第2話:記録されなかった少女
逃走の果て、崩れた旧区画でアテルイは出会う。
記録には残っていない、けれど確かに覚えていた少女・サヨ。
その瞳が、“存在の証明”となる。
逃げた先に、何があるのか。そんなことはわからない。
神殿を出て、崩れかけた旧区画を這うように進む。屋根が抜け、床の一部は崩落し、かつて記録殿に付属していた居住棟の名残も今はただの瓦礫だ。
この場所に逃げ込んだ理由は、ただひとつ。俺の記憶の底に、ここで誰かと過ごした断片が残っていたからだ。
名前も、顔も、声すらはっきりしない。でも、確かに“誰か”がここにいて、俺を見てくれていた記憶があった。
その記憶だけが、今の俺を支えていた。
逃走の代償は大きい。身体は限界で、腹も減っていた。熱はある。傷も多い。だがそれでも、ここまで来れたことがすでに奇跡だった。
冷たい風が吹き込む廊下。壊れた棚。崩れた柱。その隙間に身体を押し込みながら、俺は静かに目を閉じた。
視界の奥、ノイズのように揺れる“赤い瞳”。それだけが、失われずに残っている。
サヨ「……君、だれ?」
少女の声が、瓦礫の向こうから響いた。夢の続きのような錯覚に、俺は思わず目を開いた。
目の前には、一人の少女が立っていた。黒髪を束ね、白と青の上衣。小柄な身体に、神殿の巫女服に似た意匠が残っていた。
だけど――その目は、確かに俺が覚えていた。
サヨ「……君、アテルイだよね?」
その名前を、俺は初めて聞いた。けれど、なぜか胸が反応した。
アテルイ「……なんで、それを……」
サヨ「忘れたわけじゃないよ。アテルイは、記録にいないだけで、ここにいた。私は、知ってるよ」
胸の奥に残っていた、微かな灯。正体もわからないまま信じ続けてきた“誰か”が、今こうして目の前にいる。
少女は俺の手を取るでもなく、ただそこにいてくれた。その温度が、傷よりも痛くて、温かかった。
サヨ「逃げてきたんでしょ? ここ、もう誰も使ってないから。隠れるにはちょうどいいよ」
その言葉が優しくて、俺はただ静かにうなずいた。それ以外にできることなんてなかった。
この世界で、自分を認識してくれる誰かがいるという奇跡。それがどれほど大きな意味を持つか、俺は言葉にできなかった。
サヨ「君の名前、ほんとは何ていうの?」
俺は答えられなかった。記録がなければ、名もない。ただの“存在しない者”だった。だけど――
サヨ「アテルイで、いいよ。私はそう呼んでたから」
少女の言葉は、記録ではなかった。けれど、それ以上の意味が俺の中に残った。
記録に刻まれなかった名前を、記憶で呼んでくれる者がいる。たったそれだけで、存在は証明される。
サヨ「私の名前は、サヨ。……忘れてたでしょ」
サヨ。そう、確かにその名を俺は知っていた気がした。どこか遠いところで、何度も呼ぼうとして届かなかった名前。
でも今は、届く。記憶の底で濁っていた声が、はっきりと形を持って浮かび上がる。
アテルイとサヨ――記録の外で繋がっていた二つの記憶が、ここで再び重なった。
この瞬間だけは、神も律も、属性すら関係なかった。
世界が認めなくても、目の前の彼女が俺を認めてくれるなら、それでいい。
サヨ「私ね、ずっと待ってたんだよ。アテルイがもう一度、ここに戻ってくるって」
そんなことを、誰が信じる? 世界にいなかった者が、誰かに“待たれていた”なんて。
でも今、目の前の彼女――サヨは本気でそれを信じていた。その事実だけが、俺の中にある空白を埋めてくれる。
サヨ「私は覚えてた。記録から君の名前が消えても、私の中にはちゃんと残ってたから」
記録に依存しない記憶。信仰でも、義務でもなく、自分の意志で“忘れなかった”という証明。
サヨ「私が忘れなかったのはね、アテルイがここにいて、優しかったからだよ」
世界は俺を“いなかったこと”にした。でも、サヨは“いたこと”を肯定してくれた。
存在とは何か。記録に刻まれること? 属性を持つこと? いや、違う。
たった一人の記憶の中に、“アテルイ”という名前が残っている。それだけで、世界に抗う理由になる。
この世界には、記録で証明されない“真実”がある。だからこそ、俺は立ち上がる。
もう一度、生きるために。もう一度、記されるために。今度は、誰にも消されないように。
俺は心の底から思った。この記録が、俺とサヨの始まりだと。
名前を呼ばれ、記憶されることが、生きる理由になる。
次回、記録外の異端者たちとの邂逅と、新たな決意が始まる。