序章 白龍の住む森
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森が広がっている。
広大――と言う程ではないが、それでも広いと表現するには十分な広さ。
空気は良い。自然地帯なのだから当然だろう。だが、この森に生物の気配は感じられない。植物の類なら存在するが、動物と呼べる種は存在していないのだ。
そのせいか、森の中は常時静寂に包まれている。勿論、生物が足を踏み入れた瞬間、その静寂は破られるものではあるが……
そもそも、なぜ生物がいないのか――
その理由は、遥か昔にある。まだ、世界に魔物と呼ばれる凶悪な種が存在していた頃、この森は彼らの住処だった。魔のモノと称されるだけあって、彼らの多くはその身に瘴気を纏っていた。その瘴気が、他の生物の存在を許さなかったのだ。瘴気は空気中を伝い、他の生物の生命そのものを弱らせる特性を持つ。その為、この森にいた動植物は、一度絶滅してしまったのだ。残ったのは、枯れ果てた木々と魔物の存在だけ……
もっとも、それは全て過去の話。
今では魔物と言う種そのものが絶滅しており、この森も森と呼べるまでに回復している。ただ――昔の名残なのか、動物の類がこの森に生息することがない。
霊邪の森――この森がそう名づけられたのも、魔物の住処だった頃の名残からだ。
その霊邪の森を今、一人の少女が歩いている。それはまだ幼い、小さな女の子――
腰程まで伸ばした金色の髪。深い碧色の瞳。年相応と呼べる、爛々と輝く表情。その顔立ちは整っていて、見る者全てが可愛いと声をあげる程だ。そして少女は、その容姿に見合った血筋でもある。
獣森の王国クーズベルク。少女は、そう呼ばれる国の正当な王家の血をひいている。クーズベルクの王女、シャルネア=マーツ=ミリオム。それが、この少女の名前だ。
シャルネアは、一昨日8歳の誕生日を迎えたばかり。少々お転婆が過ぎる年頃なのか、それとも元からの性分なのか――
シャルネアは、お忍びと言うには危険が過ぎる、一人での外出を試みている最中なのだ。何度か城を抜け出したことのあるシャルネアだったが、こうして城下町以外の場所に足を踏み入れるのは初めてだった。その為か、心臓の高鳴りは治まることを知らず、それどころか加速していくばかり。シャルネア自身は、そんな風に感じている。
霊邪の森は、クーズベルク城の背後に広がる森だ。自分の家の真後ろにある森と言えば、小さな子供にとっては恰好の遊び場。好奇心旺盛なシャルネアが、いつまでもそんな場所に行かないわけがない。城の住人たちは、シャルネアの好奇心をきちんと把握しきれていなかったのだ。だからこそこうして、シャルネアは悠々と森の中を歩いているのだ。
「うん。くうきがきれいだね」
にこにこと笑顔で、誰に対してでもない呟きを漏らすシャルネア。
一度足を止めて、綺麗だと自らが言った空気を胸一杯に吸い込み――吐く。
そんな深呼吸を何度かした後に、止めていた足を動かし始めた。目的地があるわけではない。何せ、ここはシャルネアにとって初めて訪れた場所。どこをどう進めば、どこに着く。などと、ハッキリとしたことなど何一つとして知りはしないのだ。だから、ただ真っ直ぐ――城から離れる様に進む。変に曲がったりしない限り、迷うこともないはず。そんな考えの元、こうしてひたすら直進している。
それでも、見えてくるのは何ら変わり映えのしない景色。森の中など、どこでも同じ様なものなのだろうが……
最初はそれでも楽しんでいたシャルネアだったが、同じ風景がずっと続いていれば飽きもくるというもの。三十分程歩いた辺りで、飽きと同時に疲れも感じていた。子供の足では、それでも城が見えなくなる程の距離ではない。疲れから再び足を止めたシャルネアが、振り返った先に見えるクーズベルク城を見て溜息を吐いた。
「そろそろ、みんなきがついたころかな」
ほんの少しだけ遠目に見える様になった城を見つめながら、自分に良くしてくれている人物たちのことを考える。しかし、まだ戻る気はない。
何か、小さくても変化が訪れるまでは……
「よしっ。もうすこしすすんでみようっ」
自分自身を奮い起たせ、再び足を動かし始める。さっきまでと同じ様に、城から離れる様に、真っ直ぐと歩く。
あともう少し。
あともう少し。
そう何度も考えながら、少しずつ――だけど確実に、その歩を進めていく。
もう三十分程歩いた頃だろうか……
シャルネアの視界に映る森が、その姿をわずかに変えた。
シャルネアはその変化を敏感に感じ取り――嬉しさからか、心なしか弱々しくなっていた歩調を強め、変化点へと向かって駆け出した。
直ぐにその変化点へと辿り着く。木々に囲まれた森という空間から一転。視界が開けた――そう表現するのに相応しい、まさしく木々の開けた空間へと辿り着いた。
――その景色を視界に収めた瞬間、シャルネアは思わず言葉を失ってしまった。
辿り着いた場所は、小さな草原の様にも見えた。クーズベルク城の庭園の、数倍はあろうかという広さ。大人の足でも、端から端まで歩くには一時間あっても足りないかもしれない。シャルネアの視界に入ってはいないが、反対側の端から先には今までシャルネアが歩いてきた場所と同じ様に森が広がっている。しかし、それを知らないシャルネアは――いや、仮に知っていたとしても、それよりも気にかかる物があった。
草原と表現したこの空間のほぼ中心に、巨大な岩があるのだ。いや、ただの岩ではない……
近付けばハッキリと分かるであろう穴が開いている。巨大な――まるで、人間の何倍もの大きさの獣が通る為にあるかの様な、巨大な穴が……
その巨大な穴に、シャルネアは確かに恐怖を感じていた。しかし、それ以上に好奇心を抱いてしまった。だから、シャルネアは進む。
穴――岩の洞窟の中へと向かって、ゆっくりと、しかししっかりとした足取りで。その先に何が待ち受けているのかも知らずに、あまり日の差し込まない洞窟の中へと入って行った。
洞窟に入ったシャルネアの目に入ってきたのは、幻想的――とまでは言わないまでも、無骨ながら目を奪われる様な光景だった。
外観からは暗闇が待っているとしか思えなかった洞窟内部だったが、いたる所に外と繋がる大小の穴が空いているらしく、その穴から太陽の光が差し込んできている。その光が中空で交差し、不規則に天然のスポットライトが出来ている。そのライトの場所も、陽の傾きによって変わっていくのだろう。
暗闇に目が慣れるまでは……
そんな風に思っていたシャルネアにとって、その事実は軽く肩透かしを受けると共に、嬉しい誤算でもあった。もっとも、シャルネア自身はそこまで難しく考えてなどいないのだろうが……
いくら光が差し込んでいるとは言え、洞窟内部全体が明るいわけではない。シャルネアは慎重に、少しずつ奥へと進む。時には壁伝いに手をつきながら、時には光を頼りに。そうして歩くこと十分程。ほとんど真っ直ぐに進んだ先に、完全な空洞が存在していた。広さは、クーズベルク城の中庭程度だろうか。天井も高く、その距離は二十メートル程はあるだろう。大体クーズベルク城の見張り塔程の高さである。
上部には例の穴も開いているらしく、光が横向きに差し込んでいるのだが――足元までその光は届いていない。その為、目の前に何があるのか判断出来ないシャルネアは、暗闇に目を慣らす為にぎゅっと目を瞑る。天井を見上げていた首を正面に戻し、ゆっくりと目を開ける。
何がある――何かがある。と理解していたわけではないが、ただ何かが在る気がして……
シャルネアは、少しだけ暗闇に慣れた目を凝らした。
「!」
そして、気付いてしまった。そこに、在るはずのないモノがいたことに。ただ、直ぐにソレが何なのかは気付かなかった。とにかく、大きな獣がいる。それが、シャルネアが感じた正直な感想。
巨大な獣がうずくまっている。眠っているらしく、シャルネアの存在には気付いていない様だ。だと言うのにも関わらず、シャルネアは向けられてもいない獣の意志に萎縮してしまっている。固唾を呑み、言葉を失っている。
獣が、ゆっくりとその身を動かす。もぞもぞ。と、そんな擬音が聞こえてきそうな動きだが、実際にはズルズルと何かを引きずるかの様な音が聞こえただけだ。
獣の眼が、ゆっくりと開かれ――その視線の先には、シャルネアがいた……
『人間か……』
その顎を――口を動かすことなく、獣が言葉を発した。いや――発したとは言えない。その言葉は、シャルネアの脳に直接語りかけたものなのだから。
「えっ? え?」
何が起きているのか理解出来ず、シャルネアは狼狽するあまりキョロキョロと辺りを見回す。勿論、声を発する者は自分だけ。周囲に、自分と獣以外に生物は存在しない。
つい一瞬前までは萎縮していたシャルネアだったが、脳内に響くその声の優しさ――そして、開かれた獣の優しい瞳に、その強張った身体を完全にリラックスさせていた。
『それも、子供か』
何を考えているのか、そんな言葉を呟き漏らした獣。心なしか、溜息を吐いた様にも思える。
「もしかして、あなたがしゃべっているの?」
『その通りだ』
シャルネアの問いに対して、律儀に、しかし即答する獣。
それでも一度消えた恐怖が戻ることなく、シャルネアは臆すことなく獣に対して言葉を向ける。
「すごい! ことばを話せる動物なんて、はじめて見た!」
『言葉を話しているわけではないのだが……』
「うぅん! ほんとにすごいよ! ねぇ、あなたの名前は?」
獣の言葉を遮る様に、根拠も、理にも適っていない叫び声をあげるシャルネア。
その後に続いた問いかけに対し、獣は困った様な表情を浮かべた。しかし、シャルネアはその変化に気付かず、獣の返事を待っている。
『――――』
「あ、そうか。ごめんなさい。先にじこしょうかいしないとだめだよね。わたしは、シャルネア。シャルネア=マーツ=ミリオム。お父さまやみんなは、わたしのことをシャルって呼ぶわ」
『ふぅ。僕の名前はシリウス。龍と呼ばれる存在さ』
何かを諦めた様に、今までまとっていた堅い雰囲気とは違う口調で、獣――シリウスと名乗った龍は答えた――
それが、シャルネアとシリウスの初めての出会い。
正に運命と呼ぶに相応しい、必然的な出会いだった……