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蜜の娘  作者: 遠弥響
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(2)かわいい妻

 頭領がどうも都の新妻に頭が上がらないらしい空気は部落全体に広がった。


「そんなはずあるか」


 若頭領じきじきの否定は、仲間たちには痩せ我慢としか映らない。屋敷からは新妻の高飛車な高音が毎日飽きもせず威勢よく鳴り響いているのだから。


 いい加減、猿のようにきいきいうるさい王女様を躾けないかとの苦情を一向に処理できない。狩猟や魔物退治は活き活きとこなせるのに、細枝のような小娘一人に太刀打ちできないようでは男がすたる。仲間たちから忠言を受け、いよいよまずいなと娘の寝所に乗り込むなり返り討ちにされる。ナウザルは自覚せざるを得なかった。自分は娘に心底参っている。惚れた女には罵倒されても無礼な態度を取られても平気な人間なのだ、と。いや、誰でもいいわけではない。これまで情を交わしてきた女に対しては優位を保ちながらも、心のどこかで物足りなさを感じてきた。シャフルナーズはどうだ。世の大抵の女を淑やかならしめる利かん気、愛らしい唇から放たれるのが嘘みたいな悪態の毒矢。屋敷の一部屋にどんと強烈な存在感を占める新妻に、ナウザルは一方で謎の安心を得ていた。


 男優越の社会において、妻の我がままを許容するナウザルの機微は常人には理解されないだろう。シャフルナーズの清々しいまでの図々しさはもはや雲上の高みに達して見え、一種の畏敬の念を青年に抱かせた。王族の血筋が発する威力か、娘そのものの実力か、ナウザルの心は抗しきれない力強さを前に膝を屈していた。愛らしい見た目以上にじりじりと、娘の強烈に照りつける魂そのものにナウザルは恋の奴隷とほだされ、次第に都人への向こう意気と妻への強がりを緩和させたのだった。


 愛が芽生えた上は、ますますもって可愛い新妻を求めずにはいられない。ナウザルは娘に抱かせてもらえることを夢見て、まずは夫婦の会話を試みた。内装の模様替え、煌びやかな宝飾品、美容品、目当ての食物と、妻の容赦ない注文にできうる限り応え、無理なら目的のぶつに近づける努力をした。繰り返すうちに夫の誠心誠意は幾らか妻の心に届き、身の上を嘆く一方だったふるまいに変化をもたらした。


 寝所での無理強いがなくなり、自分のために立ち働く夫の真心に気持ちが動き、自分本位が過ぎていた娘一人の世界にようやく夫の存在が占めるようになってきた。「野蛮人にしてはまあまあではないの」と、青年の話に耳を傾けるようになる。日頃の訓練や家畜の世話、出先で起きた出来事ら日常生活の他愛ない話を聞き、また、部族の歴史や直近の話、ここら一帯の掟を学んだ。なぜわたくしが蛮族の歴史を学ばねばならぬのという不満も、はきはき語る夫の笑顔を見るうちに、まあ、仕方ないわねと煙のように消えるのだった。娘もまた、むさくるしいと敬遠していた相手に絆されつつあった。


 進展する夫婦仲。笑顔を覗かせるようになった妻の変化に、ナウザルはここぞと夜の営みを迫る。ひと月も経ち、夫婦の義務を二回しか果たしていない事実は男の沽券に関わった。また、初潮を終えた成長期真っただ中の若妻は、ほんのひと月で色香が深みを増して見えた。香料かおりものとは別の女が発する天然の香りに、否が応でもナウザルの男が刺激され、身体の敏感な部分をむずむずさせた。

 さすがにそろそろよいのではないか。寝所で可愛い妻のそばににじり寄り、手を握り、誘いかけたナウザルにシャフルナーズは身をのけぞらせ、「いやっ」と無慈悲に青年の手を払った。


 理由は男のごつごつした身体の感触、興奮に上昇した体温が熱苦しいったらないから。初夜は破瓜の記憶がまといつき、二度目も全然気持ちいいものではなかった。筋肉質な重たい肉体に圧をかけられ、不快な熱気が篭り、ただただ男臭さがもたらす息苦しさに耐える行為でしかなかった。会話をする分には心を解くが肌を重ねるのはそれとは別問題。夫が色気を出したとたんにシャフルナーズは会話で築かれた信頼が裏切られたように感じ、血相を変えた。


「出てって!」


 ぎゃあぎゃあ火が点いた妻は手に負えない。その夜は、ナウザルは負け戦のじめじめをまとって帰るのに従った。夫婦喧嘩の騒音がもろに漏れ、噂は一瞬で部族全体に浸透する。うまくいっているとうそぶく割にはこの体たらく。頭領ともあろう男が、牝馬一人御せないでどうする。周囲に呆れられてもナウザルは気にしない。妻の尻に敷かれている自覚は多分にあった。それをもって男の癖に、と思われていることも。


 それがなんだ。青年はとうに開き直っていた。尻に敷かれようが、御せなかろうが、妻を愛しているのだ。仲間の誰かが「若頭はイカれてる」と言った。ああ、イカれているとも。妻にはイカれているが、訓練、食糧調達、集落周辺の見回り、たまの他部族や商人との談合・交渉・商取引など、頭領として、戦士として、男としての勤めは怠りなく果たしているのだから問題なかろう。事実するべき仕事を果たしているおかげで、呆れられながらも妻との件は大目に見られていた。


 男の癖に、と言われる分には気にしない。


 が、「あんな小娘」を枕詞に妻を貶める声には烈火のごとく怒り狂った。きさまは何様だ、なんの権利があって頭領の妻を侮辱するのか、恥知らずの馬鹿たれがと。誰がいつ、俺の可愛い妻に邪念を抱く許可を下ろした? そういう不埒な輩は頭領の権利を行使してタコ殴りにしてやった。嫁のきつい性格に嘆き、気落ちしているナウザルの湿気が仲間内に伝染し、結果として内心で娘を憎んだり軽んじたりする悪感情が育まれ、つい唇が緩んだ面はあるのだろう。ナウザルも娘の性格は反感を生む類でどうしようもないなとは感じているので、傍目にどう映るかは十分理解している。


 だからと妻を悪しざまに言う者を許す気は毛頭ない。シャフルナーズへのあらゆる形の侮辱行為はナウザル自身に対するものよりも許しがたい。自分なら跳ね返す気構えができている。だがシャフルナーズは図々しく見えてまだほんの小娘、あれでも繊細な箱庭育ちの愛らしい小鳥の心を秘めている(と信じている)。この上なく守りたくなる可愛い愛玩動物のような笑顔を見せてくれることがあるのだ、間違いない。あの男は妻に狂っているとそしりたいなら好きなだけそしるがいい。ただし、妻に対する中傷は万死をもって償わせる。

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