婚約破棄ですか?では貸したものを返してください
「セシリア・フォン・アルスター! 今日をもって、貴様との婚約を破棄する!」
王宮の大広間が静まり返った。
卒業記念の舞踏会。
その真ん中で、第二王子レオナルド殿下が私を指さしている。
隣には、エミリア男爵令嬢。
最近、殿下がずいぶん親しくしていた女性だ。
「……婚約破棄、ですか?」
「そうだ!」
「理由を伺っても?」
「貴様がエミリアを虐げたからだ!」
殿下は得意げに言った。
「教科書を隠し、茶会では仲間外れにし、階段から突き落とそうとした。違うか!」
「違います」
「嘘をつくな!」
即答された。
周囲がざわつく。
私は一度、息を整えた。
「証拠はございますか?」
「証拠?」
「私がエミリア様を虐げた証拠です」
殿下は一瞬だけ黙った。
「エミリア本人がそう言っている」
「それ以外には?」
「必要ない」
「なぜです?」
「私はエミリアを信じているからだ!」
迷いのない答えだった。
私は殿下を見る。
三年間。
この人の婚約者を務めてきた。
王宮を出て暮らしたいと言われたので、公爵家の屋敷を貸した。
馬車が欲しいと言われたので、公爵家の馬車を回した。
使用人が足りないと言われたので、執事も料理人も侍女も派遣した。
夜会で殿下が失言した翌日には、私が相手の家へ謝罪に行ったこともある。
その三年間より。
エミリア様の一言のほうが重いらしい。
「わかりました」
「ようやく認める気になったか」
「いいえ」
私は殿下に一礼した。
「婚約破棄をお受けいたします」
「……何?」
「殿下のお望みどおりに」
大広間がまた静かになった。
「本当にいいのか?」
「はい」
「後悔しても知らんぞ」
「承知しております」
殿下は満足そうに笑った。
そこで、ふと思った。
「殿下」
「なんだ?」
「婚約解消は、本日付でよろしいのですね?」
「当然だ!」
「では」
私は頷いた。
「明日の正午までに、アルスター邸から退去をお願いいたします」
「…………は?」
「現在、殿下がお住まいの屋敷です」
「何を言っている?」
「あの屋敷は、我がアルスター公爵家の所有です」
「そんなことは知っている!」
「婚約者である殿下のために、無償でお貸ししておりました」
「だから何だ!」
「婚約者ではなくなりましたので」
私は静かに答えた。
「返していただきます」
殿下が固まった。
「待て」
「はい?」
「私はどこに住めばいい」
「王宮では?」
「王宮は窮屈だから出たのだ!」
「存じております」
「ならば!」
「ですが、それは殿下のご事情です」
殿下の眉がぴくりと動く。
「私には、もう関係ございません」
大広間にざわめきが広がった。
「セシリア!」
「それから馬車も返してくださいませ」
「……何?」
「普段お使いの四頭立て馬車です」
「馬車まで?」
「小型馬車も」
「待て!」
「馬六頭もですね」
「馬もか!?」
「はい」
「白毛の馬は私がいつも乗っている!」
「あの子は、私が十六歳の誕生日に父から贈られた馬です」
「だが、ずっと私が使っていた!」
「お貸ししていただけです」
殿下が黙る。
「使っていれば、ご自分のものになるのですか?」
「…………」
「なりませんよね?」
大広間のどこかから、笑いを堪える音がした。
「セシリア様!」
エミリア様が割って入った。
「いくらなんでも酷すぎます!」
「何がでしょう?」
「婚約を破棄されたからって、レオナルド様から何もかも取り上げるなんて!」
「取り上げておりません」
「同じです!」
「違います」
私は彼女を見る。
「私のものを返していただくだけです」
「でも、レオナルド様は王子なのですよ!」
「はい」
「愛する方を、もっと支えて差し上げてもいいでしょう!」
「エミリア様」
「何ですか!」
「では、あなたが支えて差し上げてはいかがです?」
「……え?」
「屋敷を貸して」
「…………」
「馬車を貸して」
「…………」
「馬も用意して」
「…………」
「使用人も派遣して差し上げてください」
「そんなの無理です!」
即答だった。
大広間から笑い声が漏れた。
「そうですか」
私は頷いた。
「でしたら、私にも無理です」
「あなたは公爵令嬢でしょう!」
「だからこそ、家の財産を勝手に他人へ差し出し続けるわけにはまいりません」
「他人って……!」
「婚約は破棄されましたので」
エミリア様も黙った。
「まだございます」
私が言うと。
殿下の顔が引きつった。
「……まだ?」
「執事のハロルド」
「ハロルド?」
「我が家の使用人です」
「待て」
「料理長マルセル。料理人二名」
「おい」
「侍女四名、馬丁二名、庭師三名」
「待て!」
「全員、明日戻します」
「全員!?」
「はい」
「それでは私の生活はどうなる!」
私は少しだけ黙った。
「殿下」
「なんだ!」
「私を犯罪者扱いして婚約を破棄した直後に」
一拍置く。
「なぜ私が、殿下の生活を心配すると思われたのですか?」
大広間が静まった。
殿下も黙る。
「私は三年間、婚約者としてできることをしてきました」
屋敷も。
馬車も。
使用人も。
殿下が怒らせた相手への謝罪も。
「でも今日、殿下は私の言葉を一度も信じませんでした」
「それは……」
「エミリア様の証言だけで十分だと」
「…………」
「でしたら今後は、エミリア様に支えていただけばよろしいでしょう」
「セシリア!」
「私はもう必要ありませんよね?」
殿下の顔が変わった。
ようやく。
自分が何を失おうとしているのか、理解し始めたらしい。
「待て」
「まだ何か?」
「婚約破棄を撤回する!」
大広間がどよめいた。
「レオナルド様!?」
エミリア様まで声を上げる。
「これは王家と公爵家の問題でもある! 感情だけで決めてよい話ではない!」
「今、それをおっしゃるのですか?」
「…………」
「私はお断りいたします」
「なぜだ!」
「もう十分だからです」
「何が!」
「殿下の婚約者を務めることが」
言ってみると。
驚くほど自然だった。
「私は三年間、殿下のために随分多くのことをしてきました」
「…………」
「その結果が今日でした」
「セシリア……」
「でしたら、もう結構です」
胸の奥が、少しずつ軽くなっていた。
「エミリア様を信じるのでしょう?」
「それは……」
「どうぞ最後まで信じて差し上げてください」
そのときだった。
「セシリア嬢」
低い声が響いた。
国王陛下だった。
私はすぐに礼をする。
「陛下」
「愚息が迷惑をかけた」
「いえ」
「婚約破棄については、王家として正式に認めよう」
「父上!」
「黙れ」
殿下が口を閉じる。
「アルスター公爵家から借りているものについても、すべて返却する」
「ありがとうございます」
「そしてレオナルド」
「はい……」
「お前には明日から、王族として定められた予算だけを渡す」
「……え?」
「今までのように公爵家が不足分を補ってくれると思うな」
「不足分?」
殿下が首を傾げた。
陛下の眉間に深いしわが寄った。
「お前は自分が毎月いくら使っているのか、知らんのか?」
「そのようなことは、ハロルドが……」
「そのハロルドは明日いなくなるのだろう」
「…………」
「今後は自分で管理しろ」
「ですが、今までと同じ生活をするには?」
「無理だ」
あまりに短い答えだった。
「え?」
「お前に与えられている王族費では、今の生活の半分も維持できん」
「そんな……」
殿下の顔から血の気が引いた。
その横で。
エミリア様の表情も変わった。
「……レオナルド様?」
「なんだ」
「あのお屋敷は、本当に返してしまうのですか?」
「仕方ないだろう!」
「では、私たちはどこに?」
「王宮だ!」
「王宮に、私たちの屋敷をいただけるのですよね?」
陛下が彼女を見た。
「与えん」
「……え?」
「レオナルドには独身王族用の居室がある。そこへ戻す」
「では、結婚したら?」
「収入に見合った住居を自分で用意すればよい」
エミリア様が黙った。
「馬車は?」
「王家の共用馬車を必要に応じて使え」
「専用ではないのですか?」
「当然だ」
「使用人は?」
「最低限は付ける」
「料理人は?」
「王宮の厨房を使えばよい」
「専属の料理人は……?」
「いらんだろう」
一つ。
また一つ。
エミリア様の顔から期待が消えていく。
「でも」
彼女が小さな声で言った。
「レオナルド様は王子ですよね?」
「そうだ」
「王子って……もっと……」
そこで口を閉じた。
けれど。
何を言いたかったのかは、誰にでもわかった。
殿下が彼女を見る。
「エミリア?」
「い、いえ!」
「今、何を言おうとした?」
「何でもありません!」
さっきまで寄り添っていた二人の間に。
はっきりと隙間ができていた。
私はもう十分だった。
「陛下」
「うむ」
「私はこれで失礼いたします」
「ああ。今日はすまなかった」
「お気遣い、感謝いたします」
「セシリア!」
殿下が呼び止める。
「本当に後悔しないのか!」
私は振り返った。
「はい」
自然に笑えた。
「もう戻りたくありません」
◇
翌日の昼。
「お嬢様。すべての返却が完了いたしました」
公爵邸へ戻ってきたハロルドが一礼した。
「屋敷は?」
「空になっております」
「馬車は?」
「二台とも車庫へ」
「馬は?」
「六頭すべて厩舎へ」
「白い子も?」
「もちろんです」
「よかった」
胸が温かくなる。
「使用人も全員戻っております」
「お帰りなさい、ハロルド」
「ただいま戻りました」
これで終わった。
そう思ったのだけれど。
「ところで、お嬢様」
「何?」
「少々、面白いことになっております」
「面白いこと?」
「はい」
ハロルドが珍しく、少しだけ笑った。
◇
三日後。
私は父とともに王宮を訪れていた。
婚約解消に伴う正式な書類へ署名するためだ。
手続きそのものは、すぐに終わった。
帰ろうとして。
「セシリア!」
聞き覚えのある声に呼び止められた。
振り向く。
「……殿下?」
一瞬、わからなかった。
レオナルド殿下だった。
服は以前と変わらない。
でも。
いつも後ろにいたハロルドはいない。
侍従も一人だけ。
何より。
「話を聞いてくれ!」
「何でしょう?」
「エミリアがいなくなった!」
「……はい?」
「昨日、婚約を解消すると言ってきた!」
思わず瞬きをした。
「もう?」
「もう、とは何だ!」
「いえ」
早いとは思った。
「理由は?」
「私では幸せにできない、と!」
なるほど。
「それは残念でしたね」
「残念でしたね、ではない!」
殿下が一歩近づく。
「全部お前のせいだ!」
「私?」
「お前が屋敷も馬車も取り上げたから!」
「返していただいただけです」
「それがなければエミリアは!」
「殿下」
私は遮った。
「つまりエミリア様は」
一拍置く。
「屋敷と馬車がなくなったから、殿下と別れたのですか?」
「…………」
殿下が固まった。
周囲を歩いていた貴族たちの足も止まる。
「それは……」
「真実の愛では?」
「…………」
「屋敷も馬車もない殿下を、それでも愛してくださる方だと思っておりました」
本当に。
そうでなければ、あれほど堂々と私から殿下を奪おうとはなさらないでしょう。
「それより殿下」
「なんだ!」
「エミリア様が私を虐めの犯人だと訴えた件ですが」
殿下の表情が変わった。
「王家で調査されたそうですね」
「…………」
「昨日、陛下からお手紙をいただきました」
結果は簡単だった。
教科書は、エミリア様自身が友人へ預けていた。
茶会については、そもそも招待客を決めたのは主催者である侯爵夫人。
階段から突き落とされたという日は。
私は領地にいた。
「すべて事実ではなかったそうですね」
「……そうだ」
「では」
私は首を傾げる。
「どうして私に謝罪もなく、『全部お前のせいだ』と?」
殿下の口が開く。
閉じる。
また開く。
「それは……」
「セシリア嬢」
また別の声。
国王陛下だった。
「陛下」
礼をする。
「ちょうどよかった」
陛下は殿下を見る。
「レオナルド。お前にも話がある」
「父上?」
「エミリア嬢への調査が終わった」
「はい」
「虚偽の訴えによって公爵令嬢の名誉を傷つけた件について、男爵家へ処分を下す」
「…………」
「そしてお前にもだ」
「私にも!?」
「当然だ」
陛下の声が冷たくなる。
「何の調査もせず、公の場で公爵令嬢を犯罪者扱いした」
「ですが私は騙されて!」
「騙されたから無罪になると?」
「…………」
「ましてお前は王族だ。自分の言葉がどれほど重いかも理解していない」
殿下が青ざめる。
「当面、王族としての公務から外す」
「父上!」
「領地の一つを管理させる。そこで行政を学べ」
「どこですか?」
陛下が領地名を告げた。
私は知っていた。
王都から馬車で五日。
山間部の小さな土地だ。
「そんな辺境へ!?」
「嫌なら王族籍を抜けても構わん」
「…………」
殿下が黙った。
「専用馬車は……」
「ない」
「使用人は?」
「現地に必要な者がいる」
「屋敷は?」
「代官屋敷を使え」
「夜会は……」
「あると思うか?」
「…………」
殿下の肩が落ちた。
私は。
少しだけ同情――。
しようと思った。
でも。
無理だった。
「セシリア」
殿下が私を見る。
「私と……やり直さないか?」
「お断りします」
「即答!?」
「はい」
「少しくらい考えてくれても!」
「三年間考えましたので」
十分だ。
「では、私はこれで」
「セシリア!」
振り返らなかった。
◇
さらに一週間後。
「お嬢様」
「今度は何?」
ハロルドが手紙を持ってきた。
「エミリア男爵令嬢の件です」
「また?」
「王都を離れられるそうです」
虚偽の告発で公爵家の令嬢を陥れた。
当然、何事もなかったことにはならない。
男爵家は私と公爵家へ正式に謝罪。
さらに、虚偽の告発によって公爵家の名誉を傷つけた責任を問われ、王都での取引や社交上の後ろ盾を失った。
エミリア様自身も、虚偽の証言で公爵令嬢を陥れた罪を問われ、男爵家の領地からも追放されることになった。
今後は王都から遠く離れた修道院で、生涯をかけて奉仕するそうだ。
「そう」
「そしてレオナルド殿下は、明日ご出発とのことです」
「山の領地へ?」
「はい」
「そう」
不思議なくらい。
何も感じなかった。
二人とも。
ほんの少し前まで、私の人生をめちゃくちゃにした人たちなのに。
今ではもう。
遠い出来事のようだった。
「それより、お嬢様」
「何?」
「本日のご予定ですが」
「白い子に乗る」
「はい」
「そのあと街へ行く」
「はい」
「新しくできたお菓子屋さんにも行きたい」
「手配いたします」
「手配しなくていいわ」
「はい?」
「今日は一人で歩いてみたいの」
ハロルドが少し驚いて。
それから笑った。
「かしこまりました」
窓の外を見る。
いい天気だった。
殿下は屋敷を失った。
馬車も。
馬も。
使用人も。
愛していると言った女性も。
そしてしばらく、華やかな王都での暮らしも。
エミリア様も。
欲しかった王子妃の未来を失った。
でも。
それは二人が自分で選んだ結果だ。
私が奪ったものではない。
私はただ。
貸していたものを返してもらっただけ。
そして。
私にも戻ってきたものがある。
屋敷。
馬車。
馬。
使用人。
何より。
自分のために使える時間。
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
玄関を出る。
青空の下へ、一歩踏み出した。
昨日まで決められていた道は、もうない。
だから今日は。
好きなところへ行こう。
婚約破棄されて失ったもの?
考えてみれば。
ろくでもない婚約者が一人。
それだけだった。




