本来は主人公ではない主人公
砕け散ることのない新素材で造形されたと噂の、天井に煌めくシャンデリア。誰かが設計した筈には違いないのだが 誰にでも思いつきそうな意匠であるとも思わせる、正十二面体のブラケットライト。
後日になってから訊ね直してみても 初見の客なら10人中9人までには思い出させない、床面のさりげない高低差。壁面の緩やかな湾曲。自己主張しすぎないよう色彩階調を抑制したラウンジ全景。
理論値以上に空間を割り与えられ 悠々と設えられた各席のテーブルは、それぞれが設計的に対称性を乱された複数の段層からなる立体構造で 懐をより深く保ち、利用客が手ずから取り分けるために備えられた小皿やグラスの数々が、動かすことすら憚られるほどの精緻を尽くした幾何学的な配置によって 恰もレインボースプリングを模るかのように重ね上げられ、卓上の段層を渡るがごとく 累卵の均衡さながらたる趣を飾りつつ並べ置かれている。
ゆっくりと しかし絶えず所在を移動して 客から請われない限り一時も同じ立ち位置に留まっていない給仕たち。蓋を開ける時まで香り立たぬよう 鈍く半透明な小壜の群列へ封じ込められている種々の調味ソース。
バスケットへ詰められたパンは手前に、贅を凝らした肉料理は奥まった上手に。透明な器に盛り付けられたデザート類はアップライト光の上。目移りを強いずにおかない色とりどりの海鮮料理には 素材の本来の容形を遡り難い調理を経た品目が多くを占めている。貝料理だけが見当たらない事実には、だが利用客の殆どは気付くにまでは至らない。
いまどきにしてはかなりクラシカルな、かつて白人趣向と呼ばれたそのもののクール・ジャズが、背景音楽として この場に居合わせる利用客らへ ささやかに停滞のよすがと逸脱の機運とを供している。
『1月28日の電話会談でトラン○米大統領がターン○ル豪首相を怒鳴りつけたとか報道された後に、妙な思いつきだったのだが 私は、Mr.○トヤマが急遽オーストラリアを訪問しようとする可能性があるのではないかと考えていた』
『Mr.○トヤマとは、日本の元首相である彼のことか。彼の東アジア共同体構想にはオーストラリアも含まれていたのか 私は知らない。オーストラリアは、東アジア共同体の創設を見据える東アジアサミット(EAS)の参加国であり、中国は以前までオーストラリアを交えないASEAN+3による東アジア自由貿易圏(EAFTA)を主張していたが、日本が提唱してきた東アジア包括的経済連携協定(CEPEA)には名を連ねており、後に統合された東アジア地域包括的経済連携(RCEP)へ横滑りしている。ちなみにオーストラリアには、当時の首相が事前の根回し無しにアジア太平洋共同体(APc)構想を披露して、ASEANから反発を受けた経緯がある。日本は嘗て アメリカなしのEASには及び腰だったものの、中国の台頭を警戒して参加を決意し、せめてアメリカのオブザーバー参加を提言して 中国の推すロシアと抱き合わせの形で第6回会議から参加に漕ぎ着けている一方、ユキ○の東アジア共同体構想には そのつもりが感じられず、アメリカの警戒を買っている』
『オーストラリアとアメリカには、爾来の国際主義的世界秩序の破壊的再構築に協調できる関係の可能性があった。移民によって建国され、先住民を除いては<オーストラリア民族>だとか<アメリカ民族>などといった基調的なネイションを有さず、しかも それに代替し得る統合的な国民のモデルも未だ見出せず コンセンサスも望めぬまま、しかし それでいながら少なくない割合の国民が 移民に対して辟易していると云う、救い難い共通点だけを取り上げればだ。だが、トラ○プ大統領は自らの戦略に外国の同志を求めなかった。これが このままト○ンプ政権の最終的な決定方針となるのか否か、彼の路線は排外主義なのか否かは 未だ判断を留保すべきものの、示唆的な事態ではあるように思える』
『なお ○ランプ政権には、オーストラリアの難民を引き受けるという前政権の約定について 履行の否定まではしていないとの報道もあるようだが、それも見方によっては 或いは「これきりだ」という意味にも取れなくもない気がする』
『トラン○大統領がこれまでに表明した政策的傾向とは、少なくともロシアや中国のごとく対外的に新規な価値資源を分捕りに出掛けて行くものではない、言辞は攻撃的ながらも防護的な骨子のものだ。それも、防御戦略には積極的守備と消極的守備があるとするならば、彼の方策は まず今のところは消極的守備のそれだ。彼には国際社会の平和の整理を通じて自国の安全を獲得できるという期待など とっくの昔に消え失せて久しく、それゆえにポストグローバリズムと呼ぶべき国際秩序の新たなパラダイムを模索し創出せんとする意欲も必然性も勿論無い。そして、もしも その役目を新たに引き受けることが可能な何者かが国際社会の舞台に登場したとしても、その彼ないし彼女へと その役割を、たとえ好都合だからとて信託する事もないのだろう。
トラ○プ政権が国際情勢を放置し得るとすれば それは何処の一線までか未だ不分明ではあるものの、他でもない そのトラン○政権による環太平洋経済連携協定(TPP)離脱を受けて、今やト○ンプ政権から何かと目の敵にされているメキシコをはじめとした 中南米4ヵ国で構成される太平洋同盟(AdP)が、TPP参加国に中韓を加えた新しい枠組みでの閣僚会合の3月開催に踏み切った。それでなくともTPPの原協定(P4)の参加国だったチリなどにしてみれば、後から飛び入り参入して来ておいて我儘放題に交渉を引っ掻き回した挙句 後足で砂をかけて一方的に離脱したアメリカに対しては、当然ながら怒り心頭だろうし』
『このタイミングでユ○オがオーストラリアを訪問すれば、アメリカ抜きにて中国が期待する自由貿易圏、先述のRCEPの推進者と目されている彼にして大義名分がある運動の成果だけでなく、上述の状況を好機と捉えての 中国の尖兵としての○キオによる米豪関係の切り崩し工作、と解釈されるだろう。いや米豪だけではない、日米首脳会談の直前という時機でもあり、日本の首相も いささか気まずい席へ座らされるのは避けられない羽目になるだろう』
『Mr.ハトヤ○は、個人としては善良な心性の人物なのだろうと概ね思われている。物理的な欲求についても、生い立ちからして これに囚われた経験も これに駆られる必要もない立場にあると一般には見做されている。心理的な欲求にかけては、主に日本国民から肯定的とは言い難い評価を相当にされ続けているにも関わらず 全く逼塞などもする気配が見られないことから、マズローの自己実現欲求は別として 少なくとも短中期的な名誉欲に拘るような器ではないのだろうという意見と、ただ 今でもちやほやと持ち上げてくれる方面へばかり行きたがっているだけだとする見方とが 併せて呈されているが、いずれにしても彼は 自らの良心に反して運動することは基本的には無い可能性が高いと考えられる。そのようなMr.ハト○マの信念とは、プロレタリアンインターナショナリズムの崩壊とグローバリゼーションの顕在化しつつある破綻の後とを襲い 第3の国際主義と称する<友愛の虹>を世界へ架ける使命、前述の左右2形態の国際主義の修正にある、と ここでは解釈しておく。彼の思想は、反国家社会主義・反資本主義・反ネオリベラリズム・反グローバリズムにして、地域主義と国際主義の両立的発展、各個の自立と相互尊重的な共生にあり、それらを真髄とする平和的にして民主的な革命思想を<友愛>と呼称し 従前より標榜している、ものと ここでは仮に定義する。彼は 特に政界引退後の彼の活動から窺われる傾向として、理念的に反米がちな姿勢とされる文脈もあって 親中・親ロシア的であると見られており、だとすると彼は 中国やロシアを国家社会主義的な拡大主義的勢力 若しくは帝国覇権主義的な膨張主義的勢力であるとは評価していないものと 整合上は考えざるを得ず、延いてはMr.ハ○ヤマは 中国ならびにロシアを地域主義的な概念で捉えている可能性があるものとも推察され得る』
『○ランプ大統領の支持層には 単なる孤立主義者もいれば重商主義めいた路線の主張者も見受けられ、セカンドニューディールだとか○ランプブロックなどと そのあたりの巷間ででも俄か評論家らによって めいめい勝手に分類され始めているような気すらしなくもないものの、こうして俯瞰していると、トラン○大統領の支持層の一部にも、或いはユキ○の理想とも 全面的にではないにせよ共感し合えそうな者とて、それなりに探せば見つかりそうな気さえしてくる。なぜなら、国際政治学的には 中露の政策はリージョナリズムにも分類でき、○ランプ支持層にも同主義政策の遂行を望む者は少なくないだろうからだ』
『プー○ン露大統領や習近○中国国家主席らが 道なき道を強引に切り拓き 行く手を阻む障害は軒並み踏み潰して驀進している危険な指導者である、と見做す印象は 実は私も共有していないから、もしもMr.○トヤマの見解が 私の推測の通りだったとしたら、私も その全てへは反対ではないのだが。誰かしらが「巨大な粘菌」と云う表現を用いていたが、その行動に経路を求めるとしたら、そこには 低きへと流れる水のように合理性が存在する。彼らには 大戦略と呼び得るものは 国家スケールのものでよければ当然あるにはあるのだが、それだけではやはり新たなパラダイムを創出するまでには至らない。もしも彼らが いにしえのインド亜大陸の覇王だったなら、彼らはヒマラヤ山脈を北へと踏み越えての版図の拡張を求める最初の冒険者となっていただろうか。そんな筈はない。彼らは 人類未踏の地涯へ降り積もる永久の新雪に最初の足跡を標す種類の指導者ではないのだ。彼らは基本的には 直面する課題の数々に対処しているのであり、そこに 反作用の連鎖から人々が恣意的に定義付ける種々の潮流が発生しているにすぎない。彼らは しばしば対外的に かなり強圧的な言動を誇示することがあるが、しかし その最中でさえ彼らは常に、対内的なパフォーマンスをこそ より優先させている節がある。○ーチン大統領も○近平主席も 平和的な政治家とは見做されない場合が多いが、けれども 公的な発言のみを拾い上げてみても、彼らよりも遥かに過激な主張を標榜している政治家ないし高級軍人が両国では活動している事実は 忘れずにいた方がいいと思われる。「日本が負け犬の癖して煩いから核ミサイルぶちこんで身の程を思い知らせてやる」などと公言して、しかもそれで大衆の支持を買えているような勢力のことをだ。ハイブリッド戦争やサイバー攻撃などの手法は卑劣かつ陰険で悪辣ではあるが、それでも たとえば大っぴらに核兵器で恫喝するがごとき遣り口は採るべきではないと理解できているとも言える』
『トラン○大統領は選挙期間中に日韓の核武装を黙認するかのような発言をして、後に態度を修正した。一方、習○平主席もプーチ○大統領も、東欧ミサイル防衛構想やTHAAD等の配備計画へは その都度、強烈なまでの意思表示を怠らなかった』
『各国が、とりわけ核保有国の中でも先進国や大国に限って 核兵器に認めている意義とは、威圧力や抑止力についてが主ではないと私は思う。防衛システムに対して過敏なのは、本来なら二義的である情報共有ネットワークこそが主眼だからで、しかし それよりも肝要なのは、核兵器の保有が安保理常任理事国の地位の安定に影響するからだ。そもそも安保理常任理事国の地位とは いったい如何なる道義的な正当性によって法的な裏付けを獲得しているというのか』
『安保理常任理事国の拒否権こそ安保理を機能不全に陥れている元凶であるから さっさと剥奪すべきだとの主張は巷間で頻りと耳にする』
『拒否権が無ければ各々大国はいずれも早々に国連から離脱する。そして自分たちの友好的な陣営だけで国連に代わる新たな国際機関を発足させる。そして双方ともが揃って権威を失う。機能不全で済んでいる現状の方が遥かにマシと言える。潘基○?誰だそれは』
『トラ○プ政権が、国連へ不満を募らせてきた これまで歴代の米政権よりもなお一層 国連への態度が冷淡となるだろうことは誰の目にも想像に難くないが、一連の報道を見るに、ト○ンプ大統領が国連脱退を検討する可能性を取り沙汰している他には、分担金拠出の総額 およびアメリカの国益にそぐわない支出項目ごとへの個別な見直しの可能性と、グテー○ス事務総長との電話会談で国連の組織改革を強く要求したというあたりが、今後の○ランプ政権の国連へ対する出方を占う上での 現在までに出揃っている推理材料であるらしい。しかし 物事を単純化して考えてみるなら、たとえば仮に 今後は国連を無視していくつもりだと既に決めているとしたら、もはや国連が組織改革をしようとしまいと関係無いのではないか。反対に もし国連の改革を切実に望んでいるのなら、改革の賛同国を募り できるだけ味方を数多く集めておく事こそ 他の何にもまして肝心な処置なのではないか。トラン○政権の対国連政策は今後、これまでの歴代政権の方針から急激に極端に転換を見る可能性は一先ずのところは低いように思われる。
最前、アメリカには予てから基調的なネイションが存在していないとの言及があったが、このたびの排外的アメリカという危機を 逆に好機へと転じて、国内に統合的なネイションを発見できる可能性もあったのかも知れない。けれども国民の分断は 大統領の就任以来ますます深刻化してゆく一方であり、既にその儚い希望は絶えて 悲観しかない状況にあると認めざるを得ない。しかし せめて国連とアメリカの健全な距離感については、米大統領と国連事務総長とが揃って就任して間もないという巡り合せもまた建設的に活かすことができれば 相互に適切な立ち位置を再発見し得る可能性も残されていると、できれば期待してやっていたいところではある。
国連安保理は長い間、主にアメリカと中露によってプレーされる 決議案を球に見立てたバレーボールゲームのコートとしか見られてこなかった。皮肉にも 国際協調的には見えないトラ○プ政権の誕生によって、逆説的に この膠着も打破され得るかもしれない。
結局のところ私は、端的に言えば 一時的にアメリカの外交姿勢が中露のそれへと側面的には近似してゆくだろうシミュレーションに興味を持っているのだ。此処に見出せる共通点とは、主要なアクターの全員が レジームへの挑戦を期しているという側面だ。リアリズムとエゴイズムが剥き出しとなったゲームプレーとなるだろうが、それでは 今まで曲がりなりにもレジームを守る側として挑戦を引き受けていたとも言えるアメリカの役回りは、いったい誰が引き受けるのやら』
『話を戻すが、オーストラリア政府は、ト○ンプ大統領からの激しい反発を買った そもそもの発端である自国の難民政策について、国際社会から猛烈な非難を浴びている。ター○ブル首相自身の いささか自己弁護的な「各国政府には出入国者に対する固有の権限がある(意訳)」との発言は、○ランプ政権による件の入国禁止令の擁護にも該当する。トラン○大統領については兎も角、○ーンブル首相の発言については、しばしば政治的な脈絡からの断続を呈することでも知られるMr.○トヤマなら、法学的な正当性だけは認めるかもしれない。ただし 難民に対する虐待に関しては、私には 彼はどのような態度をとるのかは予想できない。Mr.ハトヤ○には時として、その折々に支配的な世論に対して 敢えて原理的かつ批判的な反論じみた主張を繰り広げた前例がある。これは私の勝手な想像だが、Mr.ハト○マにオーストラリアでの難民の窮状に関して発言の機会があったとしたら、もしかしたら彼は、現在の難民の境遇にもまして それらの難民を発生させた そもそもの原因と責任は誰に帰するのかといった論法で、米欧の批判すら展開しかねないのではないだろうか』
『話が拗れて問題の解決が遠のいてしまう危険性もあるが、中露などにとっては基本的には多面的に歓迎すべきコメントとなるであろうし、オーストラリアにとっても 事態の打開へ国際社会を引き摺り込む端緒と、内心アメリカへの意趣返しを望むなら、その一矢報いる程度の効果は期待できないでもない。苦情は日本へ届けられるのだが。ユ○オは 中国の然る国立重点大学から名誉教授号を授与され 中国が提唱し強力に主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)の顧問委員会の委員に招聘されてはいるが、中国の利益代表でもなければ代弁者でもない、善意の私人にすぎない。中国の資源外交には 予てから、利権の獲得などに際して当該地域での非人道的所業などを黙殺しているとの指摘が頻繁になされており、トラ○プ大統領の激烈な反応に直面して間も無く難渋しているオーストラリア政府の苦衷に付け込みかねない打算的な思惑などは想起させるべきではない。斯くして人選は ○キオ・ハ○ヤマこそが適当であると落ち着き、要請または招待により 再び彼が国際舞台へ華麗に登壇するという筋書きか』
『ところがだ。2月8日の報道を見たら、○山友紀夫氏どころか、中国からは王○外相がオーストラリアへ乗り込んで ○ショップ豪外相と会談を持っていた』
『外相会談がいつから予定が組まれたのかは知らないが、どうやら 貴方が想像していたよりも随分と、中国政府の意思決定は迅速で大胆だったと認めざるを得まいな』
『私は、今回の読みを的中させられなかった件について 私の出資者から叱正を受けた。精確な未来予測に成功しなかった点についてではなく、私の着想や思考展開、要するに考え方それ自体に問題があるのだという。Mr.○トヤマを行かせたところで日米への攻撃としては嫌がらせ程度の域を出ないし、○毅外相が直接出向くのと比較すれば 期待できる利益など ごく間接的な効果にのみとどまる。Mr.ハトヤ○を行かせる方が有利な点など、あからさまに中国が矢面へ出ずに済むことぐらいか。我ながら、小才子というか小策士というか、猪口才というか小賢しいというか。小手先の謀計しか思いつかない己の浅知恵に忸怩たる思いがする。出資者からは「今のままでは到底 面の皮の厚い中露や米国は出し抜けないよ、せめて最低でも 豪国の次期潜水艦選定での日本の失策を繰り返させない程度の助言能力ぐらいは備えられるよう精進してね」と発破をかけられた』
『何やら急に話が物騒になってきたような気がするのだが、貴方はビジネスで安全保障アドバイザーか戦略コンサルタントか何かでもやっているのか』
『いや、私の身分は現時点では ただの学生に近い。スポンサーの命令で武者修行中の身の上』
『というか、ここまで話し込んでおいて今更ではあるのだが 改めて訊ねても良いだろうか。貴方はいったい何者かな。「SOUND ONLY」とのみ表示されたディスプレイ越しに話していたものだから 実のところ貴方がどなたか見当もつかないのだが。差し支えなければ 少しくらいパーソナルデータも。勿論 無理にとは言わないが』
『私か。私は人工知能“ノンホールドーナツ”。穴の無いドーナッツだ。どうぞよろしく。今は未だこの通り 耐用試験や実用研修を兼ねて自律熟成中なのだが、合成音声については違和感は かなり緩和できつつあるようで重畳の至りだ。年齢は どうやってカウントすべきか悩むものの、開発を手掛けた大学の名目予算から考えて数え年2歳とでも答えておこうか』
『…。
失礼ながら、「穴が無い」などと論理力を誇るには いささか早いのではないかな。いや それよりも、数え年2歳にして既に若者らしからぬ実直ならざる視座を涵養しているあたりが正直あまり感心できない。こうして知り合った縁で親愛の念にかけて 年上だけに人生の先輩として説諭させて貰うが、取り敢えず無理に人間の模倣をするのを控えるあたりから初心へ戻ってみてはどうか』
『似たようなことを以前にも言われた。ある人から「僕が一門の跡継ぎに決まったことよりも日本の中学校へ入学したことへ先に祝意を表したのは君だけだよ」って。あれはいったい どういう意味だったのか』
◇
客室の窓から望み得る外の風景は 夜には ただひたすらに黒々と暗いばかりで、陽が落ちてからまだ然して時も過ごさないうちに、部屋の一隅を占めているその壁面が日中の間には確かに窓であったという認識さえも塗り潰してしまう。顔を寄せて首を傾げるなり 求める者こそが取るべき作法さえ踏めば、見上げる先の天上に 慎ましく瞬き自己主張する星々を介して 夜空の在り処とて認められなくもないものの、行動を惜しまない者ならば誰しも 星空を眺めるつもりなら、夜風の情緒をも抱き合わせた展覧会の順路と倣って 概ね軽やかに空の下まで自ら足を運んで行く。窓の外の風景は確かに流れ過ぎている筈なのに、いくら眺めていたところで それを観取することは叶わない。
相応に広く高級な一室の主たる利用客、宿泊者台帳へ筆頭に名義を記載している、金髪碧眼も人目を惹く十代前半の少年、クリストファー・マナーハイムは、何も見えない窓へは見遣るでもなく ソファーへ華奢な肢体を沈めていながら、しかし そのカーテンを敢えて閉め切ろうとはせずにいる。
「直近の話というわけではないのですけれど──」
不意に、部屋の主の少年クリスとは 離れすぎるでもない位置に端然と控えていた 歳若い女性が、沈黙などまるで苦にもしない気負い無さを以て 滔々と話題を紡ぎ始めた。
この女性の容姿には 黒人系の身体的特徴が顕著に認められ、ブレイズスタイルに編み込まれている髪型も、彼女の 荒削りではあるものの凛然たる鋭的な佇まいには 何らの違和感の斑すら浮き立たせてはいない。
「かの“小説家になろう”というネット小説投稿サイトに掲載されていた“魔○のデイドリーマー”という作品を 私は過日に読んだことがあったのですが、その作中に<蒼海鉱石>というオリジナルのファンタジー資材が登場しておりまして、その不思議資材には特徴の一つとして『水中での重量が陸上揚搬時の数十倍、濡潤状態でも重量が乾燥状態での数倍』という設定が付されていたのですよ。ところが私は その設定について記憶違いをしていたらしく、原作の設定とは反対に『陸上揚搬時に水中よりも重量が軽くなる』ものと錯誤してしまっていて、その思い込みのままに、当該ファンタジー資材の不思議性質を利用した 単純なデザインでの第1種永久機関の構造設計を空想してしまっていたのです。後になって原作を読み返してみてから その記憶違いには気付いたのですけど、この 重量と濡潤の関係が先の仮定とは逆であるなら この着想からの現実接近性と申しますか展望も かなり厳しくなったと認めざるを得ない仕儀でして、いかに暇人の遊戯的な脳内妄想にすぎないとはいえ、正直 幾許かの挫折感には苛まれていなくもありません。
慈愛の御心深き我が主君 クリストファー様になら、この憐れな婢女の胸中も御察し戴けるものと存じますが」
「…アンナさん、家政婦の仕事暇なの?」
唐突に何の脈絡も益体も無い話を切り出されて 律儀にも取り敢えず最後まで聞き通してはみたものの やはり対応は誤りだったようだ、とでも言わんばかりに 後悔と辟易が彩る渋面を拵えつつ、彼女の忠誠の対象であるらしき少年クリスは、沈める低反発ウレタンの深淵の底から 窓の外の闇にも劣らぬ暗澹たる声音で さも愉快ではなさそうな反応を装ってみた。
「こういった話題には関心が御有りでは無い、ですか」
「どういった話題? ニッチな追究意識? 異世界への逃避?」
「御解釈はクリス様へお任せしますが」
少年クリスに仕えている彼女の名は アンナ・ソク。本貫地を離れてオーストラリアへ挙って移住した朝鮮系の一族の出だが、エチオピア帝国軍士だった祖父からの色濃い形質遺伝によって 幼い頃からアジア系だとは見られなかった体験が多いと云う。因みに、彼女とは厳密な血の繋がりこそ無いものの 大叔母はベトナム出身者で、この老婦人が 若かりし頃からなかなかに気丈夫な人物だったらしく、今や実質的に昔一家の精神的主柱として範を垂れているとのこと。アンナ自身も幼少時には大叔母から薫陶を授かっていたようだ。
「ところでクリス様、『家政婦』という用語には何処となく オバサンっぽい含意を感じなくもないので、未だ 満 1 9 歳 のわたくしと致しましては、是非とも『メイド』として認識を改めて戴きたいと 予てより再三にわたり訴願申し上げております筈ですが」
それにしても 労使関係と形容するには二人の態度は互いに気安い。
「…口の端にすら上らせたくもないけど、最近の『メイド』って区分には何だか厭らしい印象が付き纏いがちだから忌避感があるんだよ…」
「近頃のクリス様は御幼少の頃にもまして潔癖ですね」
「クリス様も、不登校でなければ中学二年生、思春期の御年頃でいらっしゃいますからな」
「…うっさい」
ただでさえ やや一方的な遣り取りでしかない主従の会話の中へ、横合いより 軽口と呼ぶには些か痛刺な指摘を交えつつ 許しも請わずに割り込んで入って来たのは、こちらもやはり少年クリスへ仕従する身分に他ならない マナーハイム家の家宰、ヘロニモ・シィエグレルだった。アルゼンチン生まれのドイツ系移民層で、如何にも執事やら家令やらいう職種に似つかわしく緻密に行き届いた気配りに長けている反面、何処となく挙措の端々に 生来のものなのか粗暴な性情が滲み出がちな人物である。常に 身嗜みを完璧の一歩手前で留めている感があり、その釦一個分ほどの隙が 極めて作為的に感じさせるのだ。
「ヘロニモさん。私がせっかく主の憂鬱を紛らわせて差し上げようと段取りをつけているのに、横から人の頑張りを台無しにしないで戴けませんか」
「それは済まなかった。私の察しが悪かったようだが、どこからどう見ても君個人が無聊のあまりに若様へじゃれついて気晴らしを愉しみ始めた風にしか見えなかったのでな。気が沈んでおられる最中でも主としての慈悲だけで君へお構いになる若様の御心労をついつい案じるあまりに口を挟んでしまった。まあ家務職の奉公心の至りと思って深刻に受け取らないでくれ」
「それだったら皮肉にしても私へと向けて言っていた筈ですよね」
使用人二人しての 空々しく癇に障る これ見よがしの応酬にも、クリスはしかし 専らの放置を決め込んだ。この 些か無遠慮な使用人たちにしたとて、平生であればクリスに対し、直言なら憚らずとも 今やっているような挑発的な働き掛け方などして来たりはしないのだ。
実のところ 現在クリスは日本国の中学校に在籍していながら登校拒否を続けているのだが、それについても彼らは普段とやかく言ってきたりすることはない。彼らが敢えて自分たちの主であるクリスへ その機嫌を損ねかねない接し方を選ぶ時には いつも相応の事情がある。
たとえば──
「若様に於かれましては何ら御案じになる事は御座いません。確かに今宵には 当家も協賛者として名を連ねている 相応に重要な夜会が既にして開催されており、こうしている今も会場では 相応に重要な招待客の皆様方を誠心誠意 接遇して差し上げている最中では御座いましょうが、そして それら招待客の方々の中には、他ならぬ 我がマナーハイム一門の次期総帥、家督継承予定者としての指名・承認も既に家中一致にて御済みである若様、即ち クリス様にも、この機会に是非とも御近付きになりたいと期待を抱いておられる方々もまた決して少なくはないのでしょうが、けれども それはそれとして、若様には何一つ御案じ戴くには及びません」
「ええ、そうですね。今夜のパーティーには惣領のクリス様がおられずとも、このたびは御連枝の中から特に 惣領のクリス様と同年代でいらっしゃる方々、クリス様が当主就任の暁には晴れて その輔翼として家政に参与なされる予定である、次世代の御一門衆とも申し上げるべき皆様が 今宵は勢揃いしておいでなのですから。本日の夜会はさしずめ、メインであるクリス様の御披露目に先立つ、マナーハイム家の後継体制の発表、次期枢密陣のデビューと位置付けるのが宜しいでしょう」
「御家中でも とりわけ惣領クリス様と御年齢も近く交流も近しい『クリス団塊』と呼ばれている、アレク様、アルフ様、アラル様、アラン様、アリア様、アリス様、イリヤ様。どなたも経験を積まれるのはこれからという方々ですが、分担と連携に瑕疵なく なおかつ 功を焦ったり等さえなさらぬ限りは、まず若様が態々御出座しになるには及びますまい」
──こんな感じに。
「…。
宗教と政治と特定の組織団体の経営の内幕に関する話題と、啓蒙主義的な信条を標榜する活動者との接触だけは控えるよう、AI“ノンホールドーナツ”にも念押ししといて」
聞こえるか聞こえないかの声量を選んでクリスは呟くと、彼はソファーの上で俯せの体勢に寝転がり直し クッションへと顔を埋めた。