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(4)歴史が語る話・語らざる話

 若頭のいっそうの身の入れようは、仲間たちには頼もしく映った。動機が妻に認めてもらいたいがためというのは相変わらずでありながら、他の女に見向きもせぬ熱中ぶりには、それほどいい女なのかと部族の男らの関心をそちらへ誘った。だが族長の妻にそうした欲望を抱くのは死罪に値する。他部族の長に比べ穏健な考えを持つナウザルとて、溺愛する妻への不埒な行為に対しては血走った強硬過激派に早変わりするだろう。少なくとも表向きは、妻狂いの若頭の不興を買う愚は誰も犯さなかった。とまれ部族の長のやる気は全体の向上に繋がり、部落の防衛力はよりいっそう堅固になった。


 アーラシュのようにかっこうよくを意識して、ナウザルは毎日弓を引き絞る。いつ訪れるとも知れない外敵に備えてというよりは、妻の心をも射止める一念で的の中心に的矢を放つ。もちろん、結果的には外敵への有効な攻撃手段にもなるのでなんの問題もない。

 一日の仕事を終えれば部屋に引き篭もる妻の元を(弓を携えて)訪ね、話と食事のみを済ませて帰る日々。隙あらばいつでも抱く準備ができているのは言うまでもない。しかし、普段は持ち込まない弓をあの日はたまたま持ち込み、それを機に愛する妻との会話が増えたのは願ってもない僥倖だった。

 建国の英雄にして叛逆の大罪者、弓の名手であったアーラシュが繋いだ絆はことのほか大きい。何せ辺境周辺に居を構えるナウザルら含む複数の部族間では、アーラシュは正真正銘の英雄なのだ。いにしえの昔に神が地上にあり、民を統べていた時代にさかのぼる。広大な荒野を治めるレムザール神には人の女とのあいだに成した二人の兄弟がいた。そのうちの一人が誰あろうアーラシュだ。彼は弓矢の飛距離によって領土拡大に貢献し、武勇を馳せた。そればかりかその聡明さで父のまつりごとに助言を与え、民をまとめる資質にも優れていた。誰もが次期王座を彼の中に見た。

 しかし、息子のもう片方、兄の嫉妬が優れた弟に降りかかる。狡猾な兄はまず、父であるレムザール神を唆し、更なる版図拡大への闘争心を煽り、不毛ないくさへと走らせた。父の庇護が遠のいた隙を逸さず、愚かにも弟の謀殺を遂げたのだ。レムザール神は世界を撹乱させた罰に目を潰され、今も永遠の荒野をさ迷い続けている。以降、国の中枢の宮殿の玉座とその周辺には、邪悪な兄の一族がのさばっている。自分らの正当性を立てんがためアーラシュこそを戦へと仕向け、神不在の王座を乗っ取ろうとした暗愚な叛逆者に貶め、神をも恐れぬ歴史歪曲を演じているのだ。

 偽りが広まる中で、真実の歴史を知る一部の正しい者たちの口承がひそやかに語り伝えられてきた。かつて弟君と懇意にし、宮廷を追われた者たちだ。地位を剥奪された彼らは影響が及びにくい東部辺境地域に移動した。つまり、ここら一帯の遊牧民や定住部族は、アーラシュに仕えていた者たちの遠い子孫に当たる。アーラシュこそが正統な王であると確信し、権勢をふるう現国王一族を簒奪者と見なしひそかに目の敵にする者が多い。

 初めナウザルがシャフルナーズに気をよくしなかったのは、そういう事情からだった。我らが英雄を卑劣なる手にはめた憎き敵の子孫。それが証拠に性格もお粗末極まりなかった。今となっては痘痕にえくぼ、惚れた弱みできつい性格引っくるめ、指先の細かい所作、不服げな表情、髪の毛一本に至るまで愛おしい。それに、敵側の思想に染まっていると思われた妻がアーラシュ個人を認めていた事実は計り知れない幸運だった。あわよくば、真実の歴史への理解を得られるやもしれぬ。夫婦なのだから、足並み揃うに越したことはない。

 ナウザルはついに妻に話す決心を固めた。ここに至るまで悩みに悩み抜いた。なんといってもシャフルナーズの身内の悪口は避けられないからだ。悪口自体は屁でもない。可愛い妻に嫌われやしないか、そればかり憂えた。嫌われるのがいやでいやで猿みたいな欲情を抑えているくらいなのに、これで不興を買いでもしたら救いがない。それでも生涯を連れ添い合う妻。部族の隠密な方針、秘密の歴史観には従ってもらわないと困る。

 例によってシャフルナーズの寝室に寄り、膝上に愛しい妻を乗せようとして懐かない猫のように拒まれるまでの流れはお定まりだった。青年はいかにも重々しげに語り出す。秘められた歴史を初めて耳にしたシャフルナーズの反応は、あまりにもあっさりしていた。


「まあ、そうだったの⁉︎」


 そう、拍子抜けするほどあっさりと、ナウザルが語るもう一つの歴史を受け止めた。娘に連なる血族を悪しざまに評したにもかかわらず、むしろはめられたアーラシュに同情を示し、うるうると煌めく露の雫を赤薔薇の花びらのごとき頬に伝わせた。


「おかわいそうなおじさま! 心優しいお方がいきなり王座に目がくらむだなんて、おかしいと思ってたの。けれど誰も疑わないのよ、ほら見なさい、わたくしが正しかったのだわ!」


 シャフルナーズは泣いたり得意になったりと忙しい。表情てんてこ舞いな妻の様子は眺めていて飽きない。


 そう、おじさまだ。何千年と隔絶する神代を生きた人物なのに、アーラシュはシャフルナーズの叔父に当たる。アーラシュの兄にして王座を占めるイーラは半神半人の身ゆえに、現在に至るまで不老長寿を保ち続けているとされている。まさしく生ける歴史。ただし、その輝かしい麗姿を宮廷の外に晒すことは滅多になく、シャフルナーズも生まれてこの方実父の姿を目にしていない。麗しのシャフルナーズの実父であるならば、その面差しを窺わせる噂に違わぬ美貌であるのは間違いないだろう。ナウザルたち辺境部族が不老不死説に懐疑的なのに対し、シャフルナーズらみやこびとは王は神代より引き続く一個人と認識している。可愛いシャフルナーズと話す際は、ナウザルは胡乱な感情は胸のうちに収め、まこと王は不老不死なのだと相手に合わせる。神の孫娘、アーラシュの姪の立場を誇らかに思う娘に嫌われたくないのと、娘のこの世のものとは思われぬ天国の芳容ほうように説明をつけるには、近縁に神を持つほうが道理だと心底うなずけるというのも事実だった。


「シャフルナーズ、俺の話を信じるのか?」


「だって真実なのでしょう? おじさまは悪いお方ではなかったのでしょう?」


 くりくりした双眸でじいっと見上げてくる妻にどきどき胸をときめかせ、ナウザルは応と答えた。「だが、この話を真実と受け止めては、おまえは自らの父親を貶すことになりかねない」


 そこは触れるべきではなかったのか娘は思案顔になる。ご機嫌を損ねてしまったやもとナウザルは生き心地を失う。万が一にも嫌われるやもしれぬ恐怖は、予期せぬ砂嵐に巻き込まれ遭難しかけた時の緊急事態にも匹敵する。愚問だったとびくびく返事を待つ夫に妻は、


「お父様は何か深い事情がおありだったのだわ。当時のことは当事者しか知りえないものだしね」


 なんとまあ上手い具合の辻褄合わせ。当時は当事者しか知り得ない、それを言ったら部外者たる後世の人間が何をどう語れど憶測でしかなく詮方ない。ひとまずナウザルとしては妻に嫌われる事態は避けられたので、ほっと胸を撫で下ろした。

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