チュートリアル:1 天が投げ与えようとするものはいつも、地上には雨の形でしか届かない ● 美にはイデアなどない
進化心理学・行動遺伝学が、人間が個体単位で それぞれ獲得し得る知能の水準は、ほぼ 環境ではなく遺伝的な構造によって決定されている事実を明らかにしつつある、という。
この発表へ対しては、平等主義に反するという大義に則り、先天的な格差の存在そのものの認知を生理的な段階から受けつけない層などから信条的な反発が絶えないが(しかし、生得的な格差の存在を認めないということは、取りも直さず 後天的な格差の存在を認めることに他ならないのだが)、けれども その認識は、人間の知能の高低または有無が 人間の尊厳ないしは価値と比例的に関係しているか、あるいは指標である、との強迫観念に囚われてのものにすぎない。
ただし 注意すべきは、然るノーベル賞受賞者による早まった予測とは反して、知能の高い血統から その形質が、交配や累代につれて高じていくことも、その逆の現象も、発現が確認・立証された事例は(すなわち、いわゆる優生論を 知能の点において支持するかのような事例は)、おそらく これまでに見当たらないという点である。知能度合は遺伝的に決定されるが、それは、知能度合が形質として遺伝するということを意味しない。
知能は遺伝的に決定されるが、遺伝子は知能を、優性的に取り扱うべき形質とは見做していない。
それは、地層学的な速度でしか展開しない進化が 人類社会の思想史的な変遷へまで追随できておらず、現生人類についても、いまだ 猿人に毛が生えたぐらいの(事実としては むしろ体毛は減少しているのだが)文明度としてしかフィードバックしていない所為もあるが、そもそも遺伝子が、個体の知能の高低を、それほど、生存競争上の有利を獲得させる必要上でも特に枢要な、生命の持続にとって重要な働きをする諸元であるとまでは、そもそも最初から評価していなかったからであるようにも見受けられる。
なぜなら 知能とは、生命体にとって、本能による処理では限界がある想定外的な状況を解決するため応急的に備わった、用途としては汎用的ながらも、あくまで例外的・特殊的な機能にすぎないからだ。しかも、省力化を基本方針とする傾向の強い 進化のアルゴリズムから鑑みて、非常に燃費もよろしくない。
ロールプレイングゲーム等でたとえるなら、プレイヤーキャラクターのスキルないしアビリティ類の構成を組み立てる折、各種パラメータ上昇やステータス異常耐性などの基礎的なパッシブスキルよりも、特定のストーリーシーンでのみ有効なアクティブスキルのために、限りあるストレージの空き容量を優先的に割いているような状態、それに近いように思われる。
だいいち、知能は本当に、人類が自ら信じているほど 問題解決のための手段を好成績で提供できているのか。
学びて思わざるは即ち罔し、思いて学ばざれば即ち殆し。知力とは 十全でないかぎりは、常に、かえって迷惑なものだ。しかし、思慮と知識とを豊かに兼備していてさえ、知的行動体が いつも成功できるわけでもない。とはいえ言うまでもなく それは本能にしても同じことではあるのだが、けれども、思索は重ねられるごとに最適解へ近づくどころか むしろ考えすぎて自滅する場合すら間々ある面までも考え合わせれば、社会における競争などの確率論的な作用をする撹乱要素を排除した純粋な環境にあったとしても、知性が厳密な正答を導出できる確率は きっとそう高くはない。
小学校の社会の授業で ヒミコの巫術政治について習った当時は、なんて非科学的な政治体制かと感じたものだったが、しかし、それから中学校へ進学して 公民の授業を受けるようになってから、いつしか自分は漠然と、社会科学をが導入した現代政治であっても 本質的にはそれほど大差はない、などと考えるようになった。たとえば、アメリカの政治ドラマ<The West Wing(原題)>の作中では、ノーベル経済学賞受賞者との設定である ジェ○・バートレット大統領が、専門家から経済見通しを示されるたびに「占い師も一緒に連れてこい」だのと軽口を叩いて、科学的に弾き出された予測値への不信を強調するような場面が繰り返し出てくる。また、人類社会において おそらく先史時代からも常に変わらず 政治の枢要な機能の一つであり続ける裁判についても 例にとりあげるならば、古代の神明裁判などでは事実上の冤罪が大手を振って横行していたであろう推測は 自分たち現代人にとっては自明のことであるけれども、一方で 科学捜査技術が著しく進歩している現代にあっても、やはり 冤罪の疑いそのものは未だなお一向に止まずにいる。さらには、時として審判の主眼が 真実の究明や公正な調整よりも、ともすれば 大衆を納得させて民心を安定させる結果目的へばかり傾きがちとなるだろう点も、たぶん大きくは変わっていない。
当たるも八卦 当たらぬも八卦、という格言の意味については誤解している人が殆どだが、占いとは本来、当たるか当たらないかが重要なのではない。それは、宗教の定義において 必ずしも神の存在が不可欠であるわけでもない、その構造とも似通っている。それらは いずれも、人間の知性が創造したものだが、人間の知性は いつも、究極的には必要ではないはずのものとして必要となるものばかりを創造し続けてきた。
必然として、人類の営みは複雑になった。それを進歩と評価するべきであるのかどうかは知らないが、今や 人類のうちの誰一人として、その営みの全てを眺め渡すことが不可能となっていることだけは確かだ。
人類には、その具備した知性で以て 哲学的な探究に勤しむべき 使命ないし目的が課せられている、との通底した倫理観が蔓延りがちだが、そんな義務の存在が かつて、人類の上位的外部から突きつけられた事実だって証明もされていなければ、その証明ないし反証の責任にしても それに続いて発生したりすることもない。ましてや、そのためにこそ 予定的に知性を必要として与えられたはず、との認識も、論理上 順序の倒錯として拒絶する。
それは 必然であるとすれば矛盾であるだろう。
人間は、人間の知の奴隷ではない。
福井中学校 3年A組 都鄙共興 課題作文『非必然と、人間の知の「しんわ性」について』より
◇
──おじいさん?
──おじいさん。目を開けて下さい。
──おじいさん、しっかりして。起きるんです。
どうやら 睡眠から覚醒しつつあるらしき 自分の意識の片隅で、「『おじいさん』とは誰のことだ。いや、何のことだ?」と まず最初に思った。
徐々に目を覚ましかけている自身の五感が、どことなく手順的、かつ 泡のように多発的 浮遊的に、周囲の情報を少しづつ収集し始めている、その機能のみ、意識から先行して立働している。
…なんだか 暗い、…と 思う。
たしか 今、「起きろ」とか「目を覚ませ」とか、現在時刻が 常識的な起床の時間帯を過ぎ越えつつあると含意しているような指示内容を聞き取った気がしたのだが、それにしては 随分と、まぶたの向こう側に広がる環境の照度が 全く高くない…ように感じられる。
次に、嗅覚が 違和感を訴えている。
違う、語弊があった。周囲へ感じるにおい、それそのものが 日常生活の上からすると そぐわないそれであったり、不快なほど刺激的なそれであったり、あるいは 環境における、付属すべき本質から剥離したそれとして独立的に在るようになったのでありそうな、不自然な気配がしている という意味では…、ない。
緊張感などを強いられたりこそしないのに、少しばかりの興奮はもたらされるような、…いや 表現が端的すぎるか。
心情が浮き立たされるというよりは、夾雑物が濾過され純化されるとでも言うのか、あるいは パーソナルスペースを外側から圧迫してくる閉塞感が取り払われて、そのために、あたかも 踏みつけられていた草花が再び空への伸長方向を取り戻すように、むしろ 内部から先鋭化されてゆくかのような…。
それから、体に…、現在 仰臥姿勢をとっているらしい自身の体表の接触面に、寝間着や寝具のそれとは思えない…少なくとも 自分のパジャマやベッドマットレスの覚えとは異なる、柔らかさに欠けた刺々しい摩擦が──
「…」
──“先天性表皮水泡症”という遺伝性疾患を抱えている、いささか世話の焼けるこの身の肌を苛んでいた。
「…」
自分は、症状としては ごく軽度なレベルにすぎないものの、ほんの少しばかり 生まれつき体質的に皮膚がデリケートであるため、普段から、着用する衣類等にも それなりに注意を払いながら日常生活を過ごしている。
伝言ゲームでもあるまいに、不利な形質が優性遺伝するなんて、目的論的システムとしては間違ってるのではないかと思っているのは俺だけだろうか?
靴下のゴムにも、ボトムスのベルトにも、あるいは 靴擦れ一つにさえ油断ができない。
その自分が…、了解ずくで身を委ねた寝床にしては、これは…。
「…」
続々と異常を訴えかけてくる自身の五感に、そろそろ周囲状況の確認へ取り掛かるべきとの必要感こそ募ってはくるものの、いまだ健やかには覚醒し切らない意識が なぜか なかなか自身のおかれているらしい胡乱な現状へ不安性を認めて切迫感を行き渡らせようともせず、己の目蓋は焦らすように重たく、また、いつもなら眠りが途切れる前に現在時刻のおおよその見当をつけて報せおきにくる体内時計さえも、なぜか 今朝に限っては沈黙したまま、一向に呼び出しにも応じてこない。
「…」
ひょっとして、この身は今 くたくたに疲れているのだろうか?
まさかとは思うが、駅前の繁華街付近で時折見かける泥酔者のように、前後不覚に陥って 場所も選ばずに眠り込みでもしたのだろうか。
ゆうべまでには 何か、いちじるしく疲労するようなイベントでもこなしていたっけか。
もしかして、クラスメートの原が主宰している同好会に強引に付き合わされて、ARオリエンテーリング大会にでも参加して、あげく 映像酔いか何かで倒れてしまってたんだったりして?
実際、3D映像やVR等で 酔う人は酔うと聞くし。
自分の友人の中にも 苦手らしい子は何人かいて、たとえば 「どんなお化け屋敷ででも今までに怖いと思ったことがない」とか豪語していた松永久乃さんなど、いざVRデモを体験した後では、いつもの威勢はどうしたのかと訊きたくなるほど青ざめた顔色をしていたほか、学校ではクラスきっての器用人で通っている明智光禾さんでさえ、「ついていけない」とか零していたこともあった。
彼女たちとは『京都人とウィーン人の気質の比較』と題した課題作文を三人で一緒に書いたこともあって 割と気は合う仲なのだけど、あるいは神経構造についても お互い似たところがあるのかも?
「…ARか…」
「え? 何ですか?」
「…」
夢うつつで取り留めのない断想の浴槽に揺蕩う中、思いがけず無意味な独り言が現実の口から零れたらしい。半ば寝言なのだが、そうとは受け取らなかったのだろう、訊き直そうとする反応が返ってきた。
眠りの夜の領域から外へと脱ける出口を瞑目の中で探り当てようとしているかのように覚束ない心地のまま、誠実に応えるためでもなく、部屋の中へ迷い込んできた野良猫を窓戸まで追い払おうとでもしているかのように及び腰、ないしは 転がらないビーンバッグを室外へと蹴り出そうとでもしているかのように粗略に、口から外へ出た後には関知するつもりがないかのように無責任なテリトリー観念で、まとまりもないままの自己完結したような雑感ばかりを、自分から外側 あるいは他側の方へと向けて押しやってみる。
「…いや。
…オリエンテーリングにはARならもうあるけど…VRでもOKなのかどうかは、これが…なかなか根源的な問題だったりするんじゃないかな、なんて思ってさ…」
声に出たと自覚してから、ようやく、いま 自分はいったい誰と言葉を交わしたのかと、状況を訝しむ警戒感が表層へまで立ち上ってきた。
自分が…誰か未確認の相手と…形の上では会話を成立させていた、その認識が、はじめて 睡魔の強制的な遮断を実行せしめた。
他者に対して無防備 無抵抗な状態を晒したくはない。
ただ 寝ている間だけではなく、たとえば、いつの日か 自分が人生を終えたときには、自分の亡骸は できれば誰からも見つめられたりなどさせたくはない。
誰かと一緒にも死にたくはない。
せめて、相手が──
「──あ、気が付きましたか? おじいさん。…よかった…」
うっすらと…ひらけはじめた眼のなかに、まず見えたのは、白い髪の 穏やかそうな目を潤ませた女性の微笑みだった。