番外編02.確かめ合うふたり
「……どうしたんです?殿下。難しい顔して」
翌朝の執務室。補佐官長がルシフェルに声をかけた。長年の学友でもあるこの男は、周りに誰もいない時には、砕けた口調になる。
「難しい顔なんかしていない。寝不足なだけだ」
王太子はそう言うが、明らかに様子がおかしい。
「俺の目は誤魔化せないですって。妃殿下でしょう?何があったんです?」
(この人を悩ますなんて、アイリス殿下のことしかないからな)
「………」
見抜かれたことが不服でしばらく黙り込んだが、こうなると引かない男であることを、ルシフェルは知っている。
「悩みがあるようなんだ。でも、何かわからない」
「へえ。新婚だってのに、何をお悩みになることがあるんですかねえ」
(大方、殿下のせいだろうな。この人、アイリス様のことになると好きすぎて空回りするんだから)
「だから困ってるんだ!もう放っておいてくれ」
「いやいや、悪かったですって。じゃあ、聞いてみればいいじゃないですか」
「……呼ばれた」
「は?」
「夜、話があるから必ずきてほしい、と言われたんだ」
よかったですね、と言おうとしたが、王太子の顔を見て飲み込んだ。まるでこの世の終わりかのような顔だったのだ。
「離婚だ、と言われたらどうしたらいいんだ?!」
「いやいや!それはないですって!」
(何言ってんだ、この人。あれだけ熱愛されてて、離婚なんて言い出されるわけないだろ?)
確かに始まりは、ルシフェルの思いに答えるかたちだっただろう。けれど今では、側から見ても羨ましいほどの仲睦まじさなのだ。
「とにかく、ちゃんと妃殿下のところに行ってください!それからちゃんと話して!」
「……行かないとだめか?」
「当たり前でしょう!」
しっかり者の友人に叱られて、それでも決心がつかない王太子殿下。上の空のまま時間は流れ(他の者には気づかれないほど、完璧に政務をこなしたが)、ついに約束の時刻になってしまった。
(アイリス、今夜が最後なのか……?)
別れを切り出される場面をいくつも想像して、何度も引き返そうかと思ったが、気がつけば寝室の前まで来ていた。アイリスの頼みなら、何が待っていようと叶えずにはいられないのだ。
扉をノックすると、どうぞ、と返ってきた。心なしか緊張しているような、少し震える声だ。やっぱり、何か言いにくい話なんだろうか。
「アイリス…その、話って……っ??!」
気持ちの重さを隠して、アイリスに負担をかけたくないと優しく問いかけたルシフェルだったが、姿を見た瞬間に言葉を失った。
薄く透き通る生地のナイトドレスを身に纏ったアイリスが、そこにいたからだ。大胆すぎず気品がありながら、妖艶さを漂わせるその姿は、月の女神のように美しい。
「来てくださってありがとうございます。お待ちしておりましたわ」
嫣然とした微笑みに、すでに理性は崩壊寸前だ。
「どっ、どっ、どうしたんだ?今夜はその、なんというか」
「あの…お気に召しませんか?」
お気に召すに決まってるだろう?、と心が叫ぶ。そこで、ルシフェルの思考回路が崩壊した。
(だっ、ダメだ。このままじゃ野獣のごとく、彼女を抱き潰してしまう!)
「いや、なんというか、眩しすぎるよ。目眩を起こしそうだから、ちょっと外へ……」
しどろもどろにそう言うと、踵を返して出て行こうとする。もしここに友人がいたら、いいかげんにしろと叩き倒してくれるだろうに。
アイリスは泣き出しそうだった。
恥を忍んで大胆に迫ったのに、愛する夫は触れようとしてくれない。もうダメだ、と思った。愛されているなんて、錯覚だったのだ。
「……私は、そんなに魅力がないのですね」
アイリスの声が震えていて、ルシフェルは思わず振り返った。目に涙を溜めているのを知って、その場から動けなくなる。
「っ、アイリス?」
「結婚式からずっと、唇にキスもしてくださらない。私に魅力がないから、触れようとなさらないのでしょう?」
しばらくの間ルシフェルは、アイリスが何を言っているのかわからなかった。魅力がない?誰のことだ?魅力どころか破壊力がありすぎて、自分を抑えるのに必死だというのに。
(自分を抑える……ええっと…え?え?もしかして、抑えていたのがいけなかったのか?)
「アイリス……」
震える手を、彼女に向かって伸ばす。
「触れて……もいいのか?」
「…触れたいと思いますの?」
「当たり前だよ!ずっと君に触れたかった」
初めて、本当の気持ちを口に出した。もっと早く伝えておくべきだったんだ、と後悔しながら。
「でも、一度始めたら止まらない。それでもいいんだね?」
「……止めないで、お願い」
「…っ!」
ルシフェルの理性はここで完全に途切れ、そしてふたりは、激情の波に飲み込まれていったのだった。
眩しい光が顔を射し、心地よい温もりに包まれている。満たされた気分で目を開けると、愛する夫の顔がそこにあった。
「おはよう、奥さん」
「…!!」
この恥ずかしさには、とても慣れそうにないわ……。そう戸惑いながらも、幸福感に満たされていて、昨夜までの悩みが嘘のようだ。
「すまなかった。君を悩ませていたなんて、思ってもいなかったんだ」
ルシフェルは謝ってくれたが、もうどうでもよかった。彼が全身で、愛を伝えてくれたから。
「いいのです。でも、そうですね。これからは、なるべく伝え合っていきましょうね」
愛し合う者同士だからといって、全てを分かち合えるものでないことは、ふたりともわかっている。でも、それでいい。きっと、それがいい。
「うん、そうだね」
ルシフェルは微笑むと、優しくアイリスを抱き寄せる。夫婦としてのふたりの時間が、ようやく今始まったのだった。




