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第1話:存在しない者の記録、始まる

記録に載らない存在が、神の“正しさ”に抗って立ち上がる。

異端とされても、生きることを選ぶ。これは最初の足跡。

《記録名:アテルイ/属性不明/記録不可》

《記録:抹消、失敗確認》


神殿の空気が、ひび割れた。


律師たちの列は静止し、祈祷殿の巫女たちも動かない。ただ俺だけが、祭壇の上で膝をついていた。

息が白い。冷たい石の感触が膝から骨へ染み込む。空間に満ちていたはずの記録の光は、今はどこにもなかった。


抹消は、失敗していた。


「……属性干渉、無効化。記録反応……完全消失……?」

「この存在、記録に載っていない……それどころか、記録に“書き込めない”……?」


低くざわめく律師たちの声が、石造りの柱に反響していく。異常だと、彼らもわかっている。

けれど、神の名のもとに選ばれた者たちは、それを認められない。


異常は否定され、異端は排除される。それがこの世界の“正しさ”だ。


「拘束を維持。第二段階の干渉準備。属性が通じないなら、肉体ごと押さえ込むしかない」


誰かが命令を下す。その声は震えていた。でも、それでも抹消は実行される。俺が“存在してはならない者”だから。


抹消される。今度こそ、物理的に。


嫌だ、と思った。明確な言葉ではなかった。でも確かに、それは俺の中から湧き上がってきた。


理由なんかいらなかった。理屈ではない。ただ、生きたいと思った。


俺は、立ち上がった。


律師が目を見開く。巫女の祈りが止まる。抹消されるはずだった“異物”が、自らの意志で動いた瞬間。

それは、神の定めた記録の外で発生した、最初の反逆だった。


俺の足元に刻まれた石は、律神の印だった。そこに立つ資格は、神に認められた者しか持たない。

けれど今、それを踏みつけているのは、記録にさえ存在しない俺だった。


「抑えろ!」


雷の光が、空間を裂くように飛ぶ。術式が完成するより速く、俺は駆け出した。


神殿の回廊を走る。誰にも記録されない足音が、石を打つ。


痛い。身体は重い。呼吸が荒れる。でも、それすら心地よかった。

今、自分が“ここにいる”と、確かに感じられたから。


後方で何かが爆ぜる。雷か、火か、それとも抑制属性か。どれでもいい。当たらなければ、意味はない。


このまま逃げきれるとは思っていない。だが、それでも――


俺は、止まらない。

存在しないまま、生き延びる。


律師の視線は冷たかった。まるで俺が“間違って生まれた存在”だとでも言うような目だった。

信仰と正義に裏打ちされたその眼差しは、理屈も哀れみも通じない。


あいつらは疑わない。神が正しく、記録が絶対であり、そこに異常があれば、それは排除すべき“欠陥”だと信じて疑わない。


だが、俺にはその正しさが理解できなかった。いや、受け入れられなかった。

世界が定めた秩序が俺を否定するのなら、俺はその秩序に従う必要はない。


名前がなくても、生きている。属性がなくても、こうして息をしている。

記録がなければ、生きる意味すらないというのなら――そんな世界こそが間違っている。


踏み出すたび、足が震える。恐怖か、それとも怒りか。あるいは両方かもしれない。

でも、それでも止まれない。止まったら、次こそ本当に消される。

存在ごと。名前ごと。思考すら残らない、絶対的な抹消。それだけは、どうしても拒否したかった。


記録殿の外れ、今にも崩れそうな旧区画。その片隅で、俺は生まれたらしい。

誰にも記録されず、誰にも覚えられず、存在の証明もないまま。

そこにいたのは、俺のことを“見てくれた”一人の少女だけだった。


名前は、思い出せない。でも、その瞳の色だけは焼きついている。

まるで、“忘れられたもの”を見るような、優しさと寂しさの混ざった赤だった。


彼女が唯一の証人だった。俺という存在を知っていた、たった一人。


今、あの子がどこにいるのかはわからない。

けれど――もしも再び会えたら、俺は聞いてみたいと思っている。


自分は、本当に“いなかった”のか。それとも、“記されなかっただけ”なのか、と。


逃げ続けるしかなかった。記録にも、歴史にも、祈りにも、自分の名は刻まれない。

だがその代わりに、この足で踏みしめる現実だけが、俺の“生きている証拠”だった。


傷ができてもいい。血を流しても、何も残らなくてもいい。

ただ、この世界に抗った足跡だけが――俺の存在そのものだった。


たとえ誰にも見られず、記録されなくても。たとえ、誰かの祈りにすら含まれなくても。

俺は、この世界にいた。確かにいた。だから、生きる。抗って、生きる。

抹消されるくらいなら、全てを焼き尽くしてでも、“いた”ことを証明してやる。


それが、俺の最初の願いだった。


記録に残らないということは、誰の記憶にも残らないということ。

それが、どれほどの孤独か。

「いた」と証明するだけで、こんなに苦しい。

でも、それでも歩き始めた。次回、記録の外で誰かの目と再び出会う。

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