書きなぐり
千草の日曜日は、いつも同じサイクルで回っている。
朝の内に溜まった洗濯物をやっつけ、午後からは自転車に乗って近所にある図書館へと向かう。
唯一の趣味といっても過言ではない読書だが、一人暮らしの家計と六畳一間のアパートを考えれば、読みたい本を好きに購入するというのはあまり現実的ではなかった。そんな千草にとって、無料で利用できる地域の図書館はなくてはならない存在だ。
緩やかな坂道を下ると、道沿いの私邸に金木犀が咲いていた。可愛らしい花と甘い香りに、いつの間にか秋が来ていたと知る。空調が効いたオフィスで一年中カーディガンを羽織って生活している千草にとって、四季というのは気づけばいつの間にか巡っているという程度の存在に過ぎない。
その時だった。金木犀の向こう、古びた煉瓦造りの洋館から、背の小さな老婆が出てくる。
彼女は千草に気づくと、にっこりと笑って小さな会釈をくれた。
けれど千草は、なぜかその笑顔にぎくりとしていた。
気づけば一目散に、彼女はその場から逃げ出していた。
はあはあと、息が乱れる。どうして自分が逃げたのか。優しそうな老婆の何が恐ろしかったというのか。冷静になってみれば、自分で自分にあきれるより他ない。
でも、と千草は言い訳をする。誰に対するでもなく、自分に。
職場の人間関係は無味乾燥で、堅実に結婚したり就職したりした友人達とは疎遠になりつつあった。
だから、表情が固まって自然に微笑み返すことができなかったのだ。そんな自分に気づいた瞬間、激しい動揺や惨めさが胸の中に溢れてきた。
いつの間に、こんな寂しい人生を選び取っていたのだろう。時折そう思うことがある。
短大を卒業して千草が手に入れたのは、派遣社員というなんとも不安定な地位だ。収入はアルバイトより少し多い程度で、決して多くない。
しかし、地元に帰ろうとは思わなかった。新しい父と再婚した母の生活に、水を差したくなかったのだ。だから多分、自分はもう故郷で暮らすことはないのだろうと、千草は思っている。
なんだか気がそがれてしまって、その日は図書館に向かわずスーパーで買い物をして帰った。
次の日曜日、千草はある決心をしていた。
それは、もし今日もあの老婆に会うことができたら、今日こそは自分から挨拶をしようということだった。そして覚えているとは思えないが、先週突然走り去ったことを詫びよう、と。
他人からみれば大したことではないのかもしれないが、この一週間千草はそのことばかりを考えていた。
だって、忘れようとしても心がささやくのだ。
“自分はこんな人間じゃない。このままそんな乾いた人間にはなりたくない”と。
朝から張り切って終えた洗濯物を横目に、今日こそはと意気込んで部屋を出る。
外に出てみると、洗濯物を干した時よりも空に雲が増えていた。曇りの一歩手前といったところか。一瞬干しっぱなしの洗濯物を置いて行くことに抵抗を感じたが、それよりも老婆に挨拶をするという決意が千草の背中を押した。
自転車を漕ぎ出すと、古くて狭いアパートはみるみる遠ざかっていった。頬を切る風は少しだけ湿気を含んでいたが、それでも千草は引き返そうとは思わなかった。
やがて、例の洋館がある閑静な住宅地に差し掛かる。
千草は長い坂を上り終え、今度は緩やかな傾斜をゆっくりと下った。
するとすぐに、あの金木犀が視界に入ってくる。オレンジ色の小さな花が、以前よりも道側に落ちていた。甘い香りはより一層強く、千草は知らずハンドルをぎゅっと握り締めていた。
しかし、老婆を探そうと自転車のスピードを緩めた瞬間、千草はあることに気がついた。
金木犀に埋もれてしまいそうなほどすぐ近く。塀の向こう側に一人の男が立っていたのだ。
休日だというのに、彼は一部の隙もないスーツ姿だった。イタリア製なのか、よく目にする量産品と違ってそのスーツは体にピッタリとフィットしている。小脇に抱えられたジャケットと、ピンと伸びた背筋を強調するジレ。
そして金木犀越しに見るその顔は、鼻筋の通った白皙の美貌だった。
千草の心臓が早鐘を打つ。
それは彼の美しさに対してではない。
“洋館の老婆に挨拶をしよう!”と意気込んで来たのに、実際にいたのが見たこともないような美しい男だったからだ。
そして彼の表情もまた、千草を動揺させた。
間近にある金木犀を見ているはずなのに、彼の目はどこか遠くを見ていた。そしてその顔は、なぜかひどく悲しげだった。
どうしてなのかその悲しみの理由を知りたかったが、優しげな老婆にさえ挨拶もできない小心者の千草である。見ず知らずの男性に声をかけるなんてできるはずもない。
(今日は諦めよう)
そう思って、ペダルに力をこめようとしたその時だった。
千種の口からは、自分でも思ってもみなかった言葉が飛び出した。
「あ、あの! 何かあったんですか?」
その声は震えていた。男性が驚いたように千草を凝視する。
(あ、この人の目、すごく綺麗な青色だ)
自分の中の混乱から目をそらすように、千草はそんなことを考えていた。