ジーンズの似合わないアドレッセンス ● 金星の極北は凍えない
まだ子供の頃は、明晰夢と現実とをさえ取り違えることなんて無かったのに、だんだん大人へ近づくにつれて、自分の経験の記憶の中に、それが確かに自分が実体験したことだったのかどうか 確信が持てない事々が多くなってきている気がする。
『地下アイドル 真善美和ライヴステージの照明係お手伝いで お忙しいところ御免下さい です!』
『わっ、びっくりした!』
『お邪魔して申し訳ありません です。失礼ですが、学園中等部1年A組の粛慎吹雪先輩でいらっしゃいますか? です』
『えっと…。ごめん、どちらさまかな?』
『申し遅れました です。私は 只今まさに絶賛開催中である当学園祭の運営委員会に所属する初等部委員、6年3組の左橘右桜と申します です。上手の先立と花咲くを掛けて、右の桜と書いて「さき」と読ませる です。なお不躾ながら、これを以て 私の名前に関する以後のお訊ねはご容赦いただきたく思います です。が、さておき とにかく、なにとぞ以後お見知りおきを。です!』
『あ、はい。どうも。よろしく…って! ビデオカメラ!? 学園放送部? 何故にカメラ来てるの!? しかもこっち向いてる!? 回ってる!? なんで私なんか撮ってるの!?』
『放送委員会の方々についての紹介は省略させて下さい です。まずは こちら、私と同じく学園文化祭実行委員会初等部委員の、6年1組 物部結と、やはり6年1組の大伴舞です』
『初めまして』
『いきなり申し訳ありません』
『いえ。その…こんにちは。いや、それよりもカメラが何故』
『突然の非礼をお詫びの上、改めてお尋ねしますですが。前年の学園文化祭にて ミス学園コンテスト初等生部門での番外特別入賞にして、学園内アンケート 「異世界転移・転生やタイムスリップ、デスゲーム等に期せずして巻き込まれても意外と何だかんだでしぶとく最後まで生き延びそうな人」ランキングでは見事に学園優勝を飾り、総合点で学園ヒロインコンクール上位へ辛うじて滑り込んで話題となっていらした、粛慎吹雪先輩で 相違ありませんでしょうか? です』
『…。
いかにもその通り、お陰様で有難くも小学生の身空にして校区外へまで顔が売れてしまった粛慎吹雪でございますけれども。…えっと、何のご用かな? …ミス学園の引き立て役に丁度良い微妙女子でもお見繕い中かな? それとも底辺女子のbefore and after変身企画の改造被験者でも物色中なのかな?』
『舞台へ上がっていただきたいのです』
『…
…
…うん?』
『時間がない上に 未だ現時点では口外を禁じられておりますので経緯の説明は省略させていただきますですが、当学園祭で上演が予定されていた舞台劇が 諸般の事情により当日となって発表不可能となりましたのです。いや 部外秘とは言いつつ楽しげにバラしてしまいますですが、今回の舞台で配役の中核を担うはずだった学園演劇部の内輪において俄かに深刻な対立が顕在化してしまい、主要な面子が揃って出演の拒否や辞退などで相次ぎ降板してしまったのです』
『ちなみに、企画段階では意気込み充分どころか寧ろ過剰だった一部の関係者によって大々的に告知されていた表題は、ガブリエル・ガルシア゠マルケス原作<迷宮の将軍>に、ジョルジュ・ロデンバック原作<死都ブリュージュ>の要素を盛り込んだ翻案版でした』
『…』
『文化祭実行副委員長の久米富肥先輩が「
──会話記憶の再生に失敗:文字数(空白・改行含む)809字/文字数(空白・改行含まない)802字──
」…って、大いに嘲笑してましたね』
『なぜユイはその自慢の暗記力をいつも有意義でない方向へしか使わない』
『火の粉が私たち運営委員会のところまで降りかかって来てるんですから、対岸の火事だと思って嗤ってる場合じゃないって。です。
ともあれ 起きてしまった事はもう仕方がないので、我々運営委員会といたしましては善後策を講じねばならなくなったわけですが、ユイちゃんの話にもありました通り 既に上演告知を派手にやってしまっているので、今更キャンセルというのも体裁が悪いのみならず 色々と皺寄せの処理というか弥縫が大変だと思われるのです。そこで運営委員会が内々に対応を協議した結果、ここは有志によるアドリブ即興劇で何とか穴を塞いで乗り切ろうという話に』
『頑張ってね』
『そこで粛慎先輩へ出演を依頼に伺った次第なのです』
『なんでそこで私の名前が出てくるの!? 過程が飛躍しすぎじゃない!? 私 演劇部とかとは縁も所縁もないんだけど!?』
『それはもう、学園でも人を惹きつけるカリスマに恵まれていて なおかつ機転も利きそうだと評判の先輩に賭けるしかないと。たとえとしては大袈裟ですけど、もう越国へ継体天皇をお迎えに参上するかのような切羽詰まりようで。運営委員長の犬熊隼人先輩までもが「彼女しかいない」って言い切ってましたし』
『嘘だ! 学園中の学生や生徒、教職員と その御家族だけでなく、文化祭を訪れている他校の生徒まで含む不特定多数の観客で満座となった学園講堂の舞台上、衆人環視のど真ん中で、お嫁に行けなくなるくらいの一生ものの大恥をかいても 引き籠もりとかにはなりそうもない、管理者側にとって 問題でも起こされて迷惑を被ったりする心配がない、図太くてしかも転がしやすそうな都合のいい生贄は誰かいないかって基準で選考して、どうなろうと惜しくもない捨て駒自爆要員として最初に浮かんだサクリファイス候補が私だったんだ! ちょっとおだててやれば木にでも舞台にでもほいほい上るような軽薄な女子だと舐められてたんだな! よくも虚仮にしてくれて! でも そうは問屋が卸さないぞ!』
『声量声質や滑舌などの基本スペックは優良。瞬発力や反射神経などの諸元も水準以上と見受けられる。表現性もナチュラルだし語彙力なども問題なさそう』
『表情豊かなのが特にいいです。何よりカワイイのです』
『…!
…かっ、かわ…』
『(やっぱり)』
『(お約束通り)』
『(…チョロイです)』
『…こほん。
…いや、引き受けることなんてできないけど、私なんかがしゃしゃり出て 却って迷惑かけちゃいたくないし…、でも、左橘さんたちが困ってるのに無下に断るのも心苦しくて、…一応 礼儀として訊ねるだけなんだけど…、上演って何時からなの?』
『マイちゃん?』
『んと…、だいたい あと二十分で、元々告知されていた予定での開幕時間』
『全然間に合わないじゃん! やっぱりダメだよ! 無理! 私はシモン・ボリバルの事績なんて知らないし、今から脚本読み込む時間もないし。衣装を着替える時間すら取れるか怪しいよ!』
『あ、衣装はどうせ大学生や高校生とサイズとか合うわけもないので無視で。っていうか、もうタイトルも忘れちゃっていいですよ。ドタキャンさえ回避できれば、代役立てて演目変更でも。大丈夫、伝説的指揮者のカルロス・クライバーとかでさえしょっちゅうやってましたし。舞台装置? 新バイロイト様式という挑戦だって 嘗てあったではないですか。畑違いな音楽分野の雑学の援用ばかりで面目ないですが。
ミラノ・スカラ座ではロベルト・アラーニャが聴衆の悪意に満ちたブーイングに激怒して上演の最中に主役を放棄して退場してしまい、急遽代役がジーパンのまま舞台へ放り込まれたって有名な話があります。世界的ヴァイオリニストのナイジェル・ケネディなんて、デビューコンサートでいきなり礼服を忘れて 仕方なくそのまま古着で演奏して以来、パンクファッションとかでステージに立ち続けています。カラヤンが率いていた頃のベルリンフィルでさえ、88年のロンドンライヴでは フランス名物ゼネラルストライキの影響で団員たちの衣装含む荷物の搬送が遅れに遅れ、結局コンマス以下の団員たちは私服のままでコンサートに臨んだそうです。プロでもそんなのありなんだから ましてやたかだか学園祭なんかで心配なんていりません。なので服装もそのままで結構です』
『え!? …そんな、嫌だよ! 恥ずかしい! 私はこの学園祭の期間ずっと裏方だって油断しきってたから、こんなコンビニへさえ出かけられない格好で』
『デニムonデニム。いいじゃないですか、少なくともそれで外出できないなんてハードル上げすぎですよ。そもそもコンビニへ行けない格好でどうして登校はできるのか。っていうか吹雪先輩、意外と透明感のあるイメージでよく似合ってます。<○イビー・グッドモーニング>の“ミニスカートを穿いた死神”のコスプレとかも似合いそうですね』
『その通りです。いまどきそんなファッションで許されるのなんてK‐POPアイドルぐらいのものでしょうです。それで似合っちゃうなんて羨ましい限りです。私なんて いつの頃からか、ご覧の通り オール黒のモノトーンコーデ以外は不安で着られなくなってしまっているぐらいです。そこへいくと粛慎先輩はスタイルといいルックスといい、憧れてしまうほどです。…いや、私だってこれからなのですが』
『しかも吹雪先輩 なにげにジーパン、スキニーじゃなくてブーツカット…。いえ、個性的でいいと思う。吹雪先輩らしさが出ていて素敵』
『みんな適当に言ってるよね!? 特に最後の大伴さん! 今しがた初めて会ったばかりなのに私らしいとか! 物部さんも、ユニク○で買った白いTシャツとミニスカートを着てるだけの死神のコスプレとかリクエストされたって困るんだけど!
今の服装は本当の私じゃないんだから! 本当だよ!? わ 私だって、リズリサとかアマベルとかアンクルージュとかの系統のアイテムだって少しは持ってるんだからね!』
『…着たことはあるの?』
『…いや無いけど。…姿見の前で独り 試着してみたっきりだけど』
『分かる、分かる』
『こんな時こそ着て来なくて他にこの先いつ着る機会なんてあるんだって悔やまれる一方、こんなシチュエーションだからこそ着れたものかって思いもありますよね』
『…というか皆、この状況下でまず服装を気にしていられる胆力が私には真似できないと思うです。普通なら、私 演技の経験なんて無いのに~とか狼狽してるところです』
『んー…私なら、私以外の出演者たちについてはどうなってるのか、とか気になるけど』
『え!? ちょっと待って。君たちも一緒に出るんじゃないの?』
『私たちにはアドリブなんて無理な相談なのです。現に たった今も、粛慎先輩のコーデについて咄嗟のフォローに失敗してるじゃないですか です』
『…。
よーし分かった、そっちがその気なら こっちにも考えがあるぞ!』
『な…、
何を始められるおつもりですか? です』
◇
(サキ、そんな目立つ格好で居眠りしてちゃダメだよ)
「…んぅ?」
濡烏のストレートヘア、まるで当然のごとくフロントにクロスのワンポイントプリントが施された黒のバスクベレー、黒革のローファー、厚手のブラックタイツ、開襟ダブル6ボタンの黒ジャケット、黒のストレートミニスカート、グレーストライプのイートンカラーブラウス、そして黒のリボンタイ。これでもかとばかりの黒尽くめでいながら、しかし何処か優等生的な如才無さも醸し出している。
(…夢でしたか、です)
高校進学を間近に控える、幼い頃からの黒尽くめ女子、左橘右桜は、やはり子供の頃からの惚けた口調、昔から周囲より頻繁に指摘され続けてきた自身の「厳しすぎる雰囲気」を解してやるべく譲歩して身に付けた処世術で以て、潜めた声で独白の形式を借りつつ 隣席の友人たちへ現況の確認を要求した。
(楽しい夢だったの? 何だかサキ、目が覚めた途端に つまらなさそうな表情になったけど)
(…ある意味、私の原点です)
人懐こくも鋭く やや無遠慮に、やはり小声で問い掛けてきた隣席の友人へ、右桜は それとは対照的な態度で答えを返した。ぶっきらぼうに韜晦して淡々と、ただし真摯に。
(っていうか、私よりもよっぽど派手な格好のヤバい人が いっそ挑発的なまでの態度で平然と寝てるではないですか、です)
サイドテールの茶髪にラメ入りショッキングピンクのキャップを浅く載せ、スタッズベルトとスパイク鋲も刺々しいロングブーツを履いた脚を深く組み、中学生には十年早いと思しきショートキャミソールとマイクロミニデニムスカートの露出を、しかし気を持たせておきながら勿体つけて隠すかのように、ピラネージの<幻想の牢獄>からモチーフを抽出したと思しき意匠がプリントされているポンチョをルーズっぽく羽織って 太腿から上を包んだ装いで、右桜の二つ右隣の席から さらにその右隣に座した甘露湖聖の左肩へと 遠慮の欠片もなく凭れ掛かって頭を預けている、右桜と同学年にして稚気と大人っぽさが混在した少女、佐々木満誉。
右桜のすぐ右隣に着席している 彼女の一学年上の先輩にして、気こそ置けないが一目は置かないでもない友人 喜連川尊が、その満誉へ、まるで 何もない空間に忽然と瑕疵が浮き上がって初めてその存在を視認できる完全に透明な水晶をでも見遣るかのような一瞥を送った。
(寝ている時でさえ『こいつどういうつもりで寝てるんだろう』なんて考えさせられる、測り難い相手っているよね)
(君が考えすぎなだけです)
少しばかり意識的に突っ慳貪な右桜の尊へ対する受け答えが三つ隣で聞こえている甘露湖聖、右桜の二学年下の後輩が、寄り掛かる満誉を肩で支えさせられ身動きできない姿勢も相俟って、ほんの少しだけ難儀そうに、けれども仄かに自負ありげに、右桜と視線が合うや 目許口許で微苦笑を作って見せてきた。
聖がまだ小学生だった頃、その対人関係において、主に学校を軸とする生活圏で児童生徒の一部から やや遠慮されているらしいとの気配を看取した右桜が、わざと人前で 「その『あまこ ひじり』って名前の読み、ちょっと『あまごい ひでり』に音が似てるよね」などと 気安く揶揄ってみせたりなどし、その近寄り難いらしい印象を和らげ 親しみやすさを知らしめようと立ち回ってみたことがある。しかし 今にして思えば、当時の聖が それまでの右桜自身と同じくらい、周囲から腫れ物に触るような扱いを受けているものと即断したのは、顧みるごとに早計だったかも知れないと考えるようにもなっていた。
そもそも交友関係の分水嶺というものについて、とやかく人のそれへと口出しできるほど自分自身に交際に纏わる経験と実績があるなどとはとても言えない。
右桜は首を巡らせて、己の左側の隣席へと視線を転じた。
「? 何か?」
右桜の左隣の席に腰掛けていたのは、友人が相手だろうと そうでない人物が相手だろうと ひょっとしたら対人態度が殆ど変わらないのではないかとさえ思わせる節のある やや堅物っぽい後輩にして、気さくなのだけど斑っ気の甚だしい喜連川尊とは性格がまるで似ていない その弟、喜連川直。
さらに その左隣には、常日頃 高IQの低EQ娘だとか囁かれ 周りから敬遠されがちでいて、しかも ちんちくりんな風姿もあってか 余計に人気やら友達甲斐やらがあるとは言いがたい KY系JC、大村量益。
他に、右桜とは学年こそ違うものの校舎内の教室の配置なら近いと言えなくもない、互いに相手を朋友だと認識しているのかは微妙に明言できかねる距離感の知り合いでありつつ、たとえ確かに友人であったとしてもあまり親しくなりすぎるのもまた少しだけ憚られるような気もする同窓生、闇苅莞爾。
それから、薄暗くてよくは見えないが 天秤と剣とを手にする正義の女神像がプリントされたリュックを抱えて座っている女子が一名。山田昌世。
また、どういうデザインコンセプトなのか全く意味不明だが 確証は無いものの多分おそらく 『人類陣営にリプログラムされたターミネー○ー』のイメージだろうと思われるイラストが入ったサブバッグ、それを膝上へ載せて着席している女子がやはり一名。辰巳ナオミ。
(…いえ、なんでもないです。
それより、周りの迷惑になりますから声出さないで下さい です)
誤魔化しつつ、次は こっそりと少しだけ後席を窺ってみれば、
(んにゅ)
振り向こうとした矢先の頬に 誰かの人差し指が突き立った。
(…)
指を当てられたままの右桜に 後席から悪戯っぽく微笑みかけてきたのは、右桜にとって生意気としか形容しようがない後輩、伊予九経と北端亜紀絵の二人。
かたや その二人と並んで後列に座していながら、憮然とする右桜から直ちに素知らぬ素振りで視線を逸らしたのが、朝倉雫と畑山夏就、真里谷眩の三人。
一方 そんな様子に知らん振りこそしないものの、口を挟むにもタイミングがあるとでも思っているのか、取り敢えずはただただ生温い眼差しで成り行きを窺っているだけなのが、やはり右桜の後輩である 赤松円と榎木正儀、東藤謙綾の三人。
そして さらにそれを、児玉源音と坂上珠稀、今村双羽の三人が、もしも「こんなところ」で急にじゃれ合いでも始めて騒ぎ出すようなら流石に宥めに入ろうと、ただし 九経や亜紀絵たちではなく 右桜の方を宥めようとでも考えていそうな、ある意味 深く理解のある注意配分でもって見守っていた。
どうやら 今のところ、右桜の心情を慮ってくれそうな味方は、何やらちょっとだけ不穏な気配の変化に気付いて 前席から振り向き心配そうに右桜の機嫌へ注意している、右桜と同級ながら普段は何かと彼女を立ててくれている 半ば妹分のような友人、村国依 ただ一人だけらしい。
依と同じ前席の列に腰を下ろしている、鎮西了俊と山本六磯、カヤ・クロキンスカの三人に至っては、すぐ後ろで ほんのちょこっとだけ御機嫌斜めになりつつある右桜さんの佇まいになど、全く気がついてもいないようだ。
(遅蒔きながら 友人は選ぶべきだったって、改めて思い知ってるとこ?)
気軽な冗談を装った尊の問いに対し、右桜は 肯定とも解釈し得る沈黙をすら、応答の形式として与えはしなかった。
(後で皆に感想を聞けば済むとか思ってたから、私も気が緩んで 乙女の原風景な夢へ一時帰っちゃってたのかも知れません です)
(なるほど)
なるべく声を立てないようにしているので そう聞こえたわけではなかったが、尊が右桜に分かるよう首肯して見せてきた感触だけは伝わってくる気がする。
(サキが お父さまの伝手から試写会のチケットとかをたくさん分けてくれるのは いつものことだけど、今回はさすがに奮発しすぎじゃないかって思ってたとこだったから)
あるいは苦笑しているのかも知れなかったが、さすがにそこまでは気配は通じて来ない。
(チケットとかだけじゃなくて、スケジュールの組み方なんかもね。この2月中の冬休みをフルに費やして『今季チェックしておくべき新作群』なるものを梯子して鑑賞し倒すプランとか立てて来るんだもの。幾らなんでも疲れちゃって居眠りもしてたんじゃないかなとも思ってさ。
あ、勘違いしないでね? べつに皮肉とか言ってるんじゃないからね? 僕たちはチケットとか分けて貰って感謝こそすれ、無理に付き合わされてるなんて全然思ってないからね?)
(いえ。付き合ってくれて皆には感謝していますです)
今 漸くにして右桜は、此処でなら本来は注視しているべきだった、自席から前方へと目線を上げ戻す。
(…)
此処はシネマコンプレックス形態の映画館、今は或る新作映画の試写会の最中であり、前方のスクリーンには当然ながら 右桜たちが予定して鑑賞しに来たタイトルが満座の招待客の中で上映されている。
『──非風非幡、仁者心動。
取材する側であるマスコミの携えたカメラの方が揺れているだけだよ、被写体の人物の方が ふらつきを見せているわけじゃない。挙動にも、心中にも』
『これでは アイドルなんて愛玩犬と変わらないんじゃないですか? 当座の食と住については一方的であるにせよ宛がわれている反面、衣に関しては必要性も疑わしい装いを強要され、美容室どころか散歩へさえ自由には行けない。寄せられる愛情は与える側の都合次第で時として気紛れ。認めて貰える存在意義とは、適度にランダムなリアクションのみ要求されるばかりで それに極少々のハプニング性がオプションとして期待される程度。何より、生きものにとって最も重要な営みである 子孫を残すという願望すらも、自然のままに叶えようとする意思は許されない。
非難されるのを承知で敢えて言いましょうか。…それは、真に生きていると言えるのですか?』
『人間は永遠には生きないから、せめて次善か代替として、自分が此の世に存在した証を 強く刻み込んで遺そうとしたがるものなんじゃないの?』
『スキャンダル? 結構ですよ、寧ろ歓迎してやりましょうか。この世界では悪名は無名に勝るのですから』
『偶像どころか もはや虚像だ! 無数の人から誤解に基づいてのみ知られ 誰にも実像を知られないのなら、それは存在しなかったよりも以下の状態ではないのか』
(…)
現在 上映されている作品が何なのか、承知の上で鑑賞しに来た筈なのに、右桜は どうしてか、スクリーンの中での登場人物たちの遣り取りが、直ぐには 連続性のあるストーリーとして呑み込むことができなかった。
(…。
尊くん、…えっと、これ、何ていうタイトルの作品でしたっけ?)
(…)
予想に反して、尊からは全く 呆れたような溜息も 苦笑して吹き出す音も、何も返っては来なかった。
(ありふれたアイドルの ありきたりな遍歴を描く…ってスタンスで、何の変哲もない生き方の得難さ奥深さを逆理的に問い直すとかいうテーマを掲げている、女優業へ進出した薄幸系美少女モデル 最上今駒の初主演作品だよ。ただ、青春映画とか銘打ってるにしては 配役にベテラン陣が揃っていて、果たしてターゲットがティーン層なのやら微妙になってるけど。でも やっぱり、若い子だけじゃ却ってダメなんだろうね。タイトルは <それが挑戦でありさえするのなら> …だったかな)
尊が右桜に囁き声で概要を教えている間にも、映画は佳境へと差し掛かっている。
『──私は全ての人を裏切ったけど 裏切ってはいない。私は今や 本物の寄る辺を知っている。私がこの境地へ辿り着くためには これまでの錯誤を経験して来なくてはならなかった。私は今 孤独だけど、私の心は満たされている。
嘗ては灰色にしか見えていなかった この都会の雑踏が、今の私には ただひたすらに気高く見える──』
(…)
果たして自分は、答えを、わざわざ訊かないことには 終ぞ分からなかったものなのだろうか。教えられるまでもないと思っていたからこそ まともに見ていなかったのではなかったのだろうか。右桜は暫く、独りで自問を迫られていた。