第三章 龍の生まれる瞬間【三】
シリウスの住処――洞窟前で、暖かい日差しに包まれ、シャルネアはいつの間にか眠ってしまっていた。シリウスは自身の身体に身を委ねているシャルネアを起こさぬ様に、じっとその身を止めている。格好から言えば、シリウスも眠りに着く時の様に寝そべっているのだから、それ程辛い体勢というわけでもない。この時、この場の空気は紛れもなく平和で暖かなモノだった。
しかし……
『!?』
異変を感じ取ったシリウスが、シャルネアが起きてしまう事も厭わずにその上半身を起こした。シャルネアはシリウスの動きに気付き、ゆっくりと瞼を開いた。
「どうしたの?」
『……城に、何かあったみたいだ』
「え?」
シリウスが何を言っているのか、シャルネアは理解出来ていなかった。ただ、首を傾げる事しか出来ずにいる。
シリウスが感じたモノ。それは、確かに魔術が発現した時に起こる波動に違いなかった。それも、大掛かりなモノの。ただ、シリウスの知り得る魔術の構成とは異なる波動だった為、それが何を成しているのかはわからなかったが。
『城が危ないかもしれない』
「どういうこと?」
『きっと、何者かに攻め込まれている。だから……』
その先に続く言葉を、シリウスは紡がない。シャルネアならどうするかわかりきっているからこそ、シャルネアの言葉を待つ。
「行こう!」
着いてきてくれるよね?
そんな視線を向けられ、シリウスは正直迷った。本来、人間という種と関わりを持つべきではないと考えていたのだから、それは仕方のない事なのかもしれない。それでも、シリウスはしっかりと頷いた。シャルネアの為に。ただ、そう心に誓って。
『さあ、おいで』
シャルネアをその背に、腕を器用に使って乗せる。
『しっかりつかまっているんだよ』
「うんっ!」
シャルネアの声に応える様に、シリウスはその翼を羽ばたかせ――
大空へと、飛翔した。
向かう先は、クーズベルク城。シャルネアを振り落とさない様に細心の注意を払いながら、シリウスは飛んだ。
シリウスの住処からクーズベルク城までは、それ程の距離があるわけではない。勿論歩けばそれなりに時間はかかるが、何の障害もなく、真っ直ぐに空を飛べば、それこそものの数分で着く。だからこそ、城の様子を見たシリウスは信じられなかった。眼下に映ったクーズベルク城の惨状が、数瞬もかからぬ内にもたらされた事が。
「シリウス……」
『尋常じゃないね……』
外壁は至る所が剥がれ落ち、城の中が伺える。その隙間から、人の倒れている姿も見える。おそらく、壁が残ったその中にも、同じ様に人が倒れているのだろう。生きているのか、死んでいるのか――それは、シリウスやシャルネアの位置からは確認出来ない。
炎が上がっている場所もある。その火の手を沈火させようと翻弄する者の姿も見える。まだ、全ての人間が死したわけではない。それがわかっただけでも安堵し、シャルネアはホッと胸を撫で下ろした。
シリウスは降りれる場所を探すが、辺りにちょうど良い場所はない。そもそも城の外に降りた所で意味はないのだ。それでは、シャルネアを一人にする事になる。とは言え、城に降りられるわけもなく――
『どうやら、降りれない事もなかったみたいだね』
「え?」
『急いだ方が良さそうだ。説明は後。行くよ』
そう言って、シリウスはその身体を傾けた。城のほぼ中央。そう――天井の崩れた、謁見の間へと向かって……
「貴様……何者だ?」
突然の爆発音。そして、窓から見える炎と黒煙。何が起こったのかはわからない。しかし、何かが起こった事だけは確信し、アラダブルは謁見の間へと戻ってきた。それと同時に、謁見の間の扉が開かれ――
漆黒のローブを纏った、全身黒尽くめの一人の男がアラダブルの前へと現れた。男は何も言わず、視線さえ向けては来ない。覆面をしている為、表情までは伺えない。それでも、純粋な殺意だけは剥き出しでいる――
そんな男に向けた言葉。それが、今のアラダブルの言葉だ。
「龍は、何処にいる?」
「龍、だと?」
男の発した言葉に、アラダブルは眉をひそめる。龍という存在を知らぬわけではない。クーズベルクの伝承の多くには龍が出てくる。しかし、龍という存在が現存するなど、アラダブルは聞いた事もなかった。
「言わぬのなら、殺す」
「……知らん。一体、何が目的だ?」
「二度は言わぬ。死ね」
男が冷たく言い放ち、今まさに床を蹴ろうとした刹那、再び謁見の間の扉が開かれ男は入り口へと視線を動かした。
「一体どう言う事だ!?」
謁見の間に入るなり慌てた様子でそう叫んだのは、銀髪長身の男――ワーナーだった。
黒尽くめの男も、アラダブルもその視線の先にワーナーを捉え、その言葉の続きを待っているかの様に動かない。
「私は信用されていなかったと言う事なのか?」
「……知らんな。俺はただ与えられた任を全うするだけだ」
そう言って男は視線を再びアラダブルへと向け、今度こそはと床を蹴る。しかしワーナーはそれよりも早く跳躍しており、アラダブルと男の間へと割って入る。
男はそれを見て再び足を止め、ワーナーを睨みつける。
「何のつもりだ?」
「人的被害は出さない。それが私のやり方だ」
腰元に隠していた護身用のナイフを取り出し構えるワーナー。その様子を見て男は一笑し、再度床を蹴る。
ワーナーは何とか視線だけは男を捉えるものの、身体は追いつかない。左右に身体を捻る簡単なフェイントでワーナーはその身を硬直させ、腹部に思い一撃を受ける。
「寝ていろ。お前の始末は任に入っていない」
「くっ……」
男のそんな言葉を最後に、ワーナーは呻き声と同時にその場に崩れ落ちてしまった。
男は再びアラダブルへと視線を向けた。その視線を受け、アラダブルは言葉を紡ぐ。
「ワーナーは、貴様の仲間なのか……?」
「答える義理はない」
アラダブルの問いに即答する男だったが、直ぐにでも飛び掛るのかと思っていたアラダブルの考えは外れ男は動こうとしない。ただ、視線だけは動く。アラダブルに向けてではなく、その上――天井へと。
刹那、天井で炎が踊る。一部を溶かし、消失させながらも、それでも確実に瓦礫を残す形で――天井が、崩れた。
アラダブルは直ぐに天井の異変に気付き、崩れ落ちて来る瓦礫を避ける。後方には避けるスペースがなかった為、前方へと。
だが、それは精一杯の行為。それ以上、アラダブルに周囲を伺う余裕などなかった。男がアラダブルへと跳躍し、腰に差していたアサシンナイフを抜く。何とか瓦礫を避け、膝をついているアラダブル。男の接近には気付いたものの、それを避ける事など出来るハズもなく――
男のナイフが、アラダブルの心臓に突き刺さった。ブスゥッ。と、嫌な音が聞こえた。アラダブルはその音を聞きつつも、何が起こったのか瞬時には理解出来ずにいた。
男がナイフを突き出した瞬間、下降してきたシリウスが、謁見の間へとその足を着けていた。男はその存在に気が付いていたが、勿論その手を止めるはずもなかった。だから、シャルネアは見てしまった。背後からとは言え、何が起こったのかは理解出来た。自分の父に迫るナイフを持った男。そして、それをただ見つめるしか出来ない父と自分――
「お父さまーーーーーー!」
絶叫。シャルネアは、ただ叫ぶ事しか出来なかった。シリウスの背から降ろしてもらったシャルネアは、床に倒れ込んだ父の元へ駆け寄ろうとした。
『シャル。待って!』
しかし、それはシリウスによって制された。その制止を振り払いたい気持ちで一杯になりつつも、シャルネアはシリウスの言葉だから。と、何とか足を止めた。
倒れたアラダブルの直ぐ前には、黒尽くめの男が一人。そしてその手前には倒れているワーナーの姿。その男はアラダブルを刺した張本人で、そんな男に近寄ろうものなら何をされるかわかったものではない。少なくとも、何も抵抗する術を持たないシャルネアが近付くのは危険過ぎるのだ。
「お父様……」
抱き寄せる事も、ましてや近寄る事さえ出来ず……
シャルネアは、父が死に逝く姿を遠目に見る事しか出来なかった。ただ、涙が流れる。哀しみ。喪失感。全てが織り交ざり一つの感情となって――
シャルネアは、ただ涙を流す……
『お前……一体何をしたのか、わかっているのか?』
睨む様に、男に問うシリウス。シャルネアを哀しませた。ただその事実が、シリウスの怒りとなる。
「…………」
男は黙ったままシリウスを見据える。巨大な獣を目の当たりにしても、全く怖気づく事なく。まるで、シリウスが現れるのを待っていたかの様に……
シリウスの問いに答えるはずもなく、男は瞬時に跳躍した。その先は、勿論シリウス。
スゥゥゥッ。
白銀の一線が、シリウスを襲った。
たかが人間の持つ武器。そうたかをくくっていたシリウスの腕に、傷が入った。
『!?』
本来、龍は人間の扱う武器程度では傷を負わない。それは龍の皮膚が特殊なものであり、又普段から自分の身を守る魔力を纏っているからだ。しかし、今シリウスは傷を負った。それは、生まれて初めて受けた傷。
『一体、何を……』
驚愕しつつも、男の様子を探るシリウス。
そんなシリウスの様子など意に介した様子もなく、男は再びその刃を振るった。だが、シリウスはその巨体を器用に動かしそれをかわす。
『何だかわからないけど、何度も当たるつもりはない』
「…………」
男は黙ったまま、シリウスに傷を負わせた刃を掲げる。それは、白銀の刃……
『!』
ふと、シリウスの頭に何かが浮かんだ。それは、龍を殺す為の武器の存在。この世に三種存在する龍殺しの一つが、白銀を使って作られた刃だという事……
『龍殺の刃……』
シリウスの言葉に、男が、冷笑した。いや、シリウスの目に、そう映っただけかもしれない。
シリウスには間違いなく動揺が走り、隙を生んだ。男はその隙を見逃さず、追撃をかける。
スゥゥゥッ。
『ぐっ……』
その一線は右前足をかすめ、シリウスは呻いた。だが、それだけでは終わらない。男は更に追撃をかけてくる。
「シリウスーー!」
シャルネアが絶叫する。
だが、その思いも空しく、男の一撃はシリウスの右前足を完全に捉えていた。
『っ』
シリウスは声にならない呻きをあげるが、男はそれでも止まらない。
何とか致命傷だけは負わない様にと、シリウスは懸命に男の攻撃から逃れようとするが、足に傷を負った今、それも上手くいくはずもなかった。じょじょに傷は増え、動く事すらままならなくなってきた。その時……
シャルネアが、再度絶叫した。その叫びは声にはなっておらず、不気味な静寂が謁見の間を支配する。
男の刃が、シリウスの心臓を貫いていた。
シリウスはその巨体をどさりと倒し、床に伏せってしまう。
「しり、うす……?」
ゆっくりとシリウスに近寄り、シャルネアは呟く。
「シリウスーーーー!」
今度は、しっかりと声に出し叫ぶ。そんなシャルネアに、男が一歩ずつ近寄る。
「…………」
男は、刃を振り上げ――
そして、そっと降ろした。
男の視線の先には、泣きじゃくるシャルネアの姿が映っている。その姿は、本当にただの子供の様で……ひとかけらも、王女である事を感じさせない。
男は踵を返し、静かに歩み始めた。今シャルネアの頭の中に、この男の存在はない。相手を憎む事よりも、失った事の悲しみが先行しているのだ。
やがて男は消え失せ、その場には倒れたワーナーとシャルネアだけが残された。
父親と親友を一度に失った少女がどうなってしまうのか、それを見届けられる者さえ、今この場にはいない。
「シリウス……」
ただただ、少女の嗚咽と呻き声が、その場に霧散するだけだった……