第一章 ファイズ=アルリアの日記【三】
気がついた範囲で誤字の修正を行いました。内容に変更はありません。
木々の隙間から陽の光が差し込む森の中を、一人の少女が駆けている。
腰程まで伸ばした金色の長い髪が、今は己の生み出す風によって宙を舞っているかの様になびいている。
息を荒げて走るその表情は、本来は愛らしいであろうその顔を多少は歪ませている。それでも尚、彼女から窺える気品は損なわれていない。
「ふぅ」
少女――シャルネアは一度足を止め、息を吐く。
何度か深呼吸をして、乱れた動悸を落ち着かせる。
夏に入ったばかりではあるものの、その陽射しは十分に強く、木々の葉によって遮られているとは言え気温は高い。走っている最中は風を受け涼しく感じるが、立ち止まったことで思い出したかの様に熱さを感じる。
シャルネアは額に流れる汗をスカートのポケットに入れてあるハンカチで拭う。
王女と言う肩書きを持つシャルネアの服装は、豪華絢爛と言うわけではないが十分に高価な生地で作られたドレス風の白い服だ。スカート部分――膝の辺りにはスカートを一周する様にフリルが付いていて、そのフリルに隠れる様に右足側にポケットが作られている。
今年14歳になったばかりのシャルネアの顔つきはまだ幼さを残しており、その可愛いと言うイメージの服が良く似合っている。
小休憩を挟んだシャルネアが、再び足を動かし始める。
本来ならば、王女であるシャルネアは国領内とは言え決して一人で森の中を駆け抜けて良い立場ではない。もちろん、見つかれば止められていただろう。
しかし、昼食を終えたシャルネアは自分の部屋へと戻らずに、こっそりと城を抜け出したのだ。
6年前と、同じ様に……
「やっと着いた」
しかし6年前よりも確実に、ここに辿り着くまでの時間は短くなっていた。
それは単に身体の成長故のことではあるが、それでもシャルネアはその事実を嬉しく思っている。
シャルネアがいる場所は、霊邪の森と呼ばれる森だ。その中に開けた小さな草原の様な場所があり、その中心には巨大な岩がある。その岩に空いた大きな穴――その洞窟の奥に住んでいる親友に向けて、シャルネアは大きな声で呼びかける。
「シリウスー!」
本来ならば、その声は洞窟の奥にまで届く程ではない。しかし、シリウスと呼ばれた相手はその声を聞き取ることが出来たのだろう。シャルネアの呼びかけに応え、シリウスは洞窟の奥から外へと向かって歩き出した。
ドシンッ。
ドシンッ。
そんな擬音がぴったりと合う足音がじょじょに大きな物に変わってきたことから、シャルネアはシリウスに自分の声が届いたのだと確信出来た。
やがて姿を現したのは、体長が10メートル程はあろうかと言う巨大な獣だった。
その全身は真っ白い毛並みに覆われている。二足歩行種らしく、後足はその巨体を支えるに相応しい太い足をしており、前足は後足と比べると細く、長さもあまりない。何よりも特徴的なのは、その巨体を空へと羽ばたかせる為にあるであろう翼だ。背に生えた翼は美しく、その巨体を浮かす浮力を生み出せるとは到底思えない。しかし、その獣――シリウスは紛れもなく空を飛べる。その事実を、シャルネアは既にこの6年の間に理解している。
『少し久し振りだね、シャル』
その言葉は、シリウスの口から発せられたものではない。対象の脳へと直接言語を送ることによって成る念話の一種だ。これはシリウスを含め、龍と言う存在が会話をする時に用いる手段である。
そう、今シャルネアの目の前にいる巨大な獣こそが、ファイズ=アルリアの日記に書かれている白龍シリウスなのである。
「うん。シリウスは元気だった?」
初めて念話を送られた時は驚いたシャルネアだったが、何度も会い、そして話す内に慣れてきた。今では脳内に直接響くその声を当然の様に受け入れている。
『もちろん。僕ら龍が体調を崩すなんてありえないからね』
「そう言えば、前にもそんなこと言ってたっけ。でも、もしかしたらってこともあるかもしれないし」
シリウスの返答に対しそんな風に言うシャルネアの言葉は、その表情と共に真剣にシリウスを心配しているものだった。
『心配しないで、シャル。本当に大丈夫だから』
「……ならいいんだけど。でも、気をつけてね?」
『ああ』
そんな風に頷くシリウスの姿を見て、シャルネアは納得したのか笑顔を浮かべる。
「今日は、シリウスに聞きたいことがあって来たの」
単純に会いたくなったこともあるが、それ以上にシャルネアはあの日記のことを尋ねたかった。だからこそ、シリウスに会いたいと思ったのかもしれない。
『何だい?』
「ファイズ=アルリアって言う人、知ってるよね?」
『……どこでその名前を?』
シャルネアの言葉に、少しだけ沈んだ口調で聞き返すシリウス。
「日記を見つけたの。ファイズさんの……写本だけどね」
『……そうなんだ。それに、僕のことが書いてあったんだね』
「うん。でも、悪いこととかは何も書いてなかったから安心して。まだ全部読んだわけじゃないけど……ファイズさんが、本当にシリウスのことを大事に想ってるって言うのが伝わってきたんだ。だから、シリウスもファイズさんのことを大事に想ってたのかなって気になって……」
『そうだね……ファイズとの出会いがあったからこそ、今の僕がある。それは間違いないし、僕はファイズのことが好きだよ。もちろん、シャルのこともね』
そんな風に答えるシリウスの言葉は、とても優しい声音だった。シャルネアが感じている嫉妬の様な感情、そして不安を察したのだろう。
「ありがとう」
シリウスの優しさをその身に受け、シャルネアは柔らかな笑みを浮かべる。
その後に訪れたのは沈黙。しかしそれはお互いが穏やかな気持ちでいる、柔らかな時間――
「そう言えば……」
その僅かな沈黙を破るかの様に、シャルネアが口を開いた。
「私たちが出会って、もう6年経つんだよね」
『そうだね。僕にしてみれば6年なんて短い期間だけど、シャルはこの6年ですごく成長したと思うよ』
「そんな風に言われるとちょっと照れるんだけど……そう思ってくれてるなら嬉しいな」
『思ってるさ。何せ、初めて会った頃はずっと僕のことをおじいちゃんって呼んでたくらいだしね』
苦笑混じりの声でそんなことを言うシリウス。シャルネアは恥ずかしそうに笑みを浮かべながら、「そうだったっけ?」と呟く。
『240年生きてるって聞いて、じゃあおじいちゃんだね。なんて言われたのを、今でも鮮明に覚えてるよ』
と、苦笑混じりの声で言うシリウス。
龍と人間では成長のサイクルが違う。当時のシリウスは人間で言えば24歳程の若者と言える年齢で、今もそう大差はない。龍の成長速度は人間の十倍程なのだ。ただし、ある一定まで成長を遂げた龍の老化速度は著しく低下する。これは龍に寿命と言う概念が存在しない為なのだが、そのことをシャルネアは勿論人間は誰一人として知らない。
「えっと……ごめんね?」
『大丈夫。別に怒ってないよ』
おずおずと謝るシャルネアに対して、変わらずに優しい声音で言葉を返すシリウス。
『そう言えば、ファイズの日記にはどんなことが書いてあったんだい?』
「やっぱり気になるの?」
『そりゃあね。知らないところで自分のことが書かれてるのは気になるよ』
「そっか……それじゃあ、教えてあげる」
シリウスの言葉にそんな返事をして、シャルネアは瞳を閉じる。日記の内容を思い出す為に記憶を探り、ゆっくりと口を開く――
語られたのは、ファイズとシリウスの出会い。
そして再会。
身体的よりも、精神的に成長していくシリウスの姿。
人間の言葉を理解し、ファイズが年老いた頃には念話も出来る様になっていたこと。
それから交わされた言葉の数々。
ファイズとシリウスの思い出が、まさしく日記として記されていたこと。
そうした中でファイズが導き出した、龍と言う存在についての考察。
それが全てではないが、シャルネアの語った日記の内容に、シリウスは感慨深そうに聞き入っていた。
『ファイズは、そんな風に思ってのか……』
「……うん」
しんみりとした空気が漂い、シャルネアは少しだけ気まずそうに俯いた。
『シャル』
「……何?」
俯いていた顔を上げ、シャルネアはシリウスの呼びかけに応える。
『ありがとう』
「え? あ、うん」
何に対して礼を言われたのか分からず、シャルネアは一瞬呆けてしまったものの、それが日記の内容を語ったことだと思い頷いた。実際にはそれ以上に意味を込めた感謝の言葉だったが、シリウスはその意味までは言葉にしない。
長い間独りで過ごしてきたシリウスにとって、シャルネアの存在は心の潤いとなっていた。ファイズとの出会いと別れがあったからこそ余計に。ファイズのことを思い出したシリウスは、シャルネアの存在に改めて感謝の言葉を告げたくなったのだろう。
それからしばらく雑談を交わし、陽が暮れる少し前頃にシリウスが会話を切った。
『今日はもう帰った方が良い』
そんな言葉に素直に頷き、シャルネアはクーズベルク城へと帰って行った。