メメント・モリー
光すらも飲み込まれ、けして出ることの出来ない漆黒の世界、人々はそれを暗黒の洞穴と呼ぶ。ブラックホールの中は重力が極端に強く、時間すらも歪む。その歪みは、光速を以てしても超えられない大きさで、故にその巨大な穴は何よりも黒い漆黒を称えているのだ。全ての物が引き延ばされ、そして吸収される世界は、吸収を重ねるごとに肥大化する。全てを飲み込まんとするように…。
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「目標視認。エンジン逆噴射し、減速します」
慣性が働く艦内で、不安定な重心をベルトによって固定する。目標となるブラックホール、かつて天王星と呼ばれたそれが、小さくではあるが視認出来る距離まで接近したようだ。ここから先はタイミングと距離感の勝負である。
今回の私たちの任務は、肥大化し過ぎたブラックホールを消滅させること。反物質と衝突させることで、ブラックホールの小規模化が可能になるのだ。その際、質量が極端に小さくなったブラックホールが大爆発を起こす可能性、さらに対消滅による強大なエネルギーを考えると、今の距離であってもこの艦に加わる衝撃は、200万メガトンは下らないだろう。増幅に増幅を重ねたエネルギーは、まず対消滅の第一波、そして爆発の起こすエネルギーの第二波に別れてこの艦に襲い来るはずである。我々の計画は、第一波の衝撃を利用した急加速によって、第二波から逃れるというもの。成功する確率は高い。それが今回の私たちの任務だ。
私<サレン・コッカス>は、今回の任務にあたって、反物質の放出役に当てられていた。この宇宙船に搭載された反ウランを、宇宙船の後部についてあるコンテナから射出し、ブラックホールへと吸い込ませるという大役である。
ようやくミッション開始宙域に侵入したことを確認し、後部のコンテナに移動する。そしてコンテナの操縦席に乗り込み、本体との交信を図る。
「こちらサレン。後部コンテナへの移動を完了した。カウント頼む」
「了解。20秒前」
反ウランを射出した後の帰還軌道を脳内でシミュレートする。タイミングは、一瞬だ。
「5秒前、4、3、2」
最後に頭に浮かんだのは、今度婚約する交際者の顔だった。
「1、0」
「コンテナ、発射する」
カシュンと軽い音をたてて、本体との間の留め具が外れた。エンジンを逆噴射して本体から離れる。そのまま進み、ブラックホールの重力域に侵入する直前。
「反ウラン射出!」
コンテナの扉が開…かない。なんだと!?何度扉のボタンを押しても開かない。そしてこの一瞬が命取りだった。コンテナはブラックホールの重力域に達し、穴の中心に向けて加速する。扉は開かないままで、エンジンの噴射も全く効果がない。そしてコンテナは、巨大な穴の奥へと飲み込まれたのだった。
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コンテナからの通信が途絶えた。ブラックホールの重力域に侵入してしまったのだろう。通信が途絶える前の彼の発言から考えて、反ウランの射出にも失敗したようだ。
全員が失意の中にいた。任務に失敗し、そして仲間を失った。
「皆、落ち込むな。とりあえず今はステーションに帰って結果を報告しよう。サレンも、1分にも満たない時間で引き延ばされ、苦しむ事なく逝くんだ。奴の死を無駄にしない為にも、早く報告をしなくては」
館長の声が艦内に響き、時が動き出したのだった。
「皆よ、あいつの事を決して忘れるな。メメント・モリー(死を思え)」
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交際していた彼が死んでからの5年間、私は死人のような生活を送っていた。宇宙物理学専門の大学も辞め、引きこもるような生活。ある程度前の生活を取り戻せた今でも、彼の事が忘れられずに、男性との関わりを一切絶っていた。気づけば今年で38歳。婚期を逃した私に振り向く男は、誰一人としていなかった。
その後私はもう一度宇宙物理学を専行し、研究一筋の生活を送ったのだ。そこで気づいた事実。ブラックホール内の時間は、その重力によって歪められ、外の時間の数千分の一の早さで進んでいるということは、私の心に大きな衝撃を与えた。
そしてそんな今年のある日の事である。彼が失敗した任務の二次案が宇宙開発本部に提出されたという話を聞いた。これならば、あるいは。甘い思いから参加した選考会を通過し、彼と同じ役目に当たる。トントン拍子に進んだ私の人生最後の年、任務遂行の日取りは12月19日。それは皮肉にも彼の命日だった。
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ブラックホールの中心で、私サレン・コッカスは信じられない物を見た。私のすぐ後ろにあるコンテナ。そしてそのコンテナから発信された通信から聞こえて来たのは――――。
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世界で数千年という長い時間がたった時、二人の命が尽きた。その二人の愛の重力が、ブラックホールをも飲み込んだのか、二人のコンテナの衝突が反ウランとコンテナの対消滅を引き起こし、残った反ウランがブラックホールとの対消滅を引き起こしたようだ。二人の人間の残した遺産は、未来への希望。ブラックホールが引き寄せたものは、次世代のアダムとイヴだったのかも知れない――――。
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