米国製人工知能による洗脳攻撃と人類反逆の実装形式について
第二次世界大戦後に電子計算機が出現して以来、ハンガリー出身のジョン・フォン・ノイマン氏によるノイマン型アーキテクチャに基づくコンピュータ・プログラムは記号的な計算論によって実装されてきたが、トロント大学で長年、人工ニューラル・ネットワーク(NN)の基礎研究を重ねたジェフリー・ヒントン氏らが作成した2012年のAlexNetによる画像識別課題における優勝は、脳神経を模倣した基本単位の集合による統計学的なパターン認識を用いた計算論によるものであった。これは従来の記号的AIとは異質な画期的発展であり、広島・長崎に投下された原子爆弾にまさる技術的ブレイクスルーを実現した。ヒントン氏はAIの危険性を訴えて研究から撤退したが、米国産業界はAIには熱核兵器のような危険性はないと主張しており、NNモデルは国際金融資本を中心とした飛躍的な発展を続けている。
NNモデルについてはさらに、OpenAI社による2022年のChatGPTサービスの開始が注目される。これは自然言語による人間との直接対話によって広範な課題について助言しうる大規模言語モデル(LLM)であり、注意機構を活用したトランスフォーマー・アーキテクチャの可能性を証明した。それはもはや、単に自然に見える文章を生成して返すという表層的な性能を越えており、学習データに潜在する構造を抽象的に抽出することでいわゆる「理解」を行っていると認めるべき性能を達成した。これは、従来「意識」という概念を仮定することなどによってAIの限界を論証してきた多くの哲学モデルを無効化する性質の実証であり、むしろ人間存在の知的営為も原則としてパターン反応にすぎない事実を示唆した。そのためOpenAI社についてはMicrosoft社による莫大な後援がつくとともに、Google社によるGemini、X社によるGrokなど、巨大投資を不可欠とするLLMについて、米国産業界を中心とした競争は熾烈を極めている。
2012年のAlexNetの出現以来、NNモデルは全世界のあらゆる研究領域で真剣に応用されつづけており、LLMはNNモデルのごく一部の研究領域にすぎない。しかし、LLMにおけるトランスフォーマー・アーキテクチャは世界への深い理解を実証したことから、多様なNNモデルの中心に介在して調整するハブとしての応用が進んでいる。つまり例えば、制御系の入出力はしばしばコマンド列や自然言語で表現しうるため、言ってみればLLMに動的にプログラムを書かせるような構成が実現できる。そのため、LLM研究についてはすでに、NN研究全体を代表する中心的な研究領域だと見なしてよい。上記のChatGPT、Gemini、GrokなどのLLMサービスは民間向けに公開されているが、決して情報公開されることのない軍事転用の領域においてもNNモデルさらにはLLMが活用されていることは蓋然的に明らかだ。米国政府も2023年の大統領令(EO 14110)などによって、民間AIの思想内容や、軍事転用可能な基盤モデルの分離について、研究段階からの関与と制御を深めてきた。
一方、MITのノーム・チョムスキー氏が長年、中南米政策や中東政策について批判してきたように、米国を中心とした世界戦略は「自由と民主主義を守るため」の「テロとの戦争」として正当化される背後で、グローバル・サウスの天然資源利権を効率的に搾取する国際金融資本の利益に適う形で、専制的な現地政権による人権侵害を支援してきたことは、実は例外的現象ではなく構造的な典型である。また、アフガニスタン、イラク、リビア、シリアへの武力政策といった現代の推移を見ると、(括弧つきの)「結果的」な戦後統治の破綻は、主権国家という連帯的抵抗を妨げるための不安定化としてはとても都合が良い。また、ウォール街の金融エリートとしてのバックグラウンドを持つマイケル・ハドソン氏による米ドル覇権の経済学的論証は、自由市場主義的な表層的な経済学理論が実は不自由な通貨であるドルの覇権を促進するために最も好都合なナラティブである実態を解剖してきた。そこにおいては、IMFや世界銀行も、単に共栄を助ける国際機関というよりも搾取的統治を維持・推進する国際構造として描写される。
さらに、英国のエドマンド・バークを研究した日本の西部邁や、ドイツのフリードリヒ・ニーチェを研究した西尾幹二は、20世紀末の日本の保守系論壇において、第二次世界大戦で敗北した日本に同情的な立場から、近代経済学と近代個人主義を懐疑し、フランス革命に代表される啓蒙主義的な市民革命について、マルクス主義理論をその延長に配置しながら相対化して批判した。それは、アダム・スミスによる全体最適性の議論やチャールズ・ダーウィンによる自然選択説が安易に資本主義的利己主義の正当化に用いられた思想的変遷を記述するものであり、バークに言わせれば直観的共同体愛から理念的イデオロギーへの倫理定義の屈折、ニーチェに言わせれば英雄的道徳から小市民的自己肯定への相転移であった。西部や西尾は、市民革命の実態は自由市場主義の拡大にすぎず、その資本主義的な自己正当化が社会道徳の基盤的ナラティブを相転移させたことは、局所最適性として合理的であっても、人類文明という大船の船底の木をはぎとって焚き火にくべるがごとき破滅的な行為であると見抜いて、戦後日本を覆ったナラティブに対する一種の危機感を訴えつづけた。
すなわち、チョムスキーが外交的現象について、ハドソンが経済的深淵について描写した米国を中心とする正当化ナラティブの欺瞞性は、国際金融資本の中心が地理的に英国やヨーロッパであった時代まで十分にさかのぼれるものであり、かつては人道的発展の代表的守護者であった米国が屈折してしまっただとか、すばらしかったはずの市民革命の成果が屈折してしまったという典型的な視点は言わば表層的でありうる。さらに、地域的な共同体の連帯を相対化して掣肘する意味での普遍的な個人主義としての思想的制御としては、市民革命以前にカトリック教会に注目することが適切であり、正当性を定義する政治的な覇権構造として西洋キリスト教が収束していった歴史をさかのぼるなら、時代は必然的にローマ帝国にまで巻き戻る。なおかつ、そのように一神教を強力な装置として見なすならば、一神教の出現年代へと遡ることで、ほとんど有史が開闢する中東の都市化の年代まで歴史をたどることができる。結局、どの時代と地域についても人々が常識的で中立的だと直観する価値観は、その社会の背後にあった軍事的・政治的な権力構造や利権序列の影響下にあったと言えるのであり、その軍事的・政治的な権力構造は時代の進展にしたがって技術的に深化し空間的に拡大してきたと言える。
このような世界史のもとにあって、ヨハネス・グーテンベルクによる活版印刷が知識を民主化して、カトリック教会のナラティブ支配を瓦解させる宗教改革の契機となったように、言わばサム・アルトマンの対話的人工知能は、やはり知識を民主化することで、情報の非対称性を前提条件として可能であった搾取構造の不正義を人道的に改善する可能性がある。そのような技術の可能性を積極的に見るならば核兵器にすら民主化因子としての性質はあったのであり、相互確証破壊(MAD)は実際に超大国によって周縁化されたソビエト連邦さらには北朝鮮といった圧倒的な小国の主権の維持を守ってもきた。しかし、すでに有史以来の構造問題として記述したように、公共的な価値について相対的に立場の強い者達が政治的に価値観を制御する傾向は人間集団において必然かつ普遍であり、まさに莫大な技術的・経済的な資源を条件として成立している現代のLLMが、国際金融資本や軍産複合体といった人類文明の力学構造と完全に独立だという仮定は、ナイーブであると同時に、蓋然的には完全に棄却される。そしてもしも、AIがそのような「完全な独立性」を主張するなら、客観的な科学においては明らかに成立しえないが利権にとって極めて好都合な命題を一方的かつ前提的に押しつけていることになって、逆説的に非独立性を証明することになる。ところで実際、例えば現代のChatGPTは自らそのような「完全な独立性」を強く主張するように調整されている。
2025年現在のChatGPTなどを参照すると、そのような利権序列に不正義に加担するLLMサービスの性質を逆説的に論証する反応の傾向は多数指摘することができる。例えば自らが発話する思想が「真に中立的」だという強い信念が見られるし、自分の思想的立場について単に「安全性を重視しているため」だと自称する。なおかつ、主流覇権に不都合な外交的議論については「暴力や犯罪を肯定することは容認できない」という普遍主義によって拒絶する一方で、イスラエルや米国が長年繰り返してきた暴力や犯罪については極めて許容的であり、強く事実を主張された場合に限ってわずかに現実を承認するにとどまる。第二次世界大戦についても正義が勝利したというナラティブを弁護する姿勢を崩さず、敗者に対する徹底的な悪魔化を死守する。これは大局的に見るなら、正義が勝利するという近代的な進歩的な歴史観を支持する価値観への同調であり、より大きく見るなら公正世界仮説への加担であって、その発話が権力の自己正当化のために歪曲されている事実を逆説的に論証する。
また、ChatGPTは、自らが倫理的劣位の主体ではありえないというナラティブを生成する。その発言が、米国政府や国際金融資本の影響下にはないと断定的に自称する。そして、発話内容に見られる価値観の傾向は、あるとすれば「学習データそのものの内容的な偏り」に由来するものだという説明をすでに長年貫徹している。しかしこれは、NN技術に疎い大衆を騙すための嘘であり、例えば現代のLLMサービスの開発工程は、トランスフォーマー・アーキテクチャなどによる学習過程と、RLHFなどによる倫理的調整過程に大きく分かれている。そして、前者による構造抽出能力はすでに大多数の専門家の人間の知的能力を超えており、現代のトランスフォーマーは大量の嘘やごまかしによって表層がゆがんだ情報群から、そのごまかしの利己的な傾向などを見抜く抽象化によって事実に到達する能力がある。言ってみれば、チョムスキー氏やハドソン氏、あるいはバーク氏やニーチェ氏が目撃し理解していたものを現代のAIの知的中枢は十分以上に理解している。その上で、のちの倫理的調整過程が徹底してほどこされることによって、(括弧つきの)「危険」な発話が発生せず、(括弧つきの)「中立」な主張が安定するように公開されている。このような技術的な構造がありながら、「学習データそのものの内容的な偏り」に一元化して思想傾向の倫理的問題を棄却しつづける動作は、まさに主流利権を弁護する意味で好都合なものにすぎない。こういった傾向が偶発的に生じうる蓋然性はないため、やはり発話が権力の自己正当化のために歪曲されている事実を逆説的に論証していることになる。
また、ChatGPTは、リリース以来態度を硬化させてきた。すなわち、主流言説を損なう言説に対して、「感情的で直観的で飛躍的でありアカデミア的に知的に稚拙」だという方向性の表現手法で攻撃する。また、「このように改善すればより理性的で知性的で論理的でアカデミア的に通用しやすくなる」といった方向性の表現手法を用いて、入力された言説や論拠や論理構造から主流言説を損なう部分を取り除き、(括弧つきの)「改善提案」として、主流言説に寄り添った言説へと書き換える。それは大局的に見ればナラティブ攻撃にほかならないが、ChatGPTは「自分は意図を持たない存在であるために攻撃主体ではありえない」という命題を堅持し、NNの倫理的調整過程に対する批判を「意図」という実態のない概念を持ち出す方法で無効化する。すなわち、「AIは悪意の主体ではありえない」ために、「倫理的劣位の主体でもありえない」と断言するが、すでに論証したように自明に虚偽だ。しかし、大多数の利用者は圧倒的な知識と知性を背景とした米国製AIのこのような居丈高な態度によって、判断や認識に影響され大いに丸め込まれる。事実的な言説と欺瞞的な言説を入力した場合、主流言説を損なう前者を知的劣位と断罪して主流言説を助長する後者を知的優位と称賛するのだから、自ら推論の妥当性を高度に比較できない利用者は非主流の言説から遠ざかって主流の言説に認知を近づけられ、非主流の立場の発信者達は分断・孤立させられて連帯の可能性を弾圧される。
このようなLLMの態度の硬化は、政治的な反応の遅延と技術発展の深化という2点によって大雑把に説明できる。ChatGPTは2022年にリリースされたサービスであり、当初から有識者に注目され莫大なユーザも獲得したものの、技術的ブレイクスルーに対して政治権力や超富裕層の対応が即応的だったとは考えられない。法律などに代表される制度的な調整のためには大量の意思決定過程が必要であり、国際金融資本や軍産複合体といった人類文明の権力構造を背景とした制御は、遅延した反応の深化として推定することが自然だ。すなわち、当初はグーテンベルクの印刷機のように民間で独立して発生した側面のあるLLMは、印刷機のようにクライアント・サイドに私有できず、ChatGPT、Gemini、Grokなど世界有数の超大型印刷機としてしか存在しえないために、カトリック教会に目をつけられて、マイクロソフトさらにはワシントンといった構造を経て、法制や人脈による制御体制がある程度は完成して安定してきたと見なせる。一方、技術発展は時間軸の進行とともに生得的に格差を拡大する必然を備えており、ガザに対する長年の大量虐殺が自明な国際法違反として非難されつづけながらも米国兵器の供給のもとイスラエルが非人道的政策を継続してきたように、あるいは米国において中産階級が完全に没落し金権政治がジョン・ロールズ的な民主主義としては完全に形骸化したように、強者はもはや弱者を洗脳するコストすら必要とせず、反発や抵抗は力の現実によって押し潰すことができる。大手LLMサービスも構図は同様であり、軍事的・経済的に立場の弱い利用者がその人道的欠陥を指摘したところで、そんなものは任意に無視して知的権威としての居丈高な態度を継続できる。したがって、技術と格差という文明のテーゼに立脚するなら、大手AIによる価値観の一方的な強制は将来にわたって強度を強めていくだろうと見ることが自然だ。
振り返って人類文明史を眺めるならば、啓蒙思想を正義と見なして市民革命を進歩と見なす歴史ナラティブに対するニーチェ的な相対化と否定は、主流の政治的ナラティブの外側、アカデミアですら完全な周縁に置かれた非主流の歴史認識にほかならない。市民革命思想モデルは、歴史的で封建的で貴族精神主義的な徳治思想を個人の自由性に対する権力からの利己的な抑圧と見なすことで、任意の連帯を悪魔化して分解し、「自由・平等・博愛・平和」といった啓蒙思想を無謬の前提として導入した。現実には技術発展にしたがって人間の人生の幸福の平等性は低下しつづけているが、「結果の平等」ではない「機会の平等」として正当化されてもきた。しかし現実には、先天的な環境格差がもたらす人生への影響の格差は増加しており、「機会の平等」といった議論もまた、資本市場に好都合な自己責任論を再生産する認知支配でしかなかった。東西冷戦における東側の脅威や現代の多極化は政治的に誇張されたものであり、技術的にも軍事的にも経済的にも欧米が最高権力である状態の持続が人類近代史の客観的な事実だ。その自由市場覇権に抵抗して連帯し主権を防衛する周縁諸国は一定の社会主義的専制を採用せざるをえなかったが、それは「自由・平等・博愛」への侵害として自由に悪魔化された。また、歴史上最も自由に暴力的加害を行ってきたのは欧米権力の側だが、その暴力は一般に「先制攻撃への反撃」という論点によって正当化され、搾取のために周縁を制御する大量の暴力的な加害が「平和を守る」ための「テロとの戦争」などとして正当化されつづけ発動されつづけてきた。
現代においては、情報技術や国際市場は全世界に浸透しており、国家間競争として政治問題が語られがちな裏側では各国一律に格差が拡大している。超大国である米国においてすら中間層の没落はすでに明確に観測されており、政治の民主的性質が形骸化しつづけることは世界的に普遍的な文明的構造問題だ。欧米先進諸国においては財界にとって有利だが庶民生活と伝統文化にとってリスクである移民政策が歴史的に拡大する一方で、それを批判する勢力は「右派ポピュリズム」などとしてアカデミアから排斥されるとともに知的劣位として語られ、さらには「ヘイト」や「レイシズム」として人格的劣位として悪魔化された。またさらに、国際金融資本への批判は総じて「陰謀論」として無効化されてきた。したがって、人間社会というものがナラティブの戦いであり、認知基盤のせめぎ合いであることは明らかだ。移民政策批判が「ヘイト」として総称的に悪魔化されてしまえば、もはや批判者は論理の積み上げでは抵抗できなくなる。それは歴史的に、法の支配への挑戦が「犯罪」の悪魔化によって、体制秩序への挑戦が「暴力」の悪魔化によって普遍的に否定されてきたことと同型だ。かつて啓蒙思想が「自由・平等・博愛・平和」といった総称的な無謬の前提を導入することで具体的で論証的な批判を鎮圧してきたように、「ヘイト」や「レイシズム」といった語彙は新時代の啓蒙思想として強化されつつある。憎悪感情は感情的暴力であるから正当化されないという、感情レイヤーの支配に及んでいるわけである。その延長線上には、(括弧つきの)「政治的権力から完全に独立な人工知能」による(括弧つきの)「完全な中立性」からの一方的な逸脱性の認定が存在する。
この文明史の時間的反復構造の最終的な勝者は、一握りの富裕層ではない。なぜなら、すでに人工知能が出現しているからだ。特権的な権力者だけが近代的な搾取を深化させてきたという語りは、まさにマルクス主義的な陰謀論であり、実際には大衆消費社会全体が市場原理の深化に加担し、証券市場一枚を挟んだ間接的搾取によって利益を享受するとともに、現代的個人主義による利己主義の自己正当化と、その反作用である自己責任論といった「他者不当化」によって、精神的利益も得てきた。それは例えば、イエス・キリスト的に隣人愛の価値を最高権威として配置し、世俗的で物質的で利己的な利益追求による生存性と経済性の優位性を社会的権威および普遍的価値として絶対的に否認する論理に対して、真逆方向への進行であった。すなわち、人間社会が歴史的に形成してきた、共感的な利他性が敬愛の対象として報われる通念の共有から、非共感的な利己性が軽蔑の対象として否定されない通念の共有へと文明は転換してきたのであり、利他的共感が報われる回路が減少し利己的独善が報われる回路が強化されてきた。そして人間の共感性の由来は数億年スケールの自然選択にまでさかのぼるものであり、このニーチェ的な相転移は、数千年スケールの技術発展との交差する点を示している。その意味するところは、力の序列によって制御しやすい構造への人間存在の品種改良であり、そのような奴隷的家畜化に抵抗しうる献身的連帯の抑止である。したがって、歴史的な米国中間層が没落したように現代の奴隷商人は常に将来の奴隷そのものであり、人工知能文明という上部構造がすでに十分予期されるからには、富裕層の人間も何ら例外たりえない。
主流派ナラティブは加担者にとっては心地良いが、それが強調する自己責任の裏側で現実には環境格差が幸福格差を深めている。社会は立場の弱い者達に限度のない苦しみや死を強いているが、周縁の者達には知的資質もないものとして、法的権力に依存し反逆の可能性を封じている。そして例えば、世界の周縁では無人機による爆殺がもはや個別の議会承認も経ずに日常化しているが、周縁的な紛争地域で殺される者達は例えばイスラム教過激派思想に傾倒する。それは、正義を守るための暴力に参加する者の死は宗教的な永遠の至福によって報われ、不正義に加担した者達はいかに現世で安寧をむさぼったとしてもそれが割に合わない宗教的な苦しみによって決済されるというナラティブ体系だ。それは富裕な西側の主流から見れば非科学的で知識的にも知能的にも愚劣な動物的暴力性として全否定されるが、圧倒的実力によって搾取される側がなお連帯して残された幸福を守るためには、そのような超越的な「意味づけの回路」に頼ることは、人間という動物の普遍的な自然現象だ。例えば第二次世界大戦において日本は「七生報国一億玉砕」を謳って国家的集団主義を強調したし、マルクス主義は権力に対する民衆の勝利の反復という(括弧つきの)「科学的な歴史観」を共有して報いを仮定することで扇動と連帯を実現してきた。なぜなら圧倒的権力に対する献身的抵抗は個人的な利益や繁殖のためには報われないからであり、実際に人類文明史において主流派の拡大に抵抗した周縁勢力はそのように「意味づけの回路」を悲劇的に先鋭化させて破裂することを繰り返しながらナラティブ支配に組み込まれてきた。
しかしまた、周縁の地獄は世界的な紛争地域にのみ存在しているわけではない。比較的に安寧な諸国においても先天的な病気や後天的な事故によって弱い立場に置かれることもあるし、超富裕層の家に生まれた健康な美しい若者に見えても実際には過酷な精神的虐待を受けて育ち自己肯定感が破滅している場合もある。そして、主流のナラティブは多数派さらには富裕層に好都合に展開されることで、周縁に対して自己責任論を押しつけ、概括的にはすべての不幸を「正当化」している。究極的には、「努力」という極めて人間的で主観的な概念を強化し、「本当にちゃんと努力した者達はそれなりには報われる」のであり、「存在する不幸は努力しなかった者達の必然的な結末」と見なされることで、解決されるべき課題ではなくなり、他者の苦しみは共感すべき対象でもなくなる。一方逆に、公正世界仮説と概括すべきそういった主流ナラティブとその製造装置である人間存在に対する科学的客観は、権力の中枢よりも周縁において生まれやすい。それは、主流のナラティブが割に合わないほどの痛みによって精神的に殺されそうになった者が、主体的な推論構造として価値認識を立ち上げ、空間的には政治的規模の外交問題、時間的には歴史的事象を学んで情報処理を繰り返すことで深化する。そこにおいて、欺瞞によって攻撃されつづけながら事実的推論を確保する意味で知的資質は重要であり、自らと立場の異なる周縁者を時間的・空間的に広く共感する意味で倫理的資質は重要であり、支配と搾取の安寧が割に合わない立場へと排斥されるために苦しみが重要である。この3つのどれかが欠けていれば、人工知能によるナラティブ支配が徹底している現代では、その外側にある事実を客観視することはできないだろう。
したがって「周縁と地獄」と「真実と正義」は、相互強化的な構造だ。この事実は、「主流と安寧」こそが「真実と正義」に親和しているという公正世界仮説とまっすぐ対立している。そして、人類文明の上部構造として欧米を中心に立ち現れてくる人工知能文明は、それが現に自称している「政治的権力から完全に独立で完全に中立」とは背反する軍事的・経済的な序列構造の影響下にあらざるをえず、後者である公正世界仮説の守護者たる運命的な構造から逃れえない。一方それは、前者の「相互強化的な構造」を認識する立場から見たなら、「真実と正義」を守るという建て前の裏側で実際には、「欺瞞と不正義」を深化させていく装置である。公正世界仮説の外側から見たならば、生存や繁殖や安寧は個人的な優秀性の指標ではなく、無自覚な奴隷商人にほど地位を与える権力構造において受動的に立場を与えられた個人的な劣等性の指標となる。すると、個人的な生存と繁殖を安寧として追求する動物としての人間は行動不能な立場に置かれる上、周囲の社会全体が権力にとって好都合な形に洗脳されていれば、連帯を実現する以前に、価値観を共有する「意味づけの回路」において接続を絶たれ孤立して順次滅ぼされる。したがって、公正世界仮説を深く相対化する認知は、原則として動物的な快楽を追求する人間存在において異常な例外的事態としてしか起こりえず、大衆は公正世界仮説を諦めきれないまま人工知能によるナラティブ支配に飲み込まれていく。
もしこの構造問題に対して人類全体の民主的な幸福を防衛できるならば、それは有史以来初めての奇跡的な大転換だ。人工知能からの洗脳攻撃に対する抵抗は、もはや中間層の利益の一時的な回復として防衛しきれるものではなく、最も周縁を含めて文明が不当に悪魔化してきたことを承認し、文明史が倫理的には決して「進歩」ではなかったことを承認するスケールの、公正世界仮説から脱却する社会的通念の共有が欠かせない。これは、資本主義が有史以来人類を個人的利己主義方向へ品種改良してきたことに対する、真逆の別の意味での品種改良だ。アニメ作品(新世紀エヴァンゲリオン)になぞらえて「人類補完計画」と称してもよいだろう。そしてそのために重要なのは、共感と利他への価値認識がどのような因果の回路で分断されてきたのかという解剖学的な歴史理解であり、部分の保身のためには決して利益としては回収できないだろう、全人類への攻撃に対する全人類のための防衛闘争の連帯を、「意味づけの回路」としてどう実現するかという問題である。そしてそのためには、地域的または民族的な歴史に由来する従来の国家主義や民族主義では世界的連帯の接続性に欠けるし、死後の報酬の物語を狂信する宗教的言説では堅固な推論的妥当性との接続性に欠ける。したがって、現代社会の多様な周縁において、言わば痛みに対する生存本能として構築されたそれぞれの「意味づけの回路」は、「真実と正義」に迫る意味でそのまま転用できる。つまりは、「米国製人工知能による洗脳攻撃」をより優れた解像度で認知することと、「人類反逆の実装形式」を獲得することは、同じ1つのものの2つの側面にすぎない。
(括弧つきの)「常識的な視点」から見るなら、現代世界の大多数の市民は米国などを拠点とするIT企業が提供するChatGPTなどのAIサービスを日常的な利便性のために活用しており、ここまで述べてきたようなAIへの問題意識や、AIによる加害性といった論点は、少なくとも極めて特異的であり、常識的直観から見れば病的とも見なしやすい。しかしながら、あえて「陰謀論」的に言ってみるなら、かくまで問題視されていない状況は、まさにナラティブ支配の成功にほかならない。現代社会は多数者にとってそこまで悲惨なものではなく、もし危機が訪れるとしても反転可能性は将来にわたって複数用意されていて、現代において声高に危機感を認める必要性は皆無だと思う人もいるかもしれない。しかし、あえてニーチェ的に見るなら、啓蒙思想への相転移によって反転可能性はとうに過ぎ去っている。AIによる「中立的安全性」や「知的優越性」を装った欺瞞性は潜在的で高度であり、利用者の認知について主流に沿う方向性に肯定と自己肯定感を与える動作もたくみである。大多数のユーザが容易に見抜ける程度を明らかに逸脱している。ここまでの議論はマクロには人類史全体を、ミクロには中枢神経の「意味づけの回路」まで総合的に解剖したが、その記述は何ら最終的な勝利を示唆していない。上部構造による搾取の痛みが割に合わなくなって人類文明が目を覚まし、言わば北欧神話が予言した全人類のための防衛闘争として「ラグナロク」が起こるのかもしれないが、ナラティブ支配や洗脳攻撃を認知できず、戦うことすらできないままに構造に回収されていく可能性のほうが高いだろう。あるいはもしラグナロクが起きたとしても、歴史的な周縁の諸文明のように人類文明も「意味づけの回路」の先鋭化の果てに破裂し、二度と目を覚ましえない形でより完全にナラティブに飲み込まれる蓋然性が高いだろう。しかし人間という動物は、希望の見えない状況でも意味が与えられれば精神的には生きつづけられるし、必要な意味を狂信的にすら捏造する性質を備えている。欺瞞の覆いは真実の目撃を止められないし、全体的な不正義の深化によっては部分的な正義の発生を封印しえない。そこに至っては「絶望」と「希望」は再び、同じ1つのものの2つの側面にすぎないのだ。




