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九回裏、国歌が終わる前に

作者: 百花繚乱
掲載日:2026/01/14

目次

1. 祝福のフラッシュ

2. 折れたスパイクの匂い

3. 二つの役目、ひとつの身体

4. 砂糖の入れ方を知らない男

5. 旅の合宿、海風の打撃音

6. 伝説の背中

7. 送られないサイン

8. 一つ目の真実:代打の理由

9. 二つ目の真実:投げない理由

10. 二度目の沈黙

11. 三つ目の真実:JAPANという看板

12. 九回裏の静けさ

13. 余韻としての白球



1. 祝福のフラッシュ


優勝の瞬間、光は音より早かった。

フラッシュが白く弾け、紙吹雪が風に舞い、誰かの叫びが遅れて耳に届く。歓声は波のように押し寄せて、肩の上で砕け、背中を叩き、胸の奥に入り込み、そこに居座った。


翔太は帽子のつばを押さえた。目が痛い。光が痛い。祝福は、いつも少しだけ暴力的だ。熱を持って、逃げ道を塞いでくる。


「翔太! こっち!」


チームメイトが抱きついてくる。汗と芝と、グラブの革の匂い。頬が引きつるほど笑うと、口の奥に金属みたいな味が広がった。試合が終わっても、身体のどこかはまだ投げている。まだ打っている。まだ走っている。


投げれば勝ち、打てば決める。

二つの役目を同時に背負う男――その言葉はいつの間にか本人の輪郭を塗り潰し、代わりに広告のような顔を貼り付けた。


表彰台の上で、翔太は国歌を聴いた。

歌詞が胸に入ってくる前に、観客の息の揃い方だけが先に来る。数万人の肺が同じタイミングで空気を飲み込み、同じタイミングで吐く。美しい。怖い。自分の呼吸が、群れに溶けていく。


その夜、ホテルの部屋に戻った。

窓の外には街の灯りが海のように広がり、歓声の残り香がまだ漂っていた。ワインを開けようとして、手が止まる。瓶の口を回す指の力が、妙に弱い。


スマホが震えた。知らない番号。


《おめでとう。君は、JAPANの顔になった》


短い文。絵文字もない。

すぐに次が来る。


《だから次は、外す。九回裏。君を》


胸の奥が音もなく落ちた。

画面の白が冷たく見えた。祝福の光とは違う白。病室の蛍光灯みたいな白。


翔太は窓を開けた。夜風が入り込み、汗を乾かしていく。遠くのサイレンが細く鳴っている。

どこかで誰かが、まだ現実を生きている。


幸福のすぐ裏に、転落はいつも用意されている。

そのことを、翔太はもう知っていた。



2. 折れたスパイクの匂い


翌朝、練習場の土は湿っていた。スパイクの歯が地面を噛む音が、いつもより大きく聞こえる。

翔太は紐を結び直した。指先が少し震える。寒いからではない。昨夜の白い文字が、まだ指の腹に残っている。


監督に呼ばれた。

監督室には紙の匂いが濃かった。資料の匂い。計画の匂い。勝つための匂い。

壁には世界地図と、対戦相手のデータが貼られている。色分けされた矢印が、翔太の目には一本の線に見えた――逃げ道のない線。


「次の大会――WBCだ」


監督は目だけで笑った。声は硬い。


「お前は、打者寄りで行く。投げるのは限定。状況によっては投げない」


言葉が胸の中で弾まないまま落ちた。跳ね返らない。重い。


「……俺、投げられます」


言った瞬間、喉の奥が熱くなった。言い訳に似た熱だ。


監督は頷いた。否定もしない。肯定もしない。

その曖昧さが、いちばん苦い。


「分かってる。だが――JAPANはお前を壊せない」


その言葉は守りの形をしていた。

守る、という言葉が、なぜこんなに息苦しいのか。


監督は一枚の診断書を差し出した。肩でも肘でもない。腰の深いところ。疲労の蓄積。

翔太は紙を握った。角が指に刺さる。痛い。現実が痛い。


廊下に出ると、ブルペンの隅に折れたスパイクが転がっていた。誰かが捨てたものだ。先端が裂け、泥が固まっている。

その匂いを嗅いだ瞬間、十六歳の自分が蘇る。


地方球場の三塁ベンチ。雨上がりの土。

「二刀流なんて無理だ」と言われた日。

折れたスパイクを握りしめて、痛みで泣きそうになった。


――あの痛みが、また戻ってきた。

成功するほど、痛みは形を変えて戻ってくる。



3. 二つの役目、ひとつの身体


合宿は沖縄だった。冬の海は意外に冷たく、潮風が汗の匂いを削っていく。

グラウンドの外では観光客がアイスを食べて笑っているのに、こちらは毎日、同じ角度で同じ球を投げ、同じ角度で同じバットを振る。


翔太は朝五時に起き、ストレッチをし、投球フォームを確認し、打撃ケージに入り、また投球に戻った。身体はひとつなのに、役目は二つある。時間が足りない。眠りが足りない。

足りないものは、最後に心から削られる。


昼食の席で、捕手の佐伯が笑った。


「翔太、お前、飯まで二刀流か? 速いし多い」


笑われると、笑うしかない。翔太は味噌汁の湯気を見た。味噌の匂いが少しだけ落ち着かせる。

食事の時間だけは、役目が一つで済む――咀嚼する人間、という役目。


同じテーブルで、外部スタッフの一人が軽い口調で言った。


「JAPANだぞ。無理してでも、やるしかないよな」


その言葉は正しい。正しすぎて、逃げ場がない。

翔太は箸を置いた。指の関節が白くなる。


夜、ホテルの廊下で見知らぬ男に声をかけられた。

背は高くない。細い。歩き方が静かだ。

だが、目だけが鋭い。人の癖を見る目。


「君が、翔太か」


男は名を名乗らなかった。首から下げた古いIDカードに、「特別アドバイザー」とだけ書かれている。

カードの角が擦り切れている。使い続けられた物は、嘘をつかない。


「明日の朝、海沿いのグラウンドに来い。早い方がいい」


それだけ言って去っていった。

翔太は背中だけで分かった。

“伝説”の匂いがする。道具を大切にする人間の匂い。汗を拭いても消えない、孤独の匂い。



4. 砂糖の入れ方を知らない男


翌朝、海沿いのグラウンドは薄い霧に包まれていた。波の音が一定で、霧の向こうから金属バットの乾いた響きが聞こえる。

男はベンチに座っていた。紙コップのコーヒー。砂糖もミルクも入れていない苦い匂い。


「座れ」


翔太が腰を下ろすと、木の冷たさが尻から上がってきた。

男はコーヒーを一口飲み、紙コップを差し出した。


「飲め。苦い」


翔太は受け取った。熱い。舌が少し焼ける。

苦さが喉に残る。不思議と、身体が目を覚ます。


男は言った。


「君は、二つの役目を持っている。だから皆、君を才能で語る。

だが才能の話は、たいてい本人を殺す」


翔太は返せなかった。

言葉が砂を噛むみたいにざらつく。


男は続ける。


「君は砂糖の入れ方を知らない。甘さを均一にするやり方だ。

投げるときに全力で、打つときにも全力で、間がない。

甘いところと苦いところができる。練習も身体も、均一じゃないまま積み上がる」


翔太は紙コップを握りしめた。紙が少し潰れる。


「じゃあ、どうすればいい」


男は海の方を見た。波は全力で打たない。だが毎回届く。

その“毎回”が、強さだ。


「型を持て。型は檻じゃない。戻る場所だ」


男は立ち上がった。


「そして、ひとつ決めろ。

君は、誰のために打つ」


翔太の胸が痛んだ。

“JAPANのために”という言葉が、喉の手前で待っている。

だが、それを言うと、自分が消える気がした。


男は背中越しに言った。


「JAPANのために打つ、と言うやつは、だいたい自分の怖さから逃げている。

怖さを、誰かの旗の下に隠すんだ」


霧の中で男の背中が遠くなる。

翔太は、その背中に追いつけない距離を感じた。



5. 旅の合宿、海風の打撃音


合宿は旅のように移った。沖縄から宮崎、そして東京。

グラウンドが変わると土の匂いが変わる。空気の湿り気も変わる。

翔太の胸の中の波も、それに合わせて揺れた。


宮崎の夕方、打撃ケージで翔太はスイングを止めた。

バットが空を切る音が乾いて聞こえる。打球が伸びない。

それ以上に、足が地面に噛んでいない。


トレーナーの南が近づいた。

「腰、浮いてる」


翔太は笑おうとして失敗した。


「投げないって言われてから、変だ。身体の真ん中が空洞みたいで」


南は掌を腰に当てた。温かい。


「空洞は埋めようとすると余計広がる。沈めろ。足裏を感じろ。呼吸を戻せ」


翔太は息を吸った。土の匂い。芝の匂い。汗の匂い。

これは自分の匂いだ。JAPANの匂いじゃない。ニュースの匂いでもない。ただ、野球の匂い。


夜、翔太はノートに書いた。


《JAPANのため?

自分のため?

——誰のため?》


答えは出ない。答えが出ないまま時間だけが進む。

遠くのテレビでは、スポーツ番組が翔太の特集を流していた。

「JAPANの象徴」「勝利の保証」

その言葉が、薄い壁越しに染みてくる。



6. 伝説の背中


東京。室内練習場の隅で、男――アドバイザーは静かにボールを眺めていた。

誰も近寄らない。近寄れない。

伝説は距離を作る。距離があるから伝説になる。


翔太は意を決して近づいた。


「昨日……俺、黙ってしまいました。監督に。投げないって言われて」


男は短く頷いた。

「黙るのは、癖になる」


「投げたいです」


「投げたいなら、投げたいと言え。

ただし、言ったあとに責任が来る」


男はボールを一つ手に取った。縫い目を指でなぞる。

その指は細いが、節に硬さがある。毎日を積んだ指だ。


「君は二つの才能を持っている。だから万能だと思われる。

だが万能ほど孤独だ。誰も助け方を知らないから」


翔太はボールの縫い目を見た。縫い目は一本ではない。二本が絡み合い、一つの球になる。


男は言った。


「二本をほどくな。絡ませたまま投げろ。打て。

ただし、絡ませ方を学べ。無理に結べば切れる。

結び目を作れば、ほどけない」


翔太の喉が熱くなった。涙ではない。言葉にならない感情の熱だ。


しばらく沈黙が落ちたあと、男がぽつりと言った。


「俺も昔、逃げた打席がある」


翔太は顔を上げた。

男は視線を合わせないまま続ける。


「JAPANだ、と言われて、急にバットが重くなった。

あのとき俺は、正しい言葉に飲まれた。

だから今、君に正しい言葉を渡したくない」


初めて見えた。

伝説の背中にも、傷の線がある。

その線が、妙に救いだった。



7. 送られないサイン


大会が近づくにつれ、マスコミの言葉が増えた。

「国民的英雄」ではなく、「JAPANの顔」。

「象徴」。

「物語の中心」。


言葉は軽いのに、肩に乗ると重い。


ある日、練習後の取材で記者が笑った。


「九回裏、同点、満塁。翔太選手ならホームランですよね?」


翔太は笑った。笑うしかない。

だが笑った後、胃の奥が冷えた。

笑いはときどき、逃げるための動作になる。


ホテルの部屋に戻ると、スマホに通知が溜まっていた。

監督からの短いメッセージ。

《明日、最終確認。打者専念の方向で固める》


そして、知らない番号からのメッセージ。


《九回裏。JAPANの物語を守るため、君は外れる》

《君が壊れるのが見たいわけじゃない。JAPANが壊れるのを止めたいだけだ》


“守る”という言葉が、優しさの顔をしている。

優しさの顔をした言葉が、いちばん怖い。


翔太は返信しなかった。

代わりにノートを開き、何度も同じ言葉を書いた。


《投げたい》

《投げたい》

《投げたい》


書くたびに文字が違う。筆圧が違う。怖さが混ざったり怒りが混ざったり願いが混ざったりする。

それでも書く。書くことで、声を残す。


送られないサイン。

それは、自分に向けたサインだった。



8. 一つ目の真実:代打の理由


最終確認の日。監督室は前より紙の匂いが濃かった。

机の上に戦略表が広げられている。九回裏の想定が何通りも描かれ、そこに赤いペンで丸がついている。丸は、逃げ道のない穴のように見えた。


監督は言った。


「翔太。九回裏、同点、場面によってはお前に代打を送る」


胸が締まる。

痛い。

国歌の旋律が耳の奥に蘇る。


「……なぜですか」


監督は一瞬目を伏せた。その伏せ方は、人を守る伏せ方だった。


「お前が今、JAPANの顔になってる。

お前が凡退したら、JAPANの物語が折れる。

それを避けたい」


一つ目の真実。

代打の理由は勝利だけじゃない。

“演出”だ。世の中が欲しい結末を守るための演出。


翔太は息を吸った。

「俺はJAPANの物語じゃない。俺は――」


言い切れなかった。言い切った瞬間、何かが壊れる気がした。

監督の目の下に疲れの影が見えた。監督もまた、JAPANの看板に縛られている。


翔太は短く言った。


「投げたいです」


監督は黙った。

揺れている沈黙だった。許可でも拒否でもない。

その揺れに、翔太は初めて“人間”を見た。



9. 二つ目の真実:投げない理由


医療スタッフの部屋で、翔太はMRI画像を見た。

黒と白の模様。自分の身体が、誰かの風景みたいに映っている。

そこに、自分の未来も写っている気がした。


医師は言った。


「壊れてはいない。けれど、積み上がりすぎている。

投げるなら、投げ方を変えなければいけない」


投げ方を変える。

それは野球人生を変えることだ。

反発が胸に湧く。だが反発の奥に、ほっとする部分もあった。変えれば続けられる。


医師は続ける。


「君は全部をやろうとする。

でも身体は全部を受け止めない。受け止めるのは心だけだ。

心だけが全部を抱えて、壊れる」


二つ目の真実。

投げない理由は才能の不足ではない。

未来の不足だ。未来を残すために、今を削る。


翔太は自分の手を見た。

爪の間に残る黒い土。

この手は何回もボールを握り、何回もバットを握った。

握って、ほどいて、また握った。


握りすぎて、ほどけない日が来るのが怖い。

怖いから無理をする。無理をするから怖くなる。

ループだ。



10. 二度目の沈黙


準決勝の前夜。ホテルの廊下は静かだった。

遠くで製氷機が作業する音がする。機械の音は、感情がないぶん恐ろしい。


翔太はエレベーター前で、あの番号の送り主――スポンサー窓口の担当、霧島きりしまに呼び止められた。

三十代の男。スーツの肩がぴったり合っている。笑顔が柔らかい。柔らかすぎて、紙みたいだ。


「翔太くん、ちょっといいかな」


霧島は低い声で言った。

周囲に聞こえないように。だが逃げ道がない距離で。


「君は、JAPANの看板だ。君が崩れたら、全部が崩れる。

スポンサーも、放送も、ファンも――君を中心に回っている」


翔太は答えようとして、喉が動かなかった。

黙る癖が、ここで出る。

二度目の沈黙。

それは怖さの反射だった。


霧島はその沈黙を“理解”として受け取ったみたいに微笑んだ。


「監督に言ってある。九回裏は、状況次第で代打。

君を守るためだ。君だって、守られたいだろ?」


守られたい、という言葉が首輪みたいに締まる。


翔太は小さく言った。

「……守られるって、外されることですか」


霧島は笑った。

「勝つために、物語を守るために。君は賢いから分かるよね」


その夜、翔太はベッドに横たわっても眠れなかった。

心臓が速い。部屋の空気が薄い。

スマホに通知が来る。霧島からのメッセージ。


《君は優しい。だからJAPANを壊さない》


“優しい”という言葉が、ハロゲンライトみたいに眩しい。

眩しくて、何も見えなくなる。


翔太はアドバイザーの言葉を思い出した。

「黙るのは癖になる」


癖を断つには、癖が出たことを認めるしかない。

翔太は暗い部屋で声に出した。


「俺は、怖い」


誰も聞いていない。だから嘘じゃない。

言った瞬間、怖さが少しだけ形を変えた。逃げる怖さから、向き合う怖さへ。



11. 三つ目の真実:JAPANという看板


決勝当日。スタジアムの空は高く、乾いていた。

国歌斉唱。数万人の呼吸が揃う。

翔太はその揃い方に、胃の奥がひゅっと縮むのを感じた。


JAPANという看板は、人を強くもする。

だが同時に、人の声を消す。


“JAPANのために”と口にした瞬間、

自分の怖さも、痛みも、迷いも、全てが“不要”になる。

不要になったものは、いつか別の形で噴き出す。


試合中、翔太は二度、打ち取られた。

打球の感触が芯を外れ、手のひらに痺れが残る。

観客席の空気が少し重くなる。

重くなった空気は、翔太の足首を掴む。


ベンチで霧島が笑っているのが見えた。

笑っているのに、目が笑っていない。

紙の笑顔だ。


アドバイザーは、ベンチの端でコーヒーを飲んでいた。

苦い匂い。

翔太の胸が、少しだけ落ち着く。苦さは現実だ。


アドバイザーが小さく言った。


「JAPANの看板を背負うな。

背負うと、転ぶ。

置け。足元に置け。

看板を踏まないように、でも看板に乗らないように」


翔太は頷いた。

頷きながら、肩の上の重さが少しだけ下がるのを感じた。



12. 九回裏の静けさ


九回裏。同点。一死満塁。

スタジアムの音が遠くなる。

観客の顔が波の模様みたいに揺れる。

汗が首筋を流れ、ユニフォームの内側が冷える。


ベンチ前で監督が代打カードを握っていた。

指が紙の縁を削るように動く。緊張の癖。

霧島が監督の斜め後ろで、何かを確信した顔をしている。


監督が翔太を見る。


「……行けるか」


命令じゃない。問いだ。

問いには逃げ道がある。

だが逃げ道は、時に自分を殺す。


翔太はヘルメットを被り直した。内側が汗で湿っている。

湿り気が、現実の手触りになる。


「監督」


声が震えた。震えたまま、言った。


「JAPANのために打てと言われると、

俺は、自分の声を失う気がします」


監督の目が少しだけ開く。

霧島が眉を動かす。

その一瞬の表情が、初めて“人を操作する側”の顔だった。


翔太は続けた。

息を吸う。土の匂い。芝の匂い。汗の匂い。自分の匂い。


「でも、ここで逃げたら、一生、俺の野球はJAPANの物語に負ける。

俺は――俺の野球のために立ちたい。

その結果、誰かが喜ぶなら、それは後から来ていい」


監督は代打カードを下ろした。

その仕草が、重い扉が開く音みたいに感じた。


「行け」


翔太はバットを握り、打席へ向かった。

足音が自分の鼓動と重なる。

打席に立つのは、いつも一人だ。

その孤独が、救いでもある。


投手が振りかぶる。

白球が国籍を持たない速さで迫ってくる。

縫い目が見える。

時間が遅くなる。遅くなるほど怖い。怖いほど、身体が正直になる。


翔太は振った。


音がした。

金属ではない。

芯で捉えた木のような、澄んだ音。


打球が夜空へ上がる。弧を描く。

祈りみたいに、しかし祈りより確かな物体として。


スタジアムが息を止める。

国歌の最後の一音が、耳の奥でふっと消える。


白球がフェンスの向こうに落ちた。


その瞬間、腰の奥に鋭い痛みが走った。

足が一瞬、言うことを聞かない。

膝が折れそうになる。

それでも走る。走りながら、痛みを“代償”として受け取る。


勝った。

そして、身体が正直に支払った。



13. 余韻としての白球


歓声は遅れて来た。

波が押し寄せ、身体を揺らす。

チームメイトが飛びつき、監督が抱きしめ、誰かが泣いている。

翔太の頬も濡れていた。汗か涙か分からない。


ベンチの端で、霧島が電話をしていた。

笑顔で、成功を報告する声。

その声がどこか遠い。

翔太は思った。

JAPANの物語を作る人間は、こうやって次の物語へ移る。

自分は――移らない。

自分は、ここに残る。痛みと一緒に。


アドバイザーが近づいてきた。

拍手はしない。ただ、短く頷く。


「逃げなかったな」


翔太は息を吐いた。

痛みが腰に残る。だが痛みは生きている証拠だ。

無痛の勝利は、たぶん嘘になる。


スマホが震えた。

霧島からではない。例の番号でもない。

監督からだった。


《すまなかった。

JAPANの物語を守るつもりで、お前の声を消しそうになった》


翔太は短く返した。


《ありがとうございました。問いにしてくれて》


送信して、スマホをポケットに入れる。

夜風が頬を撫でる。芝の匂い。汗の匂い。

どこかでコーヒーの苦い匂いがした。

スタジアムの外の屋台だろうか。

その匂いが、不思議と胸を落ち着かせた。


翔太はバットを握り直した。

握りすぎないように。ほどける強さで。


歩きながら、胸の奥で小さく言った。


「次は、投げ方を変える。続けるために」


その言葉は、誰のためでもない。

JAPANのためでも、自分を飾るためでもない。

ただ、続けたい人間の声だった。


スタジアムの外で、誰かが国歌を口ずさんでいる。

でももう、翔太の中で国歌は終わっていた。

代わりに、白球の音が静かに続いていた。

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― 新着の感想 ―
読み終えた直後、胸の奥が静かに熱くなりました。 スポーツ小説としての高揚感があるのに、いちばん残るのは「勝利」ではなく**“声を取り戻す瞬間”**でした。 冒頭の「祝福はいつも少しだけ暴力的だ」とい…
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