セカンドライフ
川のせせらぎを聴いているような錯覚を覚えた。目を閉じれば、宙に浮く。手を伸ばせば、光に届く。現実にはありえないことも、その時ばかりは、まぁ信じてもいい心地になった。
「土曜の晩、何をしていましたか?」。
そんなことを聴いてきたのは、会社の後輩だった。
「土曜?そうだなぁ、飯でも食ってたんじゃないかな」。
「覚えていないんですか?」。
はて、俺は土曜何をしていたっけ。
「そう、ですか・・・」。
後輩はそう言うと、早々に自分のデスクへと戻っていった。
真面目な話、俺には土曜の記憶がなかった。正確に言えば、それ以降の記憶がなかった。会社に出勤しているわけでもなければ、彼女とデートしていたわけでもない。では、俺は一体何をしていたのだ・・・。
目の前に山のように積まれた資料が、こちらを睨んでるようではあったが、目もくれてやらない。同僚の言葉でさえ、風の音よりも儚い。全く仕事に手が付かなくかった。完全に上の空といった感じ。そんな俺の異変に気づいた上司が歩み寄る。
「お前、今日はもう帰れ・・・」。
はい、そうします。それだけ言い、上着を羽織った。
土曜の晩、土曜の晩・・・。
帰路についても、俺はそのことばかりを考えていた。手帳を探しても、友人に電話をかけても、その記憶の一片すら掴むことは出来なかった。
くそう、俺は何も思い出せない・・・。
「どうされましたか?」。
そう訊ねてきたのは、警察官だった。橋の上で座り込む俺を不審に思ったのだろう。
「記憶が・・・」。
などと、変質者丸出しな回答をしてしまった俺に、警察官は怪訝な表情をする。
「記憶、ですか」。
「はい、記憶です。どこかに落ちていませんでしたか?交番に届けられてたりしませんよね?そんなバカな話、あるわけないですよねぇ」。
完全に開き直ってしまった俺に、警察官は「こいつは危険人物だ」と言った感じに、身構え、懐にしまってあるであろう手錠に手をかける。
ああ、警察に連行されるんだろうか。手錠をかけられ、回りには数台の取材カメラ。「悪魔の子だ!」「この人殺し!」などと罵声を浴びせられ、俺は世間に後ろめたい気持ちでパトカーに乗り込むのだ。まぁ俺は、何もしてないけれど・・・。その後は尋問が待っている。さっさと自供して、カツ丼を食べるのも、悪くはないな。
「俺がやりました」。
あのう・・・。。
「それで、犯行動機は何だ」。
もしかして、これあなたのじゃないですか?
「父の恨みです。あいつが俺の親父を殺したんです!あいつは生きてちゃいけない人間だったんです!・・・」。
もしもーし。
「だからってな、殺していいわけじゃないんだぞ」。
聴こえてますかー?
「分かっています。でも・・・」
川原に落ちていましたよ?聞いてます?
「そうか・・・。色々と事情があったんだろう。まぁ落ち着いた後にでも、説明してくれや。おい、太田。カツ丼持ってきてやれ」。
私としても、何であんな所にこれが落ちてたのか分からないんですが・・・。
「すみません、すみません・・・」。
「はい、どうぞ」。
・・・。
「え、あ、あ!な、何ですか、これは?」。慌てふためく俺に、警察官は呟く。
「さぁ・・・。何でしょうね」。
全く身に覚えのない箱を手渡され、俺は少々、いや、大いにこの警察官のことを怪しんだ。
「あなた、何者ですか?」。警察官が口を開く。
「見ての通り、ただの警察官ですよ」。
不気味であったが、そのニコリと笑う表情に、俺は思わず吹き出しそうになる。
「どうしましたか?」。
「いや、だってあなた可笑しいから。それと、これは俺のじゃないですよ」。
「そりゃそうでしょうね。だって、これ、僕のですから」。
「あなたは本当に、よく分からない人だ」。俺は苦笑する。
「そういうあなたも、さっき一人で笑ってた時は不気味でしたよ?」
「お互い様ですね」。
「そうです。お互い様です」。
その後、俺達は数分の間だが話をし、警察官は「いやぁ、橋の下でうずくまってるものだから、てっきり自殺志願者かと思いましたよ」と、俺に話しかけた理由を説明してくれ、最後に「自分の働いてる交番は、そこね。暇だったら、遊びにきてよ」と言い、闇へ消えていった。
警察官がいなくなったことを確認し、俺は靴を脱ぎ、橋の欄干へ飛び乗った。
「そういえば、土曜の晩、俺はここで自殺したんだった・・・」。
社会に対して不満を抱いていた。それが理由だ。
必死に働いても会社は認めてやくれない。なんとか出世しようと思い、努力はしてみたが、可愛がられるのは媚を売るのが上手い後輩や、お茶と笑顔が得意な女だけ。
例えば友人。こっちが上手いこといってると、それにすぐ乗っかるようにしてくるが、少しでも分が悪くなると「ちょっと俺、用事があるから」と、すぐに姿を眩ます。
例えば恋人。プレゼントをあげる時には最高の笑顔を見せるくせして、いざと言う時には姿すら見せない。
例えば家族。例えば同僚。例えば電車。例えば風呂。例えば・・・。
「ああ、もう考えるな!」。
記憶がないのも当然で、俺はきっちり世界のレールから外れていた。今朝の同僚の質問の意味にも予想がつく。新聞か何かで、俺の顔を見たんだろう。
死にきれなかったんだろうか、俺は。下を覗く。
「うっわ・・・。たけぇ・・・」。
我ながら、よく飛べたもんだ。二度目の景色に、びびる俺。
「この高さで頭から落ちたら、やっぱり死ぬよな。いや、凍死か溺死で死ぬのかな」。
どちらにせよ、もう死んでいる。
俺はそこで深呼吸をする。川のせせらぎが、やけに耳に響く。上から見下ろすだけで、昇天しそうだ。
「落ちたら痛いんだろうか」。
「いや、俺は死んでいるし」。
「でも、今ここにいるし」。
「どうだろう、ちょっと飛んでみるか?」。
「やめとけ、やめとけ。落ちたら死ぬぞ?」
「そ、そうだよな。やめといた方がいいよな」。
「そうさ、消えるまでの間、もうしばらくこの世を楽しもうじゃないか」。
「でもさ!・・・」。
「いやいや・・・」。
「・・・」。
・・・。
・・・。
・・・。
それから数ヵ月後、会社は新商品の開発あってか、東証2部上場という快挙を成す。それに携わった俺の同僚や後輩は、今まで上司だった人間を顎でつかっていた。俺の彼女だった人は、先月結婚したらしく、それも俺と付き合ってたはずの時期にはもう妊娠していたらしい。笑える話だ。
肝心の俺はというと、まだ会社で働いていた。同僚達の目が、やけに気になるが、それもまぁ、あと数日のこと。
「死にたい、消えたい、いなくなりたい」と、願ってたはずの俺だが、やはりというか世界は厳しい。なかなか、そうさせてはくれない。もし、この世に神様たるものが存在するならば、かなりの嫌味なオヤジに違いない。「じゃあ、もう一度飛んでみたら?」と、意地の悪い人間は言うかもしれないが、それは間違った指図である。俺にその勇気などはなく、考えてすらいない。
生きていた頃と、何かが違う。正確に言えば、そう見えるだけなんだろう。あんなに嫌だった会社が、悪くもない。嫌味ばかり言ってきたあの課長も、今となっては可愛らしく見えるんだから、変な話だ。
仕事を終え、帰る旨をもとは後輩だった課長に告げ、俺はコートを羽織った。
「もう帰るんですか?」と新課長が尋ねるもんだから、俺はニコリと笑ってやった。
「俺も早く帰って、酒でも飲みにいきたいなぁ」と元課長が呟くから、答えてやった。
「どうです?今夜一杯」。
読んでくださり、誠に感謝いたします。もしよろしければ、参考までにメッセージやら評価などをしてくださると幸いです。次回作への励みになります。
それでは、今回はこの辺で。