表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

第2話:記録されなかった少女

逃走の果て、崩れた旧区画でアテルイは出会う。

記録には残っていない、けれど確かに覚えていた少女・サヨ。

その瞳が、“存在の証明”となる。

逃げた先に、何があるのか。そんなことはわからない。


神殿を出て、崩れかけた旧区画を這うように進む。屋根が抜け、床の一部は崩落し、かつて記録殿に付属していた居住棟の名残も今はただの瓦礫だ。


この場所に逃げ込んだ理由は、ただひとつ。俺の記憶の底に、ここで誰かと過ごした断片が残っていたからだ。


名前も、顔も、声すらはっきりしない。でも、確かに“誰か”がここにいて、俺を見てくれていた記憶があった。


その記憶だけが、今の俺を支えていた。


逃走の代償は大きい。身体は限界で、腹も減っていた。熱はある。傷も多い。だがそれでも、ここまで来れたことがすでに奇跡だった。


冷たい風が吹き込む廊下。壊れた棚。崩れた柱。その隙間に身体を押し込みながら、俺は静かに目を閉じた。


視界の奥、ノイズのように揺れる“赤い瞳”。それだけが、失われずに残っている。


サヨ「……君、だれ?」


少女の声が、瓦礫の向こうから響いた。夢の続きのような錯覚に、俺は思わず目を開いた。


目の前には、一人の少女が立っていた。黒髪を束ね、白と青の上衣。小柄な身体に、神殿の巫女服に似た意匠が残っていた。


だけど――その目は、確かに俺が覚えていた。


サヨ「……君、アテルイだよね?」


その名前を、俺は初めて聞いた。けれど、なぜか胸が反応した。


アテルイ「……なんで、それを……」


サヨ「忘れたわけじゃないよ。アテルイは、記録にいないだけで、ここにいた。私は、知ってるよ」


胸の奥に残っていた、微かな灯。正体もわからないまま信じ続けてきた“誰か”が、今こうして目の前にいる。


少女は俺の手を取るでもなく、ただそこにいてくれた。その温度が、傷よりも痛くて、温かかった。


サヨ「逃げてきたんでしょ? ここ、もう誰も使ってないから。隠れるにはちょうどいいよ」


その言葉が優しくて、俺はただ静かにうなずいた。それ以外にできることなんてなかった。


この世界で、自分を認識してくれる誰かがいるという奇跡。それがどれほど大きな意味を持つか、俺は言葉にできなかった。


サヨ「君の名前、ほんとは何ていうの?」


俺は答えられなかった。記録がなければ、名もない。ただの“存在しない者”だった。だけど――


サヨ「アテルイで、いいよ。私はそう呼んでたから」


少女の言葉は、記録ではなかった。けれど、それ以上の意味が俺の中に残った。


記録に刻まれなかった名前を、記憶で呼んでくれる者がいる。たったそれだけで、存在は証明される。


サヨ「私の名前は、サヨ。……忘れてたでしょ」


サヨ。そう、確かにその名を俺は知っていた気がした。どこか遠いところで、何度も呼ぼうとして届かなかった名前。


でも今は、届く。記憶の底で濁っていた声が、はっきりと形を持って浮かび上がる。


アテルイとサヨ――記録の外で繋がっていた二つの記憶が、ここで再び重なった。


この瞬間だけは、神も律も、属性すら関係なかった。


世界が認めなくても、目の前の彼女が俺を認めてくれるなら、それでいい。


サヨ「私ね、ずっと待ってたんだよ。アテルイがもう一度、ここに戻ってくるって」


そんなことを、誰が信じる? 世界にいなかった者が、誰かに“待たれていた”なんて。


でも今、目の前の彼女――サヨは本気でそれを信じていた。その事実だけが、俺の中にある空白を埋めてくれる。


サヨ「私は覚えてた。記録から君の名前が消えても、私の中にはちゃんと残ってたから」


記録に依存しない記憶。信仰でも、義務でもなく、自分の意志で“忘れなかった”という証明。


サヨ「私が忘れなかったのはね、アテルイがここにいて、優しかったからだよ」


世界は俺を“いなかったこと”にした。でも、サヨは“いたこと”を肯定してくれた。


存在とは何か。記録に刻まれること? 属性を持つこと? いや、違う。


たった一人の記憶の中に、“アテルイ”という名前が残っている。それだけで、世界に抗う理由になる。


この世界には、記録で証明されない“真実”がある。だからこそ、俺は立ち上がる。


もう一度、生きるために。もう一度、記されるために。今度は、誰にも消されないように。


俺は心の底から思った。この記録が、俺とサヨの始まりだと。

名前を呼ばれ、記憶されることが、生きる理由になる。

次回、記録外の異端者たちとの邂逅と、新たな決意が始まる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ