7/15
記憶
風に揺れるカーテンが。
テーブルの上に置き去りにされた黒縁の眼鏡。
痛いぐらいの西日。
甘いシチューの匂い。
悲しいぐらいに、覚えているのに。
初めに消えたのは声だった。
どんなに思いだそうとしても、その声の低さや甘さが、今は思いだせない。
なんて薄情な女だろうと、どれだけ自分を責めただろう。
声の次に色が消えて、あの日のシチューの味も忘れた。
ただ匂いだけ。
シチューの甘い匂い。
首筋に鼻を埋めた時の懐かしい匂い。
手首を切った痛みや、拳にめり込んだガラスの痛みは忘れるのに。
匂いだけが、いつまでたっても残っている。
いつか胸に感じる痛みにも鈍くなり、悲しくない朝を迎える日が来るとしても、その匂いだけは憶えている。