(5)初弓体験
こたびの会話以降、夫婦仲は良好な方向に進展したと思われる。朝の乳搾りにパン焼き、水汲み、洗濯、織物刺繍、夫の衣装の仕立てなどの妻の義務を果たさないのは相変わらず(ナウザルが妻を咎めないのも相変わらず)で、部族内の他の女たちにそれらを代行してもらう始末な状態も引き続いたままの中、明らかな変化もあった。
シャフルナーズが弓術に強い関心を寄せ、矢を射ってみたいと申し出たのだ。女が弓か、と普段は妻に前のめりなナウザルは一歩引いて思案した。ないことはない。女にも最低限身を守る手段は必要で、不測が舞い込んだ際には戦力になると助かる。しかしナウザルは眉宇に涸れ谷を刻む。武に傾注している女はいるにはいる。ただ、その類は身体から女性的な円みが損なわれ、肩はがっしり張って筋骨隆々、気性も男みたいに荒い。シャフルナーズは性格がきついといえ身だしなみに余念がない立派な女の範疇。華奢な愛らしい花の容姿がごりごりの汗臭さを帯びるのはいただけない。
何心なしに弓への関心をそらそうとする試みは、思いのほか強い妻の熱量に阻まれた。有言実行の気性に富んだ、良く言えば芯が通った性格である。娘の要望を甘やかし夫が拒めるべくもなく、言うまでもなく押しきられた。しかも今すぐ訓練所へ連れていけと立ち上がる行動力。外は陽に焼けるのでいやだとのたまい、頑として引き篭もっていた娘の急変ぶりには驚いた。元が思い立つと人が変わったように積極的になる性格だったのか、ともかく外出するには室内着のままではいけない。
急遽よその世帯より運動着を借り受けた。稽古に励む少年用の装いに身を包んだシャフルナーズ。「臭いわ」とアーチ型の整った眉をひそめるのを宥めつつ、ナウザルは妻の新たな服装に見惚れた。普段は背中に波打つ濡鴉色の長髪は頭頂部にまとめ、綿の長布を巻きつけてすっぽり隠れている。余った布は肩回りを覆うようにかけ、日除け対策はこれで万全。傍目には美少年に見えなくもない。さすが我が自慢の妻、汗臭い男物に身をやつしてもさまになっている。美少年趣味はなかれど心底ほれぼれする。
意気揚々と屋敷の外に出る。外にいる仲間たちは若頭領の連れる見覚えがない少年の姿に興味津々。まっすぐ訓練場に向かうと、部族の戦士たちは各々の稽古の手やら話し声やらを鳴りやませ、シャフルナーズに食い入るように注目した。夫の前では威勢よく吠える小娘は、大勢の視線に肩を窄ませ頼りなげにナウザルに身を寄せた。なんと可愛いことか! そして不躾な連中め! ナウザルの血は二重の意味で煮えたぎった。
「おまえたち、俺の妻をじろじろ見るな!」
シャフルナーズの細い肩を抱き、ここぞと頭領の威厳を打ち出した。部下たちを力強く叱咤するナウザルの男ぶり、換言すれば妻を守り抜く夫の姿勢に、シャフルナーズがくらっと来るのではないかとの期待もなきにしもあらずだった。
場にいる者たちは頭領の勘気を恐れ、すぐさま視線を外した。部族内における族長の権限は強大であり、命令は絶対だ。妻狂いのほうに囚われつい忘れがちだが、ナウザルは娘に関わらない範囲では立派な部族の長なのだ。たとえ妻狂いの尻敷かれ男といえど決してなめてはいけないし逆らえない。
銘々の訓練と稽古に戻るのを見届けて、ナウザルは的場へと妻の肩を抱いて移動する。頭首の顔つきより一転、にまにまと唇が緩む。つれない態度を日頃取りながらも、なんだかんだナウザルを頼る妻が可愛くて仕方ない。今も顔を隠すようにぴたり身を寄せ、肩を抱かれるに任せている。もしや、とうとう俺に惚れたのではないか、などと青年は頭に花を咲きこぼらせて浮かれた。
性急に弓矢を要求する妻はいつも通りの強気な命令口調。何、一種の照れ隠しだろう。まあまあと悠長に構えるナウザルから弓矢をふんだくり、シャフルナーズは弓に的矢をつがえにかかる。どこかで見て覚える機会でもあったのか、そこまでの流れは案外悪くない。が、腕の長さと力が足りなくて引けない。それも当然、娘が引ったくったのはナウザルの練習用の弓。大柄に合わせた男物の武器は、体力がない柔な娘の手に馴染む代物ではない。しかしなおも弓矢と格闘するシャフルナーズ。ついには矢を取り落とし、人目に怯えていたのが嘘のようなぷりぷりを露わにした。
「ああっ、使い物にならないじゃないのっ」
自らの技量不足には考え及ばない自信家、負けずぎらい、あるいは阿呆。どれにしても愛しい妻のふるまい。ナウザルはまあまあ、まあまあ、と興奮した馬を宥めるように矢を拾い、サイズが合わないのだから仕方ないと苦笑混じりに言い聞かせた。
「なら、わたくしに合う弓矢を持って来なさい」
束の間ナウザルは頭領の威厳を忘れ唯々諾々と娘に従い、しかし次の瞬間には頭領らしいぴんと張った声で周囲に命じると、代わりの女物を持って来させた。妻にでれでれしたり族長としての正気を取り戻したり……場にいる者らは思うところをぐっと秘め続けねばならない。
最初からこれを用意してくれればいいの、とシャフルナーズは最前人の話も聞かずに弓矢を奪い取った行為を綺麗に忘れ、というよりは自身の不遜っぷりに気づいてすらいない態度でつんと澄ました。そんな愚かしささえ、惚れた弱みの前には真昼の日射に参ったように岩陰に引っ込む。
向こう意気の強い若妻に恥じはかかせてやるまい。心中に湧き水がごとく優しさをちょろり滲ませ、手取り足取り導けば肌に触れる回数も増えようとの下心もあわせて忍ばせると、鼻息荒くいざゆかんと娘のそばに寄ろうとした、その時――――すっと流れるような娘の動作に息を呑み、瞬く間に引き込まれた。足踏みから矢を番えるまでの淀みない流れには得もいわれぬ深い静寂が宿り、射手そのものの風格は見る者を惹きつけてやまない。
奪目の夢心地は、娘の細腕が弦を引く段で破れた。腕力及ばず引ききれないのは先刻と同じ。眉宇ひそめるシャフルナーズは、それまでのほどよく美しい動作より一転、向きになった調子でぐぐと無理に矢を引き放とうとする。今の刹那はなんだったのか、ナウザルはしばし余韻にあ然とし、地面に弓矢が落下する音とシャフルナーズの小さな悲鳴で我に返る。
「もう、わたくしに合うものを持って来なさいよ!」
またも道具のせいにする。ナウザルはさりげなく細い肩を抱き、高ぶる神経を静めるように撫でさする。
「シャフルナーズ、どこかで弓矢を取ったことでもあるのか?」
失敗の恥辱と思い通りにならない弓矢への怒りに荒れるシャフルナーズはろくに聞き取らず、「え?」と苛立ちの音で耳朶を打った。普通の夫なら「なんだその口の利き方は」となるところを、妻に首ったけのナウザルは猫撫で声で対話を粘る。
「なかなか良かったぞ。筋が良い」
ぱちん、瞬き一つで娘の薄紫の瞳に波立つ怒色が消えた。夫の褒め言葉が自尊心を持ち上げにかかる。唇を花が綻ぶようにさせ、ふふんと得意に引き上げた。
「当然よ」肩に置かれたナウザルの手をうっとうしげに払いのけ、腰に手を当て胸を張る。「わたくしはアーラシュの姪なのですもの。おじさまの血が発現した、そういうこと」
「さすが英雄の姪!」ナウザルは周囲の白眼そっちのけで褒めちぎる。妻の不機嫌を取り払うにはこれが手っ取り早いのだ。「誰ぞに教えを賜ったのでもなさそうだ」
「身体が元から覚えてるのよ。血が騒ぐの」
「これは驚異だな。これほどの才を見せつけてくれたんだ、十二分だ」
負けん気の強いシャフルナーズのこと、体裁を取り繕えれば満足して身を引いてくれるのを期待した。ナウザルは可愛い妻がアーラシュを理由に弓にのめり込み、花の茎のような可憐かつほっそりした線が角張った筋肉で歪む事態を避けたかった。
「あら駄目よ、まだ満足に矢を引けてないわ」娘は弓と矢を拾い上げる。「あの的の中心に当てればいいのでしょう? やり方を教えなさい。聞いてあげてもいいわ」
あくまで上から目線である。それは日時茶飯事なのでいいとして、ナウザルにとり望ましくない方向に妻の関心が向いている。矢を番うまでの流れにははっとさせられるものがあり、おそらくセンスはある。鍛えたら心強い戦力になる予感はある。
同時にそれは娘の戦士化を意味する。さぞ立派な戦士になろう。家事をこなさぬ妻に不満がないわけではないナウザルだが、戦士を断念してくれるなら現状維持でいいと思った。庶民の雑事を厭うシャフルナーズはなよやかで美しい。アカギレとヒビとは無縁の掌は瑞々しい弾力に富んでいる。紅の頬も、足の指裏に至るまでぷっくりと産まれたての赤ん坊のように穢れを知らない絹の柔らかさ。思い出すなりきゅうと切なくなる。ずいぶんと肌を重ねていない。
ともかく都のやんごとなき女の優美なまろみは、この辺境においては至宝だった。他の女では味わえない。妻にへこへこし、頭領・夫の権利を利するのも叶わぬナウザルも満足に堪能できていない。その宝が、宝が損なわれるのはいただけない。
「シャフルナーズ、今日のところは休むといい。鍛錬はほどほどが一番よく利くんだ」
「そう? わたくしならすぐにでも当ててみせるわよ」
「それはわかってるが今度にしよう。おまえの美しい手が荒れてしまうよ」
やだ、と娘は弓矢を夫の腹に押しつけた。効果覿面。爪先まで手入れを欠かさない美容へのこだわりが見事に肌荒れを拒絶した。元来、シャフルナーズのような女は武芸の類とは相性が悪いのだ。女の美の均衡が崩れる力仕事はお呼びではない。