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婚約破棄ですか?では貸したものを返してください

作者: よみなぎ
掲載日:2026/09/08

「セシリア・フォン・アルスター! 今日をもって、貴様との婚約を破棄する!」


 王宮の大広間が静まり返った。


 卒業記念の舞踏会。


 その真ん中で、第二王子レオナルド殿下が私を指さしている。


 隣には、エミリア男爵令嬢。


 最近、殿下がずいぶん親しくしていた女性だ。


「……婚約破棄、ですか?」


「そうだ!」


「理由を伺っても?」


「貴様がエミリアを虐げたからだ!」


 殿下は得意げに言った。


「教科書を隠し、茶会では仲間外れにし、階段から突き落とそうとした。違うか!」


「違います」


「嘘をつくな!」


 即答された。


 周囲がざわつく。


 私は一度、息を整えた。


「証拠はございますか?」


「証拠?」


「私がエミリア様を虐げた証拠です」


 殿下は一瞬だけ黙った。


「エミリア本人がそう言っている」


「それ以外には?」


「必要ない」


「なぜです?」


「私はエミリアを信じているからだ!」


 迷いのない答えだった。


 私は殿下を見る。


 三年間。


 この人の婚約者を務めてきた。


 王宮を出て暮らしたいと言われたので、公爵家の屋敷を貸した。


 馬車が欲しいと言われたので、公爵家の馬車を回した。


 使用人が足りないと言われたので、執事も料理人も侍女も派遣した。


 夜会で殿下が失言した翌日には、私が相手の家へ謝罪に行ったこともある。


 その三年間より。


 エミリア様の一言のほうが重いらしい。


「わかりました」


「ようやく認める気になったか」


「いいえ」


 私は殿下に一礼した。


「婚約破棄をお受けいたします」


「……何?」


「殿下のお望みどおりに」


 大広間がまた静かになった。


「本当にいいのか?」


「はい」


「後悔しても知らんぞ」


「承知しております」


 殿下は満足そうに笑った。


 そこで、ふと思った。


「殿下」


「なんだ?」


「婚約解消は、本日付でよろしいのですね?」


「当然だ!」


「では」


 私は頷いた。


「明日の正午までに、アルスター邸から退去をお願いいたします」


「…………は?」


「現在、殿下がお住まいの屋敷です」


「何を言っている?」


「あの屋敷は、我がアルスター公爵家の所有です」


「そんなことは知っている!」


「婚約者である殿下のために、無償でお貸ししておりました」


「だから何だ!」


「婚約者ではなくなりましたので」


 私は静かに答えた。


「返していただきます」


 殿下が固まった。


「待て」


「はい?」


「私はどこに住めばいい」


「王宮では?」


「王宮は窮屈だから出たのだ!」


「存じております」


「ならば!」


「ですが、それは殿下のご事情です」


 殿下の眉がぴくりと動く。


「私には、もう関係ございません」


 大広間にざわめきが広がった。


「セシリア!」


「それから馬車も返してくださいませ」


「……何?」


「普段お使いの四頭立て馬車です」


「馬車まで?」


「小型馬車も」


「待て!」


「馬六頭もですね」


「馬もか!?」


「はい」


「白毛の馬は私がいつも乗っている!」


「あの子は、私が十六歳の誕生日に父から贈られた馬です」


「だが、ずっと私が使っていた!」


「お貸ししていただけです」


 殿下が黙る。


「使っていれば、ご自分のものになるのですか?」


「…………」


「なりませんよね?」


 大広間のどこかから、笑いを堪える音がした。


「セシリア様!」


 エミリア様が割って入った。


「いくらなんでも酷すぎます!」


「何がでしょう?」


「婚約を破棄されたからって、レオナルド様から何もかも取り上げるなんて!」


「取り上げておりません」


「同じです!」


「違います」


 私は彼女を見る。


「私のものを返していただくだけです」


「でも、レオナルド様は王子なのですよ!」


「はい」


「愛する方を、もっと支えて差し上げてもいいでしょう!」


「エミリア様」


「何ですか!」


「では、あなたが支えて差し上げてはいかがです?」


「……え?」


「屋敷を貸して」


「…………」


「馬車を貸して」


「…………」


「馬も用意して」


「…………」


「使用人も派遣して差し上げてください」


「そんなの無理です!」


 即答だった。


 大広間から笑い声が漏れた。


「そうですか」


 私は頷いた。


「でしたら、私にも無理です」


「あなたは公爵令嬢でしょう!」


「だからこそ、家の財産を勝手に他人へ差し出し続けるわけにはまいりません」


「他人って……!」


「婚約は破棄されましたので」


 エミリア様も黙った。


「まだございます」


 私が言うと。


 殿下の顔が引きつった。


「……まだ?」


「執事のハロルド」


「ハロルド?」


「我が家の使用人です」


「待て」


「料理長マルセル。料理人二名」


「おい」


「侍女四名、馬丁二名、庭師三名」


「待て!」


「全員、明日戻します」


「全員!?」


「はい」


「それでは私の生活はどうなる!」


 私は少しだけ黙った。


「殿下」


「なんだ!」


「私を犯罪者扱いして婚約を破棄した直後に」


 一拍置く。


「なぜ私が、殿下の生活を心配すると思われたのですか?」


 大広間が静まった。


 殿下も黙る。


「私は三年間、婚約者としてできることをしてきました」


 屋敷も。


 馬車も。


 使用人も。


 殿下が怒らせた相手への謝罪も。


「でも今日、殿下は私の言葉を一度も信じませんでした」


「それは……」


「エミリア様の証言だけで十分だと」


「…………」


「でしたら今後は、エミリア様に支えていただけばよろしいでしょう」


「セシリア!」


「私はもう必要ありませんよね?」


 殿下の顔が変わった。


 ようやく。


 自分が何を失おうとしているのか、理解し始めたらしい。


「待て」


「まだ何か?」


「婚約破棄を撤回する!」


 大広間がどよめいた。


「レオナルド様!?」


 エミリア様まで声を上げる。


「これは王家と公爵家の問題でもある! 感情だけで決めてよい話ではない!」


「今、それをおっしゃるのですか?」


「…………」


「私はお断りいたします」


「なぜだ!」


「もう十分だからです」


「何が!」


「殿下の婚約者を務めることが」


 言ってみると。


 驚くほど自然だった。


「私は三年間、殿下のために随分多くのことをしてきました」


「…………」


「その結果が今日でした」


「セシリア……」


「でしたら、もう結構です」


 胸の奥が、少しずつ軽くなっていた。


「エミリア様を信じるのでしょう?」


「それは……」


「どうぞ最後まで信じて差し上げてください」


 そのときだった。


「セシリア嬢」


 低い声が響いた。


 国王陛下だった。


 私はすぐに礼をする。


「陛下」


「愚息が迷惑をかけた」


「いえ」


「婚約破棄については、王家として正式に認めよう」


「父上!」


「黙れ」


 殿下が口を閉じる。


「アルスター公爵家から借りているものについても、すべて返却する」


「ありがとうございます」


「そしてレオナルド」


「はい……」


「お前には明日から、王族として定められた予算だけを渡す」


「……え?」


「今までのように公爵家が不足分を補ってくれると思うな」


「不足分?」


 殿下が首を傾げた。


 陛下の眉間に深いしわが寄った。


「お前は自分が毎月いくら使っているのか、知らんのか?」


「そのようなことは、ハロルドが……」


「そのハロルドは明日いなくなるのだろう」


「…………」


「今後は自分で管理しろ」


「ですが、今までと同じ生活をするには?」


「無理だ」


 あまりに短い答えだった。


「え?」


「お前に与えられている王族費では、今の生活の半分も維持できん」


「そんな……」


 殿下の顔から血の気が引いた。


 その横で。


 エミリア様の表情も変わった。


「……レオナルド様?」


「なんだ」


「あのお屋敷は、本当に返してしまうのですか?」


「仕方ないだろう!」


「では、私たちはどこに?」


「王宮だ!」


「王宮に、私たちの屋敷をいただけるのですよね?」


 陛下が彼女を見た。


「与えん」


「……え?」


「レオナルドには独身王族用の居室がある。そこへ戻す」


「では、結婚したら?」


「収入に見合った住居を自分で用意すればよい」


 エミリア様が黙った。


「馬車は?」


「王家の共用馬車を必要に応じて使え」


「専用ではないのですか?」


「当然だ」


「使用人は?」


「最低限は付ける」


「料理人は?」


「王宮の厨房を使えばよい」


「専属の料理人は……?」


「いらんだろう」


 一つ。


 また一つ。


 エミリア様の顔から期待が消えていく。


「でも」


 彼女が小さな声で言った。


「レオナルド様は王子ですよね?」


「そうだ」


「王子って……もっと……」


 そこで口を閉じた。


 けれど。


 何を言いたかったのかは、誰にでもわかった。


 殿下が彼女を見る。


「エミリア?」


「い、いえ!」


「今、何を言おうとした?」


「何でもありません!」


 さっきまで寄り添っていた二人の間に。


 はっきりと隙間ができていた。


 私はもう十分だった。


「陛下」


「うむ」


「私はこれで失礼いたします」


「ああ。今日はすまなかった」


「お気遣い、感謝いたします」


「セシリア!」


 殿下が呼び止める。


「本当に後悔しないのか!」


 私は振り返った。


「はい」


 自然に笑えた。


「もう戻りたくありません」


     ◇


 翌日の昼。


「お嬢様。すべての返却が完了いたしました」


 公爵邸へ戻ってきたハロルドが一礼した。


「屋敷は?」


「空になっております」


「馬車は?」


「二台とも車庫へ」


「馬は?」


「六頭すべて厩舎へ」


「白い子も?」


「もちろんです」


「よかった」


 胸が温かくなる。


「使用人も全員戻っております」


「お帰りなさい、ハロルド」


「ただいま戻りました」


 これで終わった。


 そう思ったのだけれど。


「ところで、お嬢様」


「何?」


「少々、面白いことになっております」


「面白いこと?」


「はい」


 ハロルドが珍しく、少しだけ笑った。


     ◇


 三日後。


 私は父とともに王宮を訪れていた。


 婚約解消に伴う正式な書類へ署名するためだ。


 手続きそのものは、すぐに終わった。


 帰ろうとして。


「セシリア!」


 聞き覚えのある声に呼び止められた。


 振り向く。


「……殿下?」


 一瞬、わからなかった。


 レオナルド殿下だった。


 服は以前と変わらない。


 でも。


 いつも後ろにいたハロルドはいない。


 侍従も一人だけ。


 何より。


「話を聞いてくれ!」


「何でしょう?」


「エミリアがいなくなった!」


「……はい?」


「昨日、婚約を解消すると言ってきた!」


 思わず瞬きをした。


「もう?」


「もう、とは何だ!」


「いえ」


 早いとは思った。


「理由は?」


「私では幸せにできない、と!」


 なるほど。


「それは残念でしたね」


「残念でしたね、ではない!」


 殿下が一歩近づく。


「全部お前のせいだ!」


「私?」


「お前が屋敷も馬車も取り上げたから!」


「返していただいただけです」


「それがなければエミリアは!」


「殿下」


 私は遮った。


「つまりエミリア様は」


 一拍置く。


「屋敷と馬車がなくなったから、殿下と別れたのですか?」


「…………」


 殿下が固まった。


 周囲を歩いていた貴族たちの足も止まる。


「それは……」


「真実の愛では?」


「…………」


「屋敷も馬車もない殿下を、それでも愛してくださる方だと思っておりました」


 本当に。


 そうでなければ、あれほど堂々と私から殿下を奪おうとはなさらないでしょう。


「それより殿下」


「なんだ!」


「エミリア様が私を虐めの犯人だと訴えた件ですが」


 殿下の表情が変わった。


「王家で調査されたそうですね」


「…………」


「昨日、陛下からお手紙をいただきました」


 結果は簡単だった。


 教科書は、エミリア様自身が友人へ預けていた。


 茶会については、そもそも招待客を決めたのは主催者である侯爵夫人。


 階段から突き落とされたという日は。


 私は領地にいた。


「すべて事実ではなかったそうですね」


「……そうだ」


「では」


 私は首を傾げる。


「どうして私に謝罪もなく、『全部お前のせいだ』と?」


 殿下の口が開く。


 閉じる。


 また開く。


「それは……」


「セシリア嬢」


 また別の声。


 国王陛下だった。


「陛下」


 礼をする。


「ちょうどよかった」


 陛下は殿下を見る。


「レオナルド。お前にも話がある」


「父上?」


「エミリア嬢への調査が終わった」


「はい」


「虚偽の訴えによって公爵令嬢の名誉を傷つけた件について、男爵家へ処分を下す」


「…………」


「そしてお前にもだ」


「私にも!?」


「当然だ」


 陛下の声が冷たくなる。


「何の調査もせず、公の場で公爵令嬢を犯罪者扱いした」


「ですが私は騙されて!」


「騙されたから無罪になると?」


「…………」


「ましてお前は王族だ。自分の言葉がどれほど重いかも理解していない」


 殿下が青ざめる。


「当面、王族としての公務から外す」


「父上!」


「領地の一つを管理させる。そこで行政を学べ」


「どこですか?」


 陛下が領地名を告げた。


 私は知っていた。


 王都から馬車で五日。


 山間部の小さな土地だ。


「そんな辺境へ!?」


「嫌なら王族籍を抜けても構わん」


「…………」


 殿下が黙った。


「専用馬車は……」


「ない」


「使用人は?」


「現地に必要な者がいる」


「屋敷は?」


「代官屋敷を使え」


「夜会は……」


「あると思うか?」


「…………」


 殿下の肩が落ちた。


 私は。


 少しだけ同情――。


 しようと思った。


 でも。


 無理だった。


「セシリア」


 殿下が私を見る。


「私と……やり直さないか?」


「お断りします」


「即答!?」


「はい」


「少しくらい考えてくれても!」


「三年間考えましたので」


 十分だ。


「では、私はこれで」


「セシリア!」


 振り返らなかった。


     ◇


 さらに一週間後。


「お嬢様」


「今度は何?」


 ハロルドが手紙を持ってきた。


「エミリア男爵令嬢の件です」


「また?」


「王都を離れられるそうです」


 虚偽の告発で公爵家の令嬢を陥れた。


 当然、何事もなかったことにはならない。


 男爵家は私と公爵家へ正式に謝罪。


 さらに、虚偽の告発によって公爵家の名誉を傷つけた責任を問われ、王都での取引や社交上の後ろ盾を失った。


 エミリア様自身も、虚偽の証言で公爵令嬢を陥れた罪を問われ、男爵家の領地からも追放されることになった。


 今後は王都から遠く離れた修道院で、生涯をかけて奉仕するそうだ。


「そう」


「そしてレオナルド殿下は、明日ご出発とのことです」


「山の領地へ?」


「はい」


「そう」


 不思議なくらい。


 何も感じなかった。


 二人とも。


 ほんの少し前まで、私の人生をめちゃくちゃにした人たちなのに。


 今ではもう。


 遠い出来事のようだった。


「それより、お嬢様」


「何?」


「本日のご予定ですが」


「白い子に乗る」


「はい」


「そのあと街へ行く」


「はい」


「新しくできたお菓子屋さんにも行きたい」


「手配いたします」


「手配しなくていいわ」


「はい?」


「今日は一人で歩いてみたいの」


 ハロルドが少し驚いて。


 それから笑った。


「かしこまりました」


 窓の外を見る。


 いい天気だった。


 殿下は屋敷を失った。


 馬車も。


 馬も。


 使用人も。


 愛していると言った女性も。


 そしてしばらく、華やかな王都での暮らしも。


 エミリア様も。


 欲しかった王子妃の未来を失った。


 でも。


 それは二人が自分で選んだ結果だ。


 私が奪ったものではない。


 私はただ。


 貸していたものを返してもらっただけ。


 そして。


 私にも戻ってきたものがある。


 屋敷。


 馬車。


 馬。


 使用人。


 何より。


 自分のために使える時間。


「行ってきます」


「いってらっしゃいませ、お嬢様」


 玄関を出る。


 青空の下へ、一歩踏み出した。


 昨日まで決められていた道は、もうない。


 だから今日は。


 好きなところへ行こう。


 婚約破棄されて失ったもの?


 考えてみれば。


 ろくでもない婚約者が一人。


 それだけだった。


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