・・・」


夏には手放せないタオルで流れる汗を拭く康男が目にしたのはピンクのワンピースに麦わら帽子を被った恵里の姿だった。3日前に夏休みに突入してから赤い自転車にまたがってどこかへ出かける姿をよく見ている康男は家が近所なのかなと思いながらも微笑みつつその姿を目で追った。見た感じ、たしかに可愛い部類に入るのだろうが特別可愛いわけではない。だが、その姿が似合っているせいか、康男は恵里に対して好感を得ていた。夏が似合う少女というべきその姿は周人と並んでいても遜色は無く、お似合いであると心から言えよう。


「デートかな?」


つぶやきつつ冷えてきた車内の温度を確かめた康男は運転席に乗り込むと開いていた窓を閉めてゆっくりと車を発進させた。そして交差点で信号待ちをしている恵里の真横に偶然ながら車を止めた康男は運転席の窓だけを開けて恵里に挨拶をした。


「やぁ、恵里ちゃん。こんにちは」

「あ、大山先生。こんにちは。お出かけですか?」

「覚えていてくれたのかぁ、嬉しいねぇ!俺は今から出勤。君はデートかい?」

「あ、いえ、買い物です」


にこやかにそう答える恵里に自然と笑みがこぼれてしまう。


「家はこの近所?」

「はい、そこの角を曲がってすぐのところです」


面識の乏しい康男に対してもしっかりした受け答えが出来ている。今時の女子高生にはない常識さを感じつつ、この子を好きになった周人の気持ちがわかる気がした康男はにんまりとした笑顔を見せた。


「結構近所だったんだな・・・いや、最近よく見かけたから」

「夏が好きなんで、これでドライブするのが楽しくって」


そう言って笑う恵里の笑顔を可愛いと思う康男は恵里のファンになりつつある自分の心境を笑った。生徒として塾に来ていた周人を気に入り、どんな彼女を作るのかと思っていた康男にとってこの恵里は最高に似合っている彼女だと思えるほどになっていた。まだ出会って2度目だというのに。


「交通事故には気をつけてな。じゃぁ、また」

「はい、先生もお気をつけて」


そう言ってくれた恵里に微笑みながら右手を上げて車を発進させた康男に対し、小さく手を振り返しながら横断歩道を渡っていく恵里。そんな恵里をミラー越しに見ながら笑みが絶えない康男は今度周人と恵里を食事にでも招待しようと考えを巡らせるのだった。


「すまないなぁ・・・せっかく来てくれたのに、こんな状態で」

「あ、いえ・・・」


長い前髪を掻きあげるようにしながら部屋の中をぐるりと見渡す周人はその変わり果てた状態に言葉を失っていた。入って正面にあるホワイトボードはそのままそこにあるのだが、わずか2年半も経たないうちに塾だった面影はそこにしかなかった。勉強するための横長の机もなければパイプ椅子もない。がらんとした部屋の中には雑然と書類が積まれた小さな机が1つに電話が1つなのだ。引っ越すかもしれないとは言っていたが、これでは引越ししたも同然だ。先日、引越し話を聞いてその真意を確かめるべく康男が経営しているこの『大山スクール』へやってきたのだが、あいにくまだ出てきてない康男に替わってここで共同経営という形を取っている康男の高校大学を通した先輩であり、親友でもある米澤信よねざわしんから2ヶ月前に塾を閉めたと聞かされて驚いたのだった。


「まぁいろいろあってね。生徒数が減ったのもあるんだが生徒が問題を起こした事が噂を呼んで閉めざるを得ないほど経営難になってしまったんだ」

「生徒が問題って・・・?」

「ここでケンカをやらかしたんだ。それも流血騒ぎのね。怪我をした子の母親はPTAの幹部で怒り心頭、そこから管理体制の不備があるって噂が広まったんだ」


塾は関係ないと思う周人だが、そこには複雑な事情があるのだろうとそれ以上何も聞かなかった。


「で、引越しですか?」

「いや、まだわからん・・・俺はもう引越したけどね」

「どこへです?」

「東京郊外にある桜町ってところだよ。嫁さんの実家があってね、そこで印刷業をしているんだ」

「桜町・・・」

「いいところだよ。穏やかで、でも大きな繁華街もあってね」


聞いたこともない街の名前だがその響きが優しいイメージを運んできていた。来た時にわざわざ米澤が買ってきてくれたジュースを一口飲んだ周人は機会があれば行ってみたいと思いながらも今の塾の現状に心を痛めていた。中学一年生の時から通ってきた大山スクールの雰囲気が好きだった周人はここにいたからこそ志望校である如月高校に合格したと言えるし、康男が教えてくれたからこそ成績も伸びたと思っていた。それだけに理不尽な理由で塾を閉めざるをえなかった事情に心が痛んだ。


「遅くなりましたぁ・・・・あれ、木戸君!」


遅れてやってきた康男は今の事情すら吹き飛ばすかのような明るい笑顔を見せながら周人を見やった。周人は軽く頭を下げつつも苦々しい表情で康男を見るしかない。


「さっき君の彼女、恵里ちゃんに会ったよ。いやぁ彼女、いい子だねぇ。すっかりファンになっちゃったよ」


周人とは対照的に笑顔を振り撒きながら入ってきた康男は驚く顔をする周人を横目に壁に立てかけてあるパイプ椅子を取って腰掛けると買っておいた缶コーヒーの栓を開けた。


「彼女って・・・この間やっさんが会ったっていう?」

「そう、木戸君の彼女で磯崎恵里ちゃん。笑顔が最高の女の子ですよ」

「へぇ、木戸君の彼女には会ってみたいなぁ」

「どうだい木戸君、今度彼女と一緒に食事でもしないか?」


塾を閉めたことすら忘れるほどの明るい会話に参った顔をする周人だが、食事よりもまず先にこれからのことについて聞いておかなくてはならない。


「食事もなにも、塾を閉めたって・・・やっぱ引っ越すんですか?」


声を荒げるようにしてそう言うが、やはり康男は涼しい顔を崩さない。米澤は壁を背につけて腕組みをし、少し険しい顔をして周人と康男を交互に見やった。


「今更隠しても仕方がないから正直に言うが、引越しをする」

「どこへ?」

「桜町だ」


それを聞いた周人はやはりという顔をしてため息をついた。今の現状と引越しするかもしれないという言葉、そして米澤の引越し。それらから導き出される答えは実にシンプルだ。


「けど今すぐにと言う話じゃないよ。向こうでも塾を開くことにしててね、その準備に時間がかかる。引越しもおそらく早くて来年の春になるだろう」


ごく普通の調子でそう言った康男はコーヒーを飲んで一旦間を置いた。周人もまたジュースを飲んで何かを考えるような目をしながら黙り込んでしまった。


「さくら塾って名前にしようと思ってるんだ、どう思う?」


悲痛な顔をしている周人に向かってそう言う康男は実に穏やかな表情をしていた。そこに康男の再起にかける決心を汲み取った周人は微笑を浮かべながら力強くうなずいた。


「いいと思います」

「もしそっちに行くことがあれば寄ってくれ」


康男はそう言うとにこやかな顔をするのだった。それにつられて周人も笑う。そんな2人を見やる米澤もまた小さな微笑を浮かべるのだった。


「向こうはいい所だよ。結婚したら住むといい」


からかっているのか、それとも本気かもわからぬ口調でそう言う米澤に引きつった顔を見せる周人は2人からそっぽを向きながらジュースを一気に飲み干した。そんな周人を見てケラケラと笑う康男と米澤はわざわざ来てくれた周人の気持ちに深く感謝をするのだった。


「しかしいい子を見つけたなぁ」

「そんなに?」

「えぇ、特別可愛いって感じじゃないんですけど、なんと言っても笑顔がいい!夏の似合う少女って感じで!」


まるで自分の彼女の事のように嬉しそうしながらそう絶賛する康男の言葉から周人を見る米澤は照れた顔をしながら手に持っている空になった缶をくるくる回す周人を見て小さく笑った。


「こりゃぜひとも会ってみたいねぇ」


いやらしい顔をするおっさん2人を見やる周人は困ったような顔をしながらも照れまくった顔をしてみせる。そこからもいかに恵里が好きかという感情を読み取った2人は出会いから今までの経緯を長い時間をかけて尋問するかのように聞き出したのだった。


気が付けば7月も終わりを迎えようとする時期に差し掛かっていた。夏休みに入ったからといって毎日会っているわけではない周人と恵里だったが、電話でのやりとりは毎日していた。時間が合えば映画にいったりゲームセンターにも遊びに行ったりして2人の大切な時間を共有し、順調に愛を育んでいる。もちろんまだキス以上の深い関係に至っていなかったが、周人にしては思春期という時期とあってやはりそれは意識してしまう。そして恵里もまた周人ならばそれは別に構わないという気持ちを固めているために、あとはタイミング次第というべきところまで来ているといっていいだろう。しかし周人はどんなに気持ちが高ぶろうとも決してそれを口にしなかった。女性の体に興味がある年頃だけに、同級生の中でも経験した者もおり、中には半ば強引に関係を持ったと自慢している者までいる始末だ。周人は誰よりも恵里を想い、愛し、そして大切にしている。だからこそ自分の欲望のためだけに恵里と関係を持つということを避けていたのだ。そして恵里もまたそれを十分に感じているからこそただひたすらにそのタイミングを待っているのだ。もちろん恐い気持ちもあるのだが、周人ならば絶対に大丈夫と言う信頼感もあって、恵里の中でも徐々にだが気持ちは高まってきていた。そしてそんな2人の気持ちを汲み取ったのか、神様が気まぐれとばかりに2人に対してそのタイミングを提供してきたのだった。それは恵里からの電話が前触れだったと言えよう。


「強盗?」

『うん・・・ここ立て続けに近所に出てるの』

「そりゃぶっそうな話だなぁ」


ベッドに寝転んでいた周人はその話題になった途端に身を起こしてあぐらをかいた。時刻は午後9時を回ったところだ。大抵電話をするときは9時から10時の間が暗黙の了解となっている2人はどちらともなくその時間に電話をするようになっていた。それは今日とて例外ではない。


『明日から一泊で父さんも母さんも遠縁の親戚の結婚式に行っちゃうから、怖くって・・・』


本当に恐いといった感じでそう言う恵里の口調はやはり暗い。ここはなんとかしてその恐怖を取り除いてあげようと思う周人は冗談を言って彼女の気持ちを切り替えさせようと考えた。


「ならオレが泊まりに行ってあげるよ。夕食付って条件があるけどね」


この台詞の後、周人が予想していた返事は


『もう何言ってるの?こっちは恐がってるっていうのに!』


というものだったが、実際に返って来た返事はそうではなかった。


『ホント?ホントに来てくれる?』


恐る恐るそう言う恵里だが、そこには周人が来てくれるという安心感も込められていた。


「え・・・あ、いや、ホントに行くけど・・・・いいのか?」


何故か話を切り出した周人がしどろもどろになりつつそう聞く。両親がいない家に泊まりに行くとなれば期待するなと言う方が酷な話か、周人の中で抑えきれない欲望が膨れ上がっていく。


『武術やってる周人が来てくれるなら恐くないし、全然オッケーだけど』


あくまで純粋に自分を守ってくれると思っている恵里の言葉を聞いた途端、周人の中の欲望は音を立てて崩れ去った。残ったのは愛する人を守りたいという決意のみだ。もはややましい気持ちはどこへやら、周人は自分の持つ技を駆使して恵里を守ることに心を固めた。


「わかった。任せておけ!強盗なんざ一撃で倒してみせるから」

『ありがとう、頼もしいよ!じゃぁ夕飯は頑張って作るからね』

「おう!期待してるからね」

『うん!』


そう返事をした矢先に背後で女性の声がした。どうやら母親が呼んでいるらしく、恵里は何やら返事をしているようだ。今日はこれで終わりだなと判断した矢先、それを告げる恵里の声が聞こえてきた。


『ゴメンね、明日のこととかでいろいろあるから、今日はこれで・・・ゴメンね』


2度も謝る恵里に苦笑した周人は気にしないでと言ってからおやすみの挨拶をする。恵里も可愛い声でおやすみと言うと名残惜しそうに電話を切った。恵里は切った電話を胸に抱くようにしながら小さく微笑みを見せる。そこには愛情と、そして少し恥ずかしいような感情が見て取れたが、どちらが正解かは本人しかわからないことだった。


恵里の自宅は住宅街のど真ん中に位置する9階建てのマンションだった。大山スクールと康男の自宅のちょうど中間地点というべき場所にあるそのマンションは建てられてから7年が経過しているために周人もよく知っている場所であり、このマンションの目の前にあるアイスクリーム屋さんでよく買い食いをしたこともある。まさかこんな知っている場所に恵里が住んでいたとは思ってもみなかった周人だったが、もしかすればもっと早くに出会っていたのかもしれないと思いつつもそれはそれで今のような関係にはなっていなかっただろうとも思えた。だが恵里との出会い、交際は運命だったと思っているだけに中学生の時に出会っていたとしても恋に落ちていたと妙な自信をのぞかせながらエントランスをくぐった。午前中は周人も用事があったために午後2時に恵里の家でということになっていた。時刻は2時ジャスト、周人は緊張した面持ちでエレベーターを呼ぶボタンを押した。ほどなくしてやってきたエレベーターに乗り込んで目的の階である5階を選択する。初めて行く恵里の家に向かう心境からかドキドキしてますます緊張感が増していく。やがて5階に着いたエレベーターを降りた周人は恵里によって教えられていたように左側の廊下を進んでいった。奥から2番目のドアの前に立ち、右上を見上げれば『502磯崎』との表札が掲げられている。その名前を確認しながらも何度も周囲をキョロキョロした周人は緊張で震える指をインターホンに触れさせ、意を決してそこに力を込めた。『ピーン・・・ポーン』というかなりゆっくりした音が響き、音と反比例するように周人の心音はどんどん速まった。そして数秒の間を置いて鍵が開く音とともにドアが周人の方へと開いていく。


「いらっしゃい」

「どうも、こんちは」

「あがって」


緊張からか強張った顔をする周人を見て微笑む恵里のその言葉に玄関に入った周人はかなり綺麗に整理されている下駄箱を見やった。周人の胸元近くまである高さの下駄箱の上には白いレースが敷かれ、その上に小さな花瓶に入れられた花がいくつも飾られている。傘立ても人気キャラクターを形取ったものであり、照明も花が垂れ下がったような感じのおしゃれな物となっていた。玄関を上がって右側のドアが両親の寝室、そして左側には恵里の部屋があって、そのちょうど正面にトイレがあり、左の突き当たりは風呂場で脱衣所には洗濯機も置かれているようだ。玄関から正面はガラスの扉で閉ざされており、お邪魔しますと言って上がる周人を先導する形で恵里がその扉を開いた。そこはまずリビングとなっており、キッチンが右側にあった。左側には和室もあってかなりゆったりとしたスペースが取られている。食器棚やテレビボードもきちんと整理されているようで所々に何かのキャラクターグッズが見えている。リビングにL字で置かれた白いソファを勧められた周人はゆっくりとそこに腰掛けながら興味深げに周囲を見渡しつづけた。


「はい、ジュース。3時になったら買い物に行くでしょ?」

「あぁ、ありがとう。そうだね、買い物は商店街で?」


冷えたオレンジジュースを入れて周人の横に腰掛けた恵里からジュースを受け取った周人はこの辺りで買い物といえば大山スクールからすぐ北に行った所にある大きな商店街しか思い浮かばなかった。


「うん。でもハンバーグだからそんなに買うものないんだけどね」

「ハンバーグかぁ・・・オレ、大好きだよ!」


嬉しそうにそう言う周人を見てにこやかに微笑む恵里は少し不安げにしながらも味の保証はできないと言った。だが味よりもまず恵里の手料理が食べられるとあって舞い上がっている周人はさっきまでの緊張が嘘のように笑顔を振り撒いた。


「デザートも買っちゃおうか?もらったお金は多めだから」

「いいのか?」

「いいよ。今日は贅沢しよう」


そう言われればうんと言うしかない周人はうなずき、ジュースを飲んだ。外の暑さが嘘のようにちょうどいい気温を保つクーラーの利いた部屋で冷たいジュースを飲む。これが幸せだと感じるオヤジ臭い周人だったが本当の幸せは恵里と一緒にいることだと思う。


「夜はゲームしようか?」

「そうだな。なんか面白いのあるの?」

「うん。こないだ買ったのが2人以上で遊べるミニゲームだらけの。結構ハマるよ」


少しは淡い期待をしていた周人だったが、それはそういう雰囲気になった時に判断すればいいと思っていた。だからゲームを持ちかけられても別になんとも思わない。しばらくひとしきり話をした後、3時となったために2人はマンションを出て商店街へと向かった。暑い中、自然と手を繋ぐ2人は商店街を巡って一通りの買い物を終えて近所でも美味しいと評判のケーキ屋へと向かった。そこで恵里はチョコレートケーキを、周人はイチゴのショートケーキを買ってマンションへと戻った。そして乗り込んだエレベーターの中でおどけたようにどちらともなくそっと唇を重ねる。誰かに見られてはまずいと思うスリルもあってか、すぐに離れないといけなかったのだが歯止めが利かず、2人は今まで経験したことがないほどの濃いキスをしていた。やがて5階に着いたエレベーターの扉が開きそれを合図にあわてて離れた2人を小さな赤いバケツと派手な色のスコップを持った男の子がじっと見つめているのだった。


とりあえず夕飯の下ごしらえを始めた恵里の背中を眺めながらいつかはこうして2人で生活する日が来るのかなと考える周人の鼻下が自然と伸びていった。もちろんそれはまだまだ遠い先のことだろうが、できるなら今からでも同棲して2人きりの生活をしたいとも思っていた。意外に器用な周人はそれなりに料理もできる。そのことから1人暮らしも可能なほどだったが、とりあえず進学に関しても自宅から通うつもりなのでそれはないだろう。


「暇だったらテレビでも見てて」


そう言われた周人はソファの前に置かれている大きめのガラスでできたテーブルの上にあるテレビとレコーダーのリモコンが入ったカゴへと視線を向けた。勝手に触るものどうかと思ってしばらく悩んだのだが、すでに手伝いを拒否されているだけに仕方なくテレビのリモコンに手を伸ばした。電源を入れれば、以前夜にやっていたドラマの再放送をしている。他に見るものがないのかと思いつつ、いつもはこんな時間にテレビを見ることが無い周人はしばらく何かを考えこむようにドラマを凝視していた。そしてチャンネルを変えようとした矢先、画面上に少し濃厚なラブシーンが映し出される。ゴクッと生唾を飲み込みつつ何故かあわててチャンネルを変えた周人は不審な動きに反応して振り返っている恵里に気づいて愛想笑いを浮かべた後、順番にチャンネルを変えて夕方の情報番組に固定した。そんな様子に小首を傾げた恵里は調理に戻り、周人は頭の中で悶々としたものを抱えつつさっきのラブシーンを自分と恵里に置き換えてはそれをかき消すといった動作を繰り返すのだった。


初めて食べる恵里の手料理はかなり美味しかった。美味いを連呼する周人ににこやかに微笑む恵里は2人きりの食事を楽しみ、まるで新婚さんのような気分を味わったのだった。片付けは2人で仲良く済ませて時間を短縮し、お風呂にお湯を張っている間にデザートを食べる。周人はアイスコーヒーで恵里はアイスレモンティーを入れて買ったケーキの味を楽しんだ。何の邪魔も無い空間でくつろぐ2人だが、とりとめのない会話をしているだけで楽しいと感じられる。夕方に見たテレビのせいで変に妙な妄想を膨らませつつあった周人も恵里の落ち着いた雰囲気のおかげで今ではそれもなく、ただ今の時間を楽しんでいた。その後、先に周人がお風呂に入り、次いで恵里が入る。冗談でも一緒に入ろうと言えない周人は恵里の指示によってゲーム機のセットをして風呂から上がってくるのを待っていた。やはり1人きりに、しかも相手がお風呂に入っていると思えばまたもよからぬ妄想に悶えそうになったが、恵里を大事に想う心がそれに勝ったのかある一定のところまで来た欲望は急速にしぼんで消えてしまった。自分でも不思議に感じる周人だったが、そんなに焦る必要はないと思える今の自分を良しとしてテレビを見ることにした。しばらくしてドライヤーの音が聞こえてきたために恵里が上がったことがわかった。


「ゴメン、待った?」


家から持ってきたTシャツと短パンな周人とは不釣合いなほど赤を基調としたイラスト入りのパジャマを着ている恵里は風呂上りのいい香りを漂わせながら周人の横にちょこんと腰掛けた。


「よし、ほんじゃやりますか!」

「うん」


テレビをビデオ入力に切り替えてゲームを起動させる。こうして21時から始まったゲーム大会は意外な盛り上がりをみせて気が付けば深夜1時となっていた。まだまだ夜更かしはできる夏休みだが明日は近くにある大型公園へ遊びに行く予定にしてあるためにもう寝ることになった。とりあえずこのままリビングで寝ると言う周人を半ば強引に自分の部屋へと連れてきた恵里はもしも強盗が入った際に1人でいるのは恐いと主張し、周人もそれには賛同した。だが、おかげで邪な心が首をもたげつつある周人は眠れない夜を過ごす覚悟で自分自身と戦う決意を胸に恵里が自分のベッドの下に敷いてくれた布団に寝転んだ。タオルケット1枚を腹部にかけ、クーラーの設定温度を上げてタイマーをかけた恵里は何も言わずに電気を消しておやすみとつぶやいた。周人もまたもそもそとタオルケットを羽織りながら恵里におやすみと言い背中を向ける形で寝転んだ。音もない世界が広がる中、狭い空間に2人の息遣いだけがこだましている。周人は全く眠くならずに意識を集中させてただひたすらに欲望と戦っていた。ちょっとでも気を許せばベッドの上に寝ている恵里に襲い掛かってしまいそうだ。泊まりに来てといった時点でそれも込みだと囁くデビル周人に真っ向から勝負を挑むエンジェル周人はそれは自己の欲求を満たすための無理矢理な行為にすぎないと主張する。頭の中で2つがせめぎあうこと1時間、寝返りをうった周人はベッドの上から自分を見つめている恵里とバッチリ目があってしまった。暗さに目が慣れたせいもあってお互いの表情まで読み取れる。バツが悪い周人は愛想笑いをしてからもそもそと恵里に背中を向けた。


「眠れないの?」


タオルケットが敷き布団にこすれる音に重なるように可憐な恵里の声が闇に響く。


「あ、いや・・・そうみたい」


少し顔を傾けながらそう言う周人は決して恵里を見ようとはしなかった。対照的に恵里はじっと周人を見つめたまま黙り込んでいる。背中に刺さるその視線を感じながらも身動き一つ取らない周人は息を殺すようにしてじっとしていた。


「こっちに・・・おいでよ」


その言葉に体がビクッと動く。今の言葉の意味を何度も反復しながらゆっくりと恵里の方へと体を向ければ恵里はさっきと同じ態勢のまま女神のごとき微笑を浮かべていた。


「いや、いいよ・・・」

「一緒にいれば、きっと眠れると思うから」


そう言う恵里の表情は全く変わらず、その真意はわからない。一緒にいればますます眠れなくなってしまう上に自分を抑える自信が無い周人は葛藤に葛藤を重ねているせいかじっと動きを止めていた。


「おいでよ」


聖母のごとき微笑みを崩さずにそっとタオルケットをめくった仕草を見た瞬間、周人は無意識的に立ち上がると吸い込まれるようにベッドへと近づいていった。ベッドがきしむ音よりも心臓の鼓動の方が大きいのは果たして周人か、恵里か。その胸に抱かれるようにして1つのベッドに恋人同士の体が重なる。石鹸かシャンプーの香りが鼻をくすぐり、周人の脳を麻痺させた。横になって見つめあう周人に限界が近づき、気がつけばそのまま恵里を強く抱きしめていた。柔らかい体が歪むほどきつく抱きしめているが恵里は苦痛を訴えることはなかった。周人は恵里の体を通して聞こえる大きな、それでいて早い心臓の鼓動を感じた瞬間、急速に冷静になっていく自分に気づいた。


「ゴメン、調子に乗って・・・痛かったろ?ゴメンな」


あわてて恵里から離れるように抱きしめていた手をほどいた周人は少し間を開けようと身をよじる。だが、その動きは恵里によって遮られてしまった。


「いいよ・・・・私、そういう気持ち、あるから」

「いや、でも・・・・心臓が・・・」


きつく抱いた際に感じた心臓の音。その鼓動が恵里の心臓が悪いということを思い出せた結果、彼女を想う気持ちが欲望に満ちた周人の心を冷静にさせたのだった。もしも欲望のまま抱いてしまったら、恵里の心臓はそれに耐え切れずにその動きを止めてしまうかもしれない。その恐怖が周人の中にあった彼女を守りたいという気持ちを呼び覚ましたのだ。


「これで死んでも、私は幸せだもの。あなたが大好きなの・・・だから、私は・・・」

「死ぬなんて言うなよ・・・お前がいない世界なんて考えられないよ」

「だったら抱きしめて・・・私を感じて・・・あなたを大好きな私の気持ちごと、ぎゅっと抱きしめて!私から死の恐怖を追い出してよ!」


小さな子供が泣いているかのようなその悲痛の叫びの裏にあるものを、周人は感じ取った。生まれつき心臓が悪い少女に付きまとう死の影。いつ、どんなことで死んでしまうかわからない少女の不安な心をただ一瞬でも忘れさせる存在、それが周人なのだ。決して積極的ではない恵里のその決意に満ちた言葉に、周人は自分を情けなく感じていた。


「結局、オレはお前の全てを理解していた気になっていたんだ。バカみたいだ」


そう言って優しく、愛情に満ちた仕草でゆっくりと恵里を抱きしめた。互いの背中に回された手が、体が、その温もりを記憶させようと相手をまさぐるように動く。


「周人はバカじゃないよ・・・周人が私を変えてくれたの。いつ死んでもおかしくない覚悟を砕いてくれたの。生きることが楽しいって、死ぬことがどんなにバカらしいかを教えてくれたの。人を好きになることがすごく勇気と力をくれるって・・・・」


恵里の瞳から涙が零れ落ちる。その涙をそっと拭う周人はその頬にそっとキスをした。


「これからもっと楽しいこと、いっぱい見つけよう。2人で、一緒にな」

「うん・・・」


そう言って見つめあう2人の唇が触れ合った。今までに無いほど熱く、情熱的なキスをした。息をするのももどかしいほどのキスを。


「本当に、いいんだよな?」


その言葉に、恵里は恥ずかしさをかもしだしながらもはっきりと力強くうなずいた。


「いいよ」


周人は優しいながらも震える手で一つ一つ丁寧にパジャマのボタンを外していった。恵里は目を閉じてじっと何かに耐えるようにまつげを震わせている。やがて全てのボタンを外し終えた周人は今度はそれを脱がしにかかった。袖を抜いた腕で何も着けていない胸元を隠すようにした恵里の裸を見つめながら周人もまたTシャツを脱ぎ去った。全てが初めてな2人はこれでいいのかすらわからない。それでもお互いを信じて見つめあう2人は同時に微笑み合う。引き締まった筋肉をした男らしい周人の上半身と違い、女性特有の優美な曲線を描く恵里の裸体はまるで地上に舞い降りた天使のような神々しさを持っていた。闇夜に浮き上がるほどの白い肌にくらくらとめまいがするほどに美しい。周人はそんな肌に触れることをためらいがちに、だが優しく自分の肌と重ね合わせるようにしながら優しいキスを繰り返した。夜も更けゆく深夜、一組の男女が月明かりの中で一つに結ばれた。そして全てが終わった後、恵里は静かに涙を流した。一筋の涙が頬を伝って流れ落ちるのを見てしまった周人はあわててしまい、どうしていいかわからずに混乱してしまった。


「ゴ、ゴメン・・・痛かった?苦しかった?大丈夫?オレ、もう、無我夢中だったから」

「違うよ・・・これは嬉しくて泣いてるの!もう!ムードぶち壊し!」


怒った口調だが顔は笑っていた。好きな人に抱かれる気持ち、何より恵里のことを想って実に優しくしてくれた周人の気持ちに感謝して流れた涙を、恵里は嬉しく受け止めていた。自分を見下ろす周人がホッとしたような顔をするのを見て小さく微笑んだ恵里はそっと周人の首に腕を回し、その愛しい顔を近づけるようにしてみせる。周人は恵里にされるまま顔を近づけるとそっと優しく唇を重ねた。お互いがお互いを想う気持ちに溢れる中で結ばれた気持ちを一生忘れまいと誓い、この幸せが永遠に続くように祈りながら、2人は生まれたままの姿で抱き合って眠るのだった。

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