再生する魂(4)
結局その後、ほとんど上の空な哲生にプライドを完全に打ち砕かれた美咲はあれこれ気を引こうとあの手この手を使ったのだが、全てが無駄に終わっていた。哲生は周人と葵の関係、ここでの密会の理由を知りたい気持ちが大きくなり好奇心や心配などといった様々な感情が入り混じって心ここにあらずの状態だった。帰りの電車に乗っても会話は弾まず、窓の外の景色をぼんやり眺めながら帰ってすぐに周人に連絡を取りたいと思う哲生に反し、このまま帰られるのは我慢ならない美咲は自宅に近い最寄の駅で強引に哲生を降ろし、家まで送らせたのだった。冬のせいで日が落ちる時間が早いせいか、午後6時といえども真っ暗である。哲生は美咲と別れてすぐに周人に電話ができるようにとコートの中にある携帯電話を握りしめており、手は両方ともポケットの中だ。そんな哲生から強引に左手を引き抜いた美咲は一方的に手を繋ぎ、自分を見下ろす哲生に自身が一番武器としているとびっきり可愛い表情、上目遣いのはにかんだ笑みを見せた。だがやはり哲生の反応は鈍く、小さな微笑を返したのみで顔を赤くすることもなければ手を強く握り返してくることも無かった。本来であれば怒りに任せてさっさと帰りたい美咲だが、それはまるで尻尾を巻いて逃げるような気がして我慢ならず、何が何でも哲生を振り向かせたいという自己のプライドに縛られてしまっていた。そして自宅が見えてきたところで突然手を放した美咲が哲生の前に立ち、じっとその瞳を覗き込むようにして見つめ始める。
「どうした?」
そう哲生が言葉を発した直後、美咲は突然哲生の頬を両手で挟むようにしながら、なんと自分から唇を重ねてきた。とっさのことに思わず顔を離そうとするが掴まれた手によってそれもままならない。生まれて初めてのキスの感触に脳がしびれるような感覚が全身を駆け巡る。ここでようやく美咲とキスをしているという状況を把握した哲生は自らもその柔らかい感触をむさぼるように唇を重ねつづけた。やがて長い長いキスが終わり、ゆっくりと顔を離す2人。普段通りのだらしがない哲生の顔になったのは一瞬のことですぐに生真面目な顔つきなったせいか、勝ったような感覚を得ていた美咲の表情はまたすぐに雲ってしまった。
「明日も会える?」
自分の表情が曇っていることに気付いた美咲がそれを誤魔化すような言葉を口にして笑顔を見せたが、逆にその表情と口調が幸いしていた。その表情と口調から自分との別れが寂しいと受け取った哲生は小さく微笑みながらうなずくとそっと身を寄せてくる美咲をぎゅっと抱きしめたのだ。寒さをまぎらわすような温もりを感じつつ、明日こそ必ず自分にメロメロにさせてみせると誓いを立てる美咲はその算段を練りつつ、場合によっては体を使ってでもといった決意を固めるのだった。
誠と十牙を誘って池袋へとやってきた周人は街を仕切っているという高木浩を探すことにした。歳の瀬に繰り出したせいか街はかなりの人手で賑わっており、歩くことすらわずらわしいと思えるほどだった。だが、これをチャンスとしての遠征であり、人の波に紛れての行動によって妨害を最低限に抑えるという効果も期待していたのだ。昨夜哲生からは美咲とデートをしてキスをしただの、今日もデートだといったようなことばかりを聞かされた周人は葵と会って話をした内容を簡単に報告しただけだった。結局葵とのことを聞こうとあれほど気になっていた哲生だったが、そんなことなど二の次でまんまと美咲の術中にはまった形となっていたのだ。ファーストキスを狙っていた美咲とそうなればこうもなろうが、もはやうんざりの周人はさっさと電話を切ったあとで今日の事を十牙と誠にもちかけたのだった。純は携帯電話が話し中だったせいで抜きにし、高木を倒すことのみにして3人いれば十分との判断でここに至っている。だが周人の体調は元どおりとは言いがたいものであり、ここで『七武装』と遭遇すれば3人でかからなければ不可能なほどといっていいほどの状態だったのだ。そんな心配をしつつも高木がいると言われるとあるビルの地下にあるいかにも怪しそうな喫茶店へとやってきた。3人は見張りというべき表に立っていた3人をあっさりと叩きのめすと堂々と正面から中へと足を踏み入れた。照明というべきものはオレンジの明かりを小さく灯したものが5つほどあるのみで全体的に薄暗い。だが外からの見た目、この地下へと続く狭い階段を見た限りではそう広くないと思われた内部だったが、ライブハウス並みの広さを持っていた。どうやら喫茶店とは名ばかりのようで見るからに柄の悪そうな男たちが3人、角の方にある小さな四角いテーブルに足を乗せてタバコをふかせている。よく見れば3人が3人とも学校の制服姿だった。
「高木ってのはどいつだ?」
3人を見下ろす格好をとりながら鋭い目つきでそう問い掛ける周人を見上げた3人は入り口から見て一番奥にあるステージのような場所を指差した。そこは30センチほどの段差を持った板張りとなっていて奥行きも十分にあった。誰もいないそこを指差す男たちを見た周人が無表情のまま何の警戒心も持たずにステージの上に立った瞬間、段差のちょうど真上から黒い鉄格子が急降下してきたかと思うとステージと喫茶店部分を分断してしまった。突然現れた鉄格子がガシャンという凄まじい音で現れたのを合図に入り口から4、5人の男を伴って小柄な見た目も普通の少年が姿を現した。金色に近い茶髪に赤いピアス以外はごく普通の高校生のようだ。歳相応の顔つきはまだ幼さを残しつつもなかなかのイケメンである。この優男が池袋を仕切っている高木浩なのだ。
「お前らがここを突き止めていたことは知ってた。罠を張ってて正解だったぜ・・・」
そう言うと指を鳴らした少年を合図に手にバタフライナイフを持った男たちが十牙と誠を取り囲むようにし、最初からいた3人も素手ながら血走った目を2人へと向けている。一方、1人檻の中に入れられている周人だったが、その表情に変化は無くその様子をじっと見ているだけだった。
「『ヤンキー狩り』には、ある人が相手になってくれる」
高木のその言葉を合図にステージの右奥にある鉄の扉がゆっくりと開いたかと思うとそこから姿を現したのは黒いTシャツにジーパン姿のサングラスをかけた男だった。年は周人と同じように見えるが、肩まで垂れた髪は真っ黒であり、ピアスも無ければ無意味なアクセサリーも無い簡素な姿で恐ろしいまでの殺気を伴っている。雰囲気からして高木よりも強いとわかる周人は直感的にこの男が『七武装』だと見抜いた。
「お前、『七武装』だな?」
「あぁ、里中だ」
里中がそう自らの名前を名乗った瞬間、周人の体から殺気が満ち満ちていく。相変わらずの『負の気』だが、やはり完全ではない状態なのかその『気』もどこか揺らいでいる。そんな周人を見て舌打ちする十牙はどうやって加勢したらいいかを考えつつも手にしていた木刀を構えることなく、鞘にしまうような格好でズボンとベルトの間に差し込んだ。誠もまた腰の辺りに下げている如意棒を取り出す気配を見せずに高木を睨みつけていた。
「お前らを殺しても罪にはならないんでね、ハクをつけさせてもらうよ」
「人殺しの前科がつかないのにハクもクソもねぇだろ」
高木の言葉を鼻で笑った十牙はじっとしている誠を横目で見ながら小声で言葉を投げかける。
「手ぇだすな・・・こんなカスども、1人で十分だ」
「いいけど、怪我したら藤川さんが泣くよ?」
ニヤリと決めてそう言った十牙も誠の返答にガックリとしてしまった。
「そういう関係じゃねぇって言ってるだろうがぁっ!」
叫ぶや否やすぐ横にいたナイフの男の顔面に強烈な拳を叩き込んだ。鼻が歪んでいることから骨が折れたのは明白だ。十牙はそのまま股間を蹴り上げると突き出されるナイフを軽々とした動きでかわしながら木刀を抜くことなく1人、また1人と床に叩き伏せていった。一方誠は攻撃を避けこそすれ、戦う気配は見せない。結局十牙1人によって8人はあっさりと床に倒れこみ、残るは高木だけとなってしまった。
「ばかな・・・そんな」
「ちったぁ修行になるかと思ったけど・・・話になんねぇな」
返り血を浴びた拳を見ながらそう言った後、血走った目を高木に向けた十牙はどうやら背中に隠し持っていたのだろう大きめのサバイバルナイフを抜いた高木を見ても何の反応も示さなかった。誠は周人を中に入れた鉄格子と十牙との中間地点に立つと檻の中の様子を見やるが、睨み合いが続いているだけでまだ戦闘は始まっていない現状にホッとした。ぶつかりあう殺気を背中に感じつつ、まずは目先の勝負を見るために十牙と高木のいる方へと体を向けた。
「そんな木刀、ぶった斬っやるぜ!」
「この『阿修羅』を斬る?無理だな・・・こいつは真剣でも斬れやしねぇよ」
言いながらすうっと腰に差していた木刀『阿修羅』を抜きさった十牙はそのまま切っ先を床につけた状態で一呼吸置くとまっすぐに高木を捉える形で阿修羅を構えた。そしてそのまま目を閉じる。それはあの夜、千里と初めて心を通わせた時と同じように。そのせいか不意にあの時の千里を頭に思い描いた十牙だったが、別に悪い気はしなかった。あの夜、十牙は初めて千里を可愛いと意識した。それ以来、心のどこかで千里のあの笑顔を思い出していることも自覚していた。それを認めてから、不思議なことにそれを良しとする自分に気がついたのだ。十牙は千里の笑顔をそのままに阿修羅を持つ手に念を込めた。全身を駆け巡る血が阿修羅へと伝わるような、神経が通うような奇妙な感覚は『念』を込めるようになってから初めてのことだ。
「阿修羅に意思が伝わる・・・」
まるで阿修羅から息遣いが聞こえてくるような感じに、十牙の口元に無意識的な笑みが浮かんだ。そしてその変化を誠は肌で感じていた。いつもは刺々しい十牙の殺気混じりの気が、今はまるで川のせせらぎのような優しさを持っている。だからといって『気』に揺らぎがあるわけでもなく、それはいつも以上に大きく、太く、そして鋭かった。まるで滝だ。雄々しく落下しつつ見るものを魅了する、壮大で、それでいて落ち着きをくれる、そんな風に。
「これが『正の気』なのかな?」
背後から感じる周人との『気』の質は明らかに正反対だ。相手を、周囲の者を、そして自らをも突き刺すような殺気を放つ周人。片や相手には鋭く、自らに優しく、そして周囲には肌を撫でるようなそよ風のような闘気を放つ十牙。そして信じられないことに、その優しい風のような十牙の『気』の方が誠にとっては脅威に感じていた。その『気』を感じ取れていないせいかわからないが高木は目を閉じたままの十牙をあざ笑い、大きな動作でその腹を切り裂くようにしてナイフを横に薙いだ。だが目を閉じている十牙はその動作が見えているとしか思えない必要最低限の動作で刃をかわしつつ闘気の込められた阿修羅を一閃させた。誠ですらその動作がかろうじて見えたほどの鋭さだったため、高木にすればいつ振り下ろしたのかなど全く見えなかっただろう。いや、それ以前に振り下ろされた阿修羅が鉄の刃を切り落とし、返す刀で自分の顎先を斬り上げたことにも気付いていなかった。同じ阿修羅でナイフの刃を『斬り』、返す刀で高木の顎先を『打撃』した。その剣質の違いに驚く誠はこうまで阿修羅を見事に使いこなす十牙を初めて見ていた。何がなんだかわからないうちに意識を失って床に倒れこんだ高木を見ている誠の頬を汗が流れ落ちたのは仕方のないことだろう。注意深く十牙の動きを見ていたにもかかわらず、振り上げた一撃が見えなかったのだ。
「強い」
その強さは数日前に神崎に敗れたのが夢か幻ではないかと思えるほどのものであり、周人すら倒せるかもしれないと思えるほどのものだった。
「凄いじゃん、十牙!」
「あぁ・・・なんだかしらねぇけどな」
笑みを見せながらそう言う十牙だったが、実際は千里のおかげかもしれないと思えていた。別に千里を好きとかそういった感情ではなく、ただあの笑顔を思い浮かべただけで心が落ち着いて『気』が満ちてきたのだ。
「一応、礼は言っておくぜ」
心の中の千里にそうつぶやきつつ、檻の中でぶつかりあう2つの殺気に目をやった十牙はその突き刺すほどの『負の気』を今まで以上に鮮明に感じながらもそれを見事に受け流している自分に気付いていなかった。
揺らいでいるとはいえ、周人の殺気はその大きさに変化は無い。そしてそれに匹敵する大きさを持ちながらより研ぎ澄まされた殺気を放つ里中はサングラスを取ることなくやや低い態勢となって右足を踏み出した。周人との距離はわずかに3メートル。その距離が一瞬にして詰まった瞬間、地を這うがごとく低い態勢から右足を垂直に上げた里中のその蹴りによる衝きを紙一重でかわした周人が反撃のローキックを顔面に見舞おうとした矢先、軸足にしていた里中の左足がさっきの右足より速いスピードで周人の喉を蹴りつけた。衝撃に吹き飛んだのか、またはその衝撃を逃がすためにわざと後方に飛んだのか。ふらつきつつも着地を決めた周人を見た里中は休むことなく再度低い態勢のまま今度は周人の足首を狙うもかわされ、またも軸足を高スピードで蹴り上げて顎を狙った。決まったと確信した里中の腹部に強烈な打撃が叩き込まれるのと周人の顎に蹴りがめり込むのは同時だった。防御を捨てて拳をめりこませた周人は一瞬笑みを浮かべた後に後方に飛び退いた。舌打ちした里中はサングラスを外して後ろに投げるとまたも低い態勢を取ってタイミングを計る。やはり神埼戦のダメージが抜けきれていないせいか動きにキレがない周人だが、顎に受けたダメージから来る震える膝をそのままに右の拳に意識を集中させた。その時里中が駆ける。低い態勢から常に攻撃してきたパターンを打ち崩すかのように横からの中段回し蹴りへと変化させた里中が勝利を確信した目ではなく驚愕に目を見開いたのは何故か。里中が低い態勢から突然身を起こすことは予想済みだったのか、周人は里中のすぐ目の前に大きく右足を一歩踏み出すと回し蹴りを放つその動きを見ながら右腕を大きなモーション、野球でいう投球フォームのような動きで背中から頭上を抜けて全身のバネを利用した上に『気』が込められた拳をその無防備な腹部にめり込ませた。今まで受けた中でもケタ違いの衝撃が内臓を揺らし、呼吸を止めさせて意識を奪い去った。振り切られた回し蹴りを左のわき腹に受けつつ技を出し切ることに専念した周人の一撃にためらいは無く、その1トン近い衝撃をモロに受けた里中は床に倒れ伏したまま動かなかった。
「それが『雷閃光』?」
鉄格子越しにそう訊ねながらこの檻を開く方法を探る誠を見やった周人は里中が入ってきた鉄の扉を調べるが全く動く気配を見せなかった。
「いや、『天龍昇』・・・7つの奥義の中の1つだ」
そう言うと左端にある壁に色の変わった部分を見つけた周人は檻の向こう側にあるそれを指差して誠を向かわせた。
「やっぱ神埼以外の『七武装』はこの程度かよ」
「いや・・・オレたちのレベルが上がってるのさ」
「お前の、だろ?」
「木で鉄を斬り飛ばす今のお前が相手だったなら、テツは今ごろ片腕だよ」
信じられないことに、そう言った後で周人は微笑を浮かべた。自分の実力を認めているかのようなその言葉と笑みに戸惑いながらも、里中と睨みあっていた周人がいつ自分の戦い振りを見ていたのかという疑問が浮かんだがそこはあえて何も言わなかった。誠が色の変わった壁の仕掛けを解き明かし、その向こうにあった小さな赤いレバーを引けばゆっくりと檻が開いていく。すぐさまそこを出た周人は若干震える足をおして店を後にすると人ごみに紛れるようにして街を出たのだった。
翌日、歳の暮れの12月28日朝早く、十牙と誠は哲生に電話して昼から家に行くと一方的に告げた。前日の2日連続の美咲とのデートを満喫した哲生は頭の中がピンク色の状態だったせいか返事も上の空でいながら一応道場の空きをチェックしたのだった。年末の今、父親の哲也が在宅なためにあそこを使用する可能性もあるからだ。哲生のしていることを黙って容認している哲也は一切の苦言、助言を行なっていない。特に歴代でも類をみないほど『癒しの気功』に長けた哲也にかかればよほどの傷ではない限りはその治癒能力を飛躍的にアップさせることができる。哲生が負ったものや周人のダメージなどまさに朝飯前で治せるのである。だがあえてそれをしないことにより自分たちのしていることに責任を持たせようとしているのだ。たとえ死んでも自分のせいだという厳しい姿勢を知っているだけに、哲生もまた助けを求めることをしなかった。囲炉裏を見下ろす哲生はお茶の準備を整えつつ昨日の夢のような体験を思い出してだらけきった顔をしてしまう。一昨日にわけもわからずキスをしたわけだが、実際あの日のデート内容はぼんやりとしか覚えていない。よって仕切りなおしとばかりに挑んだ昨日はクールな自分を演じたせいで美咲のプライドをより刺激したのはけがの功名に他ならない。その結果として美咲と結ばれたということを知らない哲生が美咲が完全に自分に惚れていると勘違いしても仕方がないのかもしれない。とにかく周人に遅れを取りながら見事童貞を卒業できた哲生のただ一つの心残りは美咲が処女でなかったことだ。初めての相手が誰であったかを知りたいような知りたくないような気持ちになりながらも想像を絶するその体験を思い出す哲生はニヤけ面のままスキップ気味に道場を後にしたのだった。この後、プレイボーイとして数々の浮名をさらすことになる佐々木哲生の伝説はこれをきかっけに始まったのだった。
どういうわけか神崎戦と里中戦のダメージが一向に抜けない周人は重苦しい体を引きずるようにして寒い冬の空の下、庭先にたたずんでいた。昨日戦った里中から受けたダメージはもちろん、神崎から受けた傷や痛みもまだ引かないのだ。かなりのダメージだったとはいえこうまで回復が遅かったことは例に無く、筋肉痛もずっと続いたままだ。今日まで仕事の源斗がいない上に近所にアパートを借りているせいでしょっちゅうやってくる祖父の鳳命が老人会の集まりでいないのは幸いだ。あちこち痛む体を押してバイクを洗車した周人はタートルネックのその首元を引っ張るようにしながら寒い冬の青空を見上げるのだった。
「晴れたわりには寒いわねぇ」
そう言って玄関から出てきた母静佳を見ることなくぼんやりと突っ立ったままの周人は白い息を吐きながらジャージのポケットに手を突っ込んだ。
「お金、まだあるの?」
その予想もしなかった言葉にゆっくりながら静佳を見た周人は相変わらずの無表情だった。
「東京行くにもお金がいるでしょう?」
「まぁね」
何故か小さい頃から静佳に対しては素直になってしまう。源斗には素直になれず、今ではこの一件で会話も無くお互いが空気のような感じで過ごしているのだが、静佳にはいつも通りの自分でいる。とはいえ以前のような会話も少なく、表情もあまりなかったのだが。
「少しだけだけど、机の上に置いてます。使いなさい」
「いらないよ・・・そんな」
「私もあなたがしていることが正しいとは思えないわ。でもね、その気持ちはわかるから。だから周人、あなたはあなたの思うように生きなさい。たとえそれが正しくても、間違っていても」
静佳はそう告げるとにこやかな表情をしたまま寒い寒いとつぶやくようにして家の中へと入っていった。ただポカーンとするしかない周人はいつもながら全てを見透かすような静佳の言葉には何も返せなかった。何を言うでもなく、何をするでもない。ただ息子のやることを黙って見守っている静佳に感謝の気持ちを持ちながらも素直にそれを言葉にできない自分を歯がゆく思うのだった。静佳はリビングにあるソファに腰掛けながら早くから大掃除をしていたおかげでのんびりできる年末に満足しつつ、周人の心の中の闇に表情を曇らせた。
「あなたの中にある怒りと憎しみが傷を癒すどころか悪化させてる・・・恵里ちゃんが本当に望むものを、本当のあなたを取り戻せない限り、あなたに待っているのは『死』だけなのよ」
苦渋に満ちた表情を浮かべつつも、自らに宿る今や呪われた能力に苦しむ静佳はその能力を使って周人を癒してあげたいと思いつつもそれをグッと我慢して耐えるのだった。
柔らかい肌の感触、唇から漏れる悩ましげな吐息。しなやかな曲線を描く身体のライン、潤んだ瞳、そしてとろけるような感覚。今哲生の頭の中にあるのは昨夜の事だけである。何を思って美咲が自分と寝たのかイマイチよくわからないが、とりあえずはどうでもいい。関係を結んだと言う事実があればそれでいいのだ。また体験したいという気持ちと他の子ともそうなりたいという心が戦う中、不意に名前を呼ばれた哲生は昨日で味をしめたクールでありながらもどこか軽い自分を演じるように自然な笑みを浮かべながら振り返りつつもすぐにその笑みをかき消した。
「なんだ、お前かよ・・・」
「なぁんでいつもそういう言い方するのぉ?」
舌足らずなその子供っぽい言い方に間延びした声はミカだ。顔も可愛い方でスタイルはおそらく美咲をも凌ぐと思われる体つき、特にその大きな胸だが、哲生にとってはまるで何も感じない。周囲から紹介してくれと頼まれることも多かったがそれら全てを無視してきたのはミカが好きだからではなく、この超が付く天然系少女にそれらを伝えることが難しいと判断したからだ。幼稚園の頃から一緒にいながらまるで女性として意識できない哲生にとって、これだけのスタイルを持つミカはただの幼なじみである。
「で、なんだよ」
「しゅうちゃん、どんな感じ?」
「気になるなら自分で直接家に行けよ・・・」
美咲のことがあるだけにミカがうっとおしい哲生はさっさと会話を終わらせて部屋と戻り、昨日の回想シーンに悶えたい一心だった。
「無視されるもん」
「じゃぁ俺も無視だ、じゃぁなぁ」
そう言ってさっさと行こうとする哲生の腕を掴み、強引に引っ張ったせいで腕がそのボリュームたっぷりの胸にめりこむようになる。思わず昨日の美咲の胸を思い出した哲生だったが、ブンブンと頭を振ってから腕を胸から引き剥がすようにしてみせた。
「なんなんだよ!」
「しゅうちゃん・・・復讐やめそうにない?」
「あぁ無理だな。多分、全てが終わるまで止まらないよ」
話はこれで終わりとばかりにさっさと背を向けた哲生が去ろうとした時、ミカが泣きそうな声でつぶやきを漏らした。
「死なないで」
その言葉に足を止めた哲生がゆっくりと振り返れば、泣きそうになりながらも涙を堪えているミカが上目遣いに哲生を見つめていた。
「お願い・・・死なないで・・・」
「バカヤロ!死ぬわけないじゃん」
何故かほっておけなくなった哲生はミカの前まで戻ってくると小さなため息をつきながら薄い笑みを浮かべた。
「でもしゅうちゃん、終業式の時って顔色悪かった・・・てっちゃんもだけど」
周人はもう1日入院だと言われていたところを強引に帰ったせいでその状態も納得できよう。だが、そうダメージもなかった哲生の顔色が悪いとは腑に落ちない。
「いつも恐いの・・・週末はいつも・・・怪我しないように、死なないように、いつも恵里ちゃんに『しゅうちゃんたちを守って』って祈ってるんだよぉ」
「・・・・お前」
本人は涙を堪えているつもりだろうが一筋二筋の涙がその白い頬をゆっくりと伝っていく。そんなミカを見た哲生は胸が痛くなる感じを受けてか、気がつけばそっと優しくミカを抱きしめていた。
「死なないって、俺たちは・・・絶対に。だから心配すんな、すぐに全部終わらせて、すっきりさせてやるからな。もうすぐ終わるよ」
今までにない優しい口調に流れ落ちる涙もそのままに哲生の胸に顔を押し付けて泣くミカ。そんなミカの背中を撫でてやりながら心の奥底がキュンとなる感覚を否定しない哲生はそんな自分自身に疑問を抱きつつもしばらくそのままでいてあげるのだった。
「あれ?水原君じゃない!」
「稲垣さん、ひさしぶりだね」
哲生の家に向かう途中で偶然出くわした2人はなにやら楽しそうに会話を弾ませている。自分と千里のことを突っついておきながら自分は自分で圭子とうまくやっている誠を横目に様子をうかがうようにして見ていた十牙は誠がこうも自然に話をしている女子が他にいたかを考えてみるが思いつかない。千里ともよく話をしているが、決まって自分と2人でいるときに話をしている。と言うよりいつもセットでいる自分たちに話し掛けてきている千里のせいであり、千里とあまり会話をしない自分のせいだとも思える。他にめぼしい女子を知らない十牙はそっぽを向く感じで2人に背を向ける格好を取りつつ聞き耳を立て、その会話に探りを入れるような素振りを見せた。
「ホントはもっとメールとかしようかなぁって思うんだけど・・・迷惑かもって」
結局この間周人にメールをするよう促されながらも決心がつかずに今に至っている圭子は正直に自分の気持ちを口にした。
「週末は『恒例行事』があるけど、普段の日は全然構わないよ!俺の携帯、鳴ることないから、鳴ると嬉しいし」
俺がしょっちゅうメールしてもろくな返事をよこさないくせにと思う十牙だが、そこはあえて何も言わずに黙ったままだ。
「じゃぁ、暇な時は相手してもらおうっと」
にこやかに微笑みながらそう言う圭子に嬉しそうな笑顔を返す誠をチラッと見た十牙はこれはいいネタができたといういやらしい笑みを口元に見せた。その後すぐに圭子と別れた誠はごきげんな様子であり、そんな誠に対して黙ったままの十牙は誠が千里とのことでチャチャを入れてきたときの対抗策としてこのネタを使おうと決めたのだった。
剣術、剣道としては名門である柳生新陰流の宗家である祖父の屋敷に雰囲気が似ているせいか、哲生の家にある道場奥の間、囲炉裏のあるその部屋は妙な落ち着きを感じさせた。日本家屋独特の畳の匂いも心地よく、身が引き締まる感覚を感じる十牙はこの雰囲気がたまらなく好きだった。
「で、用ってのは?」
お茶を置いた哲生の言葉に誠が十牙を見やる。どうやら今日の訪問を提案したのは十牙のようであり、誠は付き添いのために来たような感じを受けた哲生は十牙を見据えてそう言ったのだ。
「お前が言った『正』と『負』の気・・・わかったような気がする。それでより詳しく知りたくてな」
そう前置きしてから昨日のことを話し始める。妙に落ち着いた気持ちの中で練った『念』のこと。武器に宿った『気』と『呼吸』を感じられたこと。千里のことを思い浮かべたことはもちろん端折ったが、それ以外に関しては事細かく説明した十牙の言葉を聞き終えた哲生は少々驚いた顔をしながらも黙ってそれを聞いたのだった。
「ここんところは周人の強さに焦っていた・・・けど、開き直って『念』を使った結果があれだ。意識しなくとも、力を込めなくとも全力に近い力が出せた・・・あれが『正の気』なんだろう?」
「あぁ・・・正確にいえば、それは『無我の領域』だよ」
「無我?」
ここまで一言も発しなかった誠の疑問にうなずいた哲生は十牙を見て苦笑を見せ、それを向けられた十牙は怪訝な顔をしてみせる。
「正直、お前が真っ先にソコに辿り着くとは思ってもみなかった・・・粗野でアホで猪突猛進のお前がな」
「なんだとぉ!」
哲生の言葉に怒って立ち上がりかけた十牙を制し、誠はさっきと同じ質問である『無我の領域』について問い掛ける。哲生は一旦お茶をすすって間を置くとゆっくりと説明を始めた。
「怒りや憎しみ、焦りなどの負の感情を正の感情で包み込むことで『負の気』を昇華、『正の気』として還元したものだ」
そう前置きした哲生は誠と違っていまいち反応の悪い十牙を見て苦笑し、よりわかりやすい説明を始めるのだった。怒りや憎しみなどの負の感情を持ちながら、それを消すことなく心を無に近い状態として力にするもの。殺してやりたいという気持ちを落ち着けてその気持ちを別の形で相手にぶつけるといった感じか。つまりあの時周人の強さに焦りを感じながらも今自分が持てる全ての力でそれを超えたいと願った結果、焦りを昇華して向上心に変えたのだ。そこに千里の笑顔、あの時の千里の気持ちを受け止めたことで何かしらの力がプラスされた。その結果、潜在能力の全てが開花し、それを阿修羅に込めたことによってあれだけの力を発揮できたという感じだ。
「まぁ、半分やけくそな感じだったけど・・・じたばたしてもしゃーねぇからとりあえず全力で周人を超えたいってな感じだったなぁ」
「お前は単純だからなぁ・・・まぁなんにせよ『無我の領域』をものしたならばお前の強さは完璧に近い」
珍しく素直に十牙を誉めた哲生の言葉からして今の言葉は真実なのだろう、そう思う誠は自分もそれを極めたいと願った。
「オメェはもちろんそれを使えるんだろ?」
お茶を飲みながらそう言った十牙の言葉を受けた哲生は顔を曇らせながら静かに首を横に振った。
「いや・・・まだだ」
「ってことは俺が一番かよ!」
哲生の言葉に思わず立ち上がりかけて喜ぶ十牙を制した誠はその意外な言葉に驚いた顔をしている。そんな誠の顔を見た哲生はあぐらをかいていた体勢を崩すようにしながら木の目が走る天井を見上げるようにしてみせた。
「一番簡単なのは好きな人を守りたいとか、そういう感情が怒りや焦りを落ち着けて向上心に変えるという感じだな。俺にはまだそれがないから・・・だから、まだ・・・」
「じゃぁ、周人も今の『負の気』を昇華できたら・・・」
「あぁ、そうなればあいつはもっと強くなれる・・・神崎を倒した時以上の力がいつでも、体や心に何の負担もかけずに使えるだろうさ」
「今でもたいがい強いけどな」
昨日の戦い振りからしても周人の強さは確実に上がっているだろう。神崎には劣るとはいえ『七武装』をああも簡単に倒せるようになっているのだ、自分が強くなっていると言われてもそれが嘘のように思えてしまう。
「まぁ、たしかにな・・・けど、『負の感情』だけでは『キング』は倒せない」
『無我の領域』の力を得た十牙にはそれがよくわかる。たとえ怒りに任せた爆発的な力であっても心に冷静さがなければ意味がない。特に神埼戦を見ている哲生にすれば自らのダメージすら無視して攻撃を仕掛けた周人の戦い方は間違っていると言えよう。勝ったからいいようなものの、もし自分が攻撃する前に致命傷を受けていたら勝敗は逆になっていたはずだ。
「あいつが恵里ちゃんのために本当にすべきことに気付けば、そのために戦うということがどういうことが分かれば・・・あるいは『キング』を倒せるかもしれないな」
つぶやく哲生の言葉の意味を理解できる2人はしばらく黙ったまま沈黙が部屋に充満していた。火のない部屋が寒さを増してきた頃、哲生が囲炉裏に火を灯し、再び『無我の領域』に関する話が再開されるまで各々が戦う意味を見つめ直したのだった。




