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蜜の娘  作者: 遠弥響
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(1)うるさい嫁

 ぎりり、と矢を引き絞る。


 狙うは遠方に取りつけられた的の星。目をすがめ、神経を研ぎ澄ませ、ただ一点の獲物に定め――びゅん、と解き放つ。


 矢はしなりつつまっすぐ、とす、と小気味よい音を立て、見事に中心に刺さった。が、射手はこの程度で浮き立ちはしない。こんなものは朝飯前、型通りだった。


 ただ一つ、見るからに面妖なのは、見事な弓術を演じてみせた者の正体がほんのか細い娘である点だった。長い黒髪を長布を幾重にも巻いた被り物にしまい込み、部族の少年の装いで肌を覆い隠している。腰には矢筒、右手にはがけ。矢筒から一本矢を引き抜いて、再び弦につがえる。


 娘の名はシャフルナーズ。生粋の都人にして、宮廷育ちの王女だった。楽器に舞踏、詩に裁縫、ねやで夫を喜ばせる手管など、一般に高貴な女に必須とされる教養を学び、後宮という箱庭で丹念に磨き上げられた世間知らずの無垢な花、といえたのは半年前までのこと。


 穢れを知らぬ無垢なみずみずしい花は、ありていに言えば政略の具として辺境蛮地に売りつけられ、右も左もわからぬに蛮族の若き首領により花を散らされた。言わずもがな、娘の夫その人。初対面でのお互いの心証は最悪の極み。シャフルナーズは夫となる男を見た目からして粗野で下品、無教養で不潔、礼節を知らない愚かな蛮人と決めつけ、馴染んだ後宮の清潔さとは大違いの田舎の不衛生も手伝って、露骨に文句や泣き言を連ねた。あまりな環境の急変に、姫君の繊細な硝子細工の心はきしみを上げた。


 くだんの夫ナウザルも個人的な都への感情が障壁となり、輿入れしてきた王女を素直に歓迎できる心境ではなかった。そこへ持ってきて娘が青年と家と土地と部族の悪態をヒステリックにまき散らし、よよとかわいそうな我が身を嘆き出したため、荒れに荒れまくった砂埃を引っかぶり全身砂塗れになった時のどんよりした気分にさせられた。


 部族を挙げての婚礼と宴を済ませた夜。寝室にて初夜の対面に臨んだ、部族を率いる若き頭領の嘘偽らざる心のうちは、正直、雀躍たる情欲に胸踊らせていた。陽に焼かれていない真珠の肌、ぬばたまの美しい黒髪。労働とは無縁の繊細な指つきに、薔薇色の頬、セレジュクの赤い実のような鮮やかな唇。ぱっちりとひらいた双眸は愛らしく、淡い紫色の瞳が上等な宝石の輝きを放っている。出迎えから宴、夫婦の時間に至るまで娘の顔を守っていた面紗ヴェールを外した時の衝撃といったら、どん! と若頭領の脳天から爪先にかけてを雷がつがごとく貫通した。


 娘の身も世もないふるまいに下がっていた気分は消し飛んだ。気のないふうを装おうにも目が離せない。ナウザルの男の本能は疼いてやまず、新妻を抱く手は迷いなく伸びた。

 大柄の鍛えられた身体で口うるさい小娘の細身を組み敷くのはたやすかった。義務と欲望の狭間に思いを遂げるも気持ちのいいものではない。ばたばた激しい抵抗を示し、後半は疲れきった諦観で行為を受け入れる娘の苦悶に興を削がれ、大いに不安が残る夫婦生活の出だしとなった。


 予想通り、険悪な夫婦仲が続いた。シャフルナーズは僻地の埃っぽい環境と夫のむさくるしさを嫌い、ナウザルはやたら命令口調の我がままな妻に辟易した。青年のほうは見た目ばかりは珠玉と輝く新妻の柔肌を楽しみたい欲があった。妻の義務を果たせと夫の権利を行使すれば、あろうことか「熱苦しいから嫌!」とものを投げつけだした。


「都の女は従順と聞いていたのにっ」


 腹いせとばかりに剣術の訓練相手になまくらを打ち込んだ。主に利かん気な妻にちなむ日頃のストレス発散を兼ね、訓練は以前にも増してはかどった。

 有事は他部族と衝突することがあれば、都の軍人崩れや野盗の襲撃を受けることもある。備えるべきは人間のみではない。砂漠と荒れ地には多くの恐ろしい魔物が潜んでいる。とりわけ幻影を見せるのは厄介だ。対象者の望むものを見せ、死ぬまで叶わぬ願望に縛り続けるのだ。人間の弱った心が魔物どものつけ入る隙になるとあっては、精神を鍛える上でも毎日の鍛錬が欠かせない。


 前述の揉め事もなく平和な期間が続いていたところに飛び込んだのがシャフルナーズ。娘は魔物や人災に代わる、目下の悩みの種となった。かわいく見えて切実な問題だ。よそから攻めてくるのを撃退すればそれきりの魔物や人間の敵と違い、シャフルナーズは族長館に常在している。ナウザルは一生口うるさい娘の面倒を見、添い遂げねばならぬのだ。


 外見ばかりは規格外に華やいでいる美少女のせめて柔肌だけでも、と望めど跳ねつけられる。なんとか達成できたのは初夜だけ。妻の義務を果たす気のない妻に腹立ち、憂さ晴らしし、落ち込む日々。


 王女様だからお高く止まってるんですよ、と訓練仲間はなんの慰めにもならない言葉をかける。


 夫なら生意気な牝馬を厳しく躾けるべきだ、と別の者が息巻いた。


 躾ける、ナウザルにその発想は湧かなかった。生意気な妻には厳しく当たるべし。そうだ、そうでもしないと子作りできない。仲間に発破をかけられ、新妻の寝所へと矜持を胸におもむく。妻を従わせる気概で臨み、誰が夫たるかを肌に刻んで思い知らせる。それがいけなかった。

 娘の顔色には単なる嫌悪を通り越し、ナウザルへの怯えが混じり出した。部屋を訪ねた人物を青年と認識するなり身をこわばらせ、がちがちの防衛態勢に入る。


 ナウザルの受けたショックは多大だった。敵対者に対する態度を娘に向けられたことが心外であり、思いのほか苦痛だった。おびえる小獣のような娘になんの手出しもできない。なんの戦果も得られぬどころか返り討ちにあったかの心持ちですごすご退室するよりほかなかった。


 非力な相手に手も足も出ない自身に、ナウザルは一番驚いた。背が高く、身体つきに恵まれ、その上肉体を磨き上げた青年が小娘をねじ伏せるのはたやすい。言葉で通じぬなら実力行使すべし。しかし、ナウザルが腕力で小娘を従わせたのは初夜とその次の二回切り。それ以降は手を出さなかった。娘の横暴ぶりにほとほとやる気を削がれたからだ、傷ついた小獣をそっとしておいてやってるだけだ、と青年は固く信じ込もうとしていた。

 実のところ、ナウザルは若い新妻に逆らえないでいた。二回目までは強い義務感と欲望が勝り、嫌がる妻を無理やりに従わせることができた。ところがそれ以降は見た目ばかりは可愛い娘に嫌われるのを無意識に恐れるようになり、強く出られなくなってしまっていた。

 まさか、立派な体格と若気の勇躍を誇り、女にもそこそこモテる有望な若頭領たる自分が、華奢で世間知らず、屋敷の奥の間に引き篭り、なんの役にも立たない癖に口だけはいけしゃあしゃあとよく動く、小癪極まりないただ飯食らいの小娘に逆らえないなど男として、戦士として、一部族の長としてあるまじき恥じであり、周囲の者らに示しがつかない由々しき事態であった。愛の消失を恐れる小獣は、身内にこそ潜んでいた事実。青年がそれと素直に向き合うのはだいぶ時を要した。


 夫が強く出ないのをいいことに娘の強気には拍車がかかり、元来尽くし立てるべき夫たる人を当然のように尻に敷くようになっていた。蛮地に嫁がされたせいで、身体の入念なお手入れもおしゃれも美容にいい食事もままならない。屋敷も壮麗な宮殿に比べればあばら屋にも等しい。宮殿の馬小屋のが遥かにましだった。

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