ミリアムという名の少女
「皆様、撤退してください――!」
苦渋に満ちた顔で、一人の少女が叫ぶ。彼女の名前はミリアム。
世界最大の宗教組織ルミシア聖法会の司祭にして創世の女神の声を聞くという魔術師である。
「ダメだ!ここで引いたら俺たちがここに来るために犠牲となった者たちの覚悟が無駄になる!」
ミリアムの言葉に真っ先に反論したのは大陸で最強と謳われる剣聖アルベルト。
彼は人類の仇敵にして悠久の時を生きるとされる不滅の悪魔ニンギルを討伐する為に派遣された特攻部隊の隊長である。
「わたくしたちの目論見が甘かったのです。悪魔ニンギルの力は強大過ぎる。女神様の予想すら上回ったこの者には、今の人類では勝てません。ですから撤退を。ここで人類側の最高戦力であるあなた方まで失えば人類の防衛線は完全に崩壊してしまいます」
アルベルトはギィっと歯を食いしばる。確かに彼女の言う通りだと思ってしまったから。
女神の巫女であるミリアムが天命を受けたことにより始まった今回の大規模反攻作戦。各国の最高戦力を惜しげもなく投入した今回の作戦は、膠着した戦線を一気に押し上げ、史上初めて悪魔ニンギルの居城へと人類の戦力を送り込むことに成功した。
総勢40万の侵攻軍のうち、悪魔ニンギルの居城に到達したのはたった21名の特攻部隊のみ。それでもここにいる精鋭たちであれば悪魔ニンギルを討伐することが出来ると思っていた。
しかし、実際に悪魔ニンギルと対峙してアルベルトが感じたのは、これは人間の敵う相手ではないという直感。
24年の人生の中で自分より強いと思う戦士にはそれなりの数いた。先代の剣聖や、アルベルトに剣の扱い方を教えてくれた師匠。老獪な賢者はアルベルトが思いもよらない方法で勝ちをもぎ取っていったし、ルミシア聖法会の最高司教は文字通りの化け物だった。
だがしかし、そんな彼らに対した時ですらもアルベルトは絶対に勝てないとは思わなかった。
寝首をかけば、協力すれば、搦手を交えれば、弱点を見つければ。例えどれほど泥臭くても、勝ち続けるのが人類の守護者たる剣聖の役目だ。
なのに、この悪魔には一切の勝ち筋が見出せない。鍛え上げた剣筋も奴の肌を傷つけることが叶わず。ここにいる人類側の精鋭たちがいくら協力しても、隙一つせない。
対してこちらは手数の多い悪魔の魔術に蹂躙され、21人いた戦士が10人を割っている。
「この私がお前たちを逃がすと思うか?」
「逆に逃げられないとでも――?」
今、アルベルトたちがギリギリで戦いの程を為しているのは神域の魔術師と謳われるミリアムが、悪魔ニンギルの手数を削いでくれているからだ。
「アルベルト様。わたくしが時間を稼ぎます。その間に動ける者を連れ、この城を脱出してください」
「ミリアム、君も一緒に逃げるんだ――」
ミリアムは一瞬、アルベルトの方を振り返ると首を横に振った。
「アルベルト様。あなたが神殿にやって来た日のことは、今でも鮮明に思い出せます。わたくしの手を引き、外の世界に連れ出してくれたこと。祭りを楽しむ人々の笑顔。屋台の串焼きが美味しかったこと。子供たちの言葉。永遠にも感じられる時の中で、貴方様と過ごした時間は、一番に輝いていました」
ミリアムはふんわりと笑いながら杖を振る。
「では――ごきげんよう」
「ミリアム――!」
眩い光に包まれ、消えていく少女の身体。
それが、アルベルトが見たミリアムという少女の最期の姿だった。
* * *
「結界か。まさかこの程度で私を足止め出来るとでも?」
白い光によって区切られた空間の中で悪魔ニンギルは不敵に笑う。
「数分程度ならば可能ではないでしょうか?」
対してミリアムは特に表情を浮かべることなく、冷たい氷のような瞳でニンギルを見据えていた。
「数分か……。これは神話時代の封魔結界だな。確かにこれならば私でも破壊するのに手間が掛かる」
落ち着いた雰囲気で言葉を紡ぐニンギルであったが、その内心では少しだけ驚きのようなものを感じていた。
「まさかこれほどの術式が人類側に遺されていたとはな。古の大戦で失伝したものとばかり思っていた」
「そうでしょうね。長らくこの術式を扱える程の魔術師が現れなかった為、完全に御伽噺の産物と成り果てていました」
ミリアムは最早戦う気はないのだろうか。杖を下ろして戦闘態勢を解いていた。
「ほう、ではそれを扱える程の魔術師を失ったとあれば人類側の損失は計り知れぬな。そしてその後逃げた者たちも殺してしまえば人類など数年以内に容易く滅ぼせる」
「虚勢は張らなくて結構ですよ、悪魔ニンギル。この結界に貴方を閉じ込めた時点でわたくしは賭けに勝ったのですから。だって貴方――」
――この城から出られないのでしょう?
そう言いながら妖艶に笑ったミリアムを見て、ニンギルは僅かに眉を動かした。
何故それを知っている。それを聞くのは簡単だが、それでは彼女の言葉を肯定することになってしまう。
「お前は何者だ――?」
「何者と言われましても、わたくしはルミシア聖法会の司祭、ミリアム・フォーザムです。巷では神域の魔術師と呼ばれているそうですが、その肩書には興味がありません」
神域の魔術師という名前はニンギルの元にも届いていた。
若いが恐ろしく強い魔術師だという。
しかし、いくら強くてもただの魔術師や司教が神話時代に起こった出来事を知るはずがない。
この事実を知っているのは自分自身とあの大戦を生き残った数名の部下だけだ。人類側でそれを知っている者など――。
「女神ルミシア」
そう口に出しながら、悪魔ニンギルは頭を振る。
唯一人類側でこのことを知っているのは、この忌々しい封印を施した女神だけ。
ルミシア聖法会には、稀に女神の声を聞く巫女が現れると聞いたことがあるが、あれは真っ赤な嘘であることを悪魔ニンギルは知っている。
何故なら女神ルミシアは遥か昔に自分の手で殺したからだ。
拷問し、四肢を引きちぎり、首をねじ切り、その遺体には火をかけた。
悪魔との大戦争に敗北し、無様に泣き叫び、慈悲を願ったあの現人神の最期の姿は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「あの時は、とても苦しかったんです」
しかし、その思考を読み取ったかのようにとつとつと語り始めたミリアムの言葉によって、悪魔ニンギルは回想の中断を余儀なくされる。
「初めての戦争。初めての拷問。お父様は、それがあんなにも苦しいものであると教えてくださいませんでしたから」
「何を言っている」
「ですから魔術の才に恵まれ、アルベルト様という強力な戦士もいる絶好の機会。あの時の仕返しも兼ねて、本来であればこれで終わらせるつもりだったんです」
その不可解な言動から悪魔ニンギルは目が離せなくなっていた。
この少女の言葉は最後まで聞かなくてはいけない。そう自然と考える程に。
「悪魔ニンギル。無駄な抵抗は止めて、いい加減滅びなさい」
「この状況を無駄と言うか。寧ろ無駄な抵抗をしているのはお前たち人類の方ではないか?」
「そんなことはありません。何があろうと最後に勝つのは人類ですから」
その言葉には覚えがあった。遥か昔、たった一度だけ自分と対峙した女神。
――さっさと死んでください、害虫みたいなアホ悪魔!こんなことしたって無駄です。最後に勝つのは私なんですからね。
「なるほど。どういう理屈かは知らんが、五月蠅い羽虫がしぶとく生き残っていたというわけか」
道理でしぶといわけだと悪魔ニンギルは納得した。あの大戦に敗北した時点で人類の滅亡は確定したというのに、何万年もの間人類は悪魔との戦線を維持し続けている。
その裏には、かつて自分を封印した女神が絡んでいたとなれば理解も出来る。
「だが、それこそお前は悪手を踏んだのではないか?」
仮にこの少女が女神ルミシアその人だとすれば、力量の差が分かった時点で何を追いても逃げ出すべきだった。高々人間の強者を数名逃がす為に殿を引き受けるには、女神の命は重過ぎる。
「このわたくしに逃げる手段がないとでも?」
「逆に逃がすとでも?」
先程とは立場が反対だ。しかし、これ程の結界に閉じ込められでもしない限り、悪魔ニンギルがこの城の中にいる者を逃がすことはありえない。
それはミリアム自身も理解しているのだろう。彼女はその言葉とは裏腹に決死の瞳をしていた。
これはこれ以上生きるつもりがない者特有の瞳である。
「そうですね。わたくしの生はここで潰えるでしょう。ですが希望は守りました」
そう言いながらミリアムは杖を構えた。悪魔ニンギルは反射的にその腕を切り落とそうとする。
しかし、悪魔ニンギルの魔術は悉くミリアムの魔術によって撃ち落され、肌を傷つけることは出来でも切り落とすまでは至らなかった。
「きっといつの日か、彼の意志を継ぐものが現れ、もう一度人類はこの城に到達します。そしてその時が貴方の最期となるでしょう」
――では、ごきげんよう。
そう言ってミリアムは自分自身に業火の魔術を放った。
今度は無様な辱めなど受けぬと言わんばかりに。
「……忌々しい。もう一度、情けなく泣き叫ぶ程の拷問にかけてやろうと思ったのだが」
一瞬にして灰に還ったミリアムの慣れの果てを眺めながら悪魔ニンギルは舌打ちをする。
満足そうに炎の中に消えていった彼女の最期の顔を思い出し、彼は眉間に皺を寄せたのだった。
その日、人類は悪魔の軍勢を前に敗北した。
反転攻勢の失敗。主力の大半を喪失し、戦線後退を余儀なくされる。
しかし、悪魔の支配地域から辛くも脱出してきた剣聖アルベルト達の活躍により、悪魔との戦線は再び膠着状態に持ち込まれる。
この時、人類の生存圏は攻勢以前の半分になっていた。
* * *
何もない白い空間の中で、椅子に座った少女が目を覚ます。
少女の名前はルミシア。ルミシア聖法会が崇める創世の女神である。
ルミシアは凝り固まった身体を解きほぐすように身体を伸ばし、大きなあくびをした。
「はぁ、折角の機会でしたのに」
小さくため息をついた彼女は、おもむろに腕を振り下ろし、光の窓のようなものを出現させる。
それはルミシアが父親から与えられた権能の一つであり、現世に干渉する数少ない手段――歴史を覗き見る窓である。
「良かった。アルベルトは人類を守り切ったのですね」
そこで知ることが出来たのは、史上最大の反転攻勢の後に続いた人類の大まかな歴史だ。
この戦いにより生存権の半分を喪失した人類だが、いくつもの国が滅びたことにより、人類は結束し、実に数百年ぶりとなる人類の統一国家が誕生した。アルベルトはその国最強の守護者として長い間君臨し続け、人類のかつての生存圏を取り戻すことに生涯尽力し続けた。その人生の中で十人の優秀な弟子を見出し、無事に次の世代へのバトンを繋いだという。
まあ、残念なことがあるとすればアルベルトは生涯独身を貫き、優秀な剣聖の血筋を後世に残せなかったことだろうか。
「もしも死後の魂が行きつく場所があるのだとすれば、剣聖アルベルトに安らかなる眠りがあらんことを」
死後の世界があるかどうかは女神であるルミシアですらわからない。何故なら彼女はまだ一度も死んだことがないからだ。
もしかすると、この世界の本当の創造主であるルミシアの父親であればその答えを知っているのかもしれないが、彼女がそのことを尋ねることが出来るのは、まだずっと先のことである。
「それよりも先に悪魔ニンギルを滅ぼさなくてはなりません」
あれはこの世界の癌だ。父親の言によると創世時代に生まれてしまった致命的なバグだという。それを聞かされた時のルミシアには理解出来なかったが、あれを滅ぼさない限り、いつの日かあの世界は滅んでしまうらしい。
「お父様の言いつけの通りに出来なければ、わたくしは叱られてしまいます」
かつてルミシアが父親より与えられた使命は、悪魔ニンギルを滅ぼすこと。
それ自体は容易い。神の力を以てすれば今にも一瞬で片が付く。それほどまでに父親より与えられた女神の権能は強大なものである。
しかし、一度それを振るえば悪魔ニンギルだけではなく、あの世界に住む人々の大半が死滅することになる。
それは出来ればしたくないとルミシアは考えている。
そこに暮らす人々は、泣いたり笑ったり時には怒ったりしながら必死に日々を生きている。
無数に積み重ねられた人々の人生を理不尽に奪うことは神様だってしてはいけないのだから。
「ですから、これはあくまで最後の手段。審判の刻までに間に合わないと判断した時にしか使うつもりはありません」
そうは言っても相手は強大で狡猾な悪魔だ。
ルミシアが父親の命を受けてから数万年の間、人類が彼の元へたどり着いたのはたったの二度だけだ。
一度目は当時のルミシアの無知や無様を晒してこの場所へと出戻った。二度目は作戦立案から実行までの時間を考えると人間の時間間隔では想像も出来ない程の時間をかけた作戦だったのにも関わらず、悪魔ニンギルの強大な力の前に敗北した。
「あの子が言っていたのは負け惜しみみたいなものですから……」
正直な話、悪魔ニンギルが言っていたことはかなり的を射ていた。
ミリアムは生き残るべきだった。合理的に考えると剣聖アルベルトよりも余程、人類にとって有用な人材だったのだ。あれ程の魔術の天才は数千年に一度生まれるかどうかだ。
神話時代の魔術を容易く使いこなし、一対一で悪魔ニンギルの猛攻を凌いだ。その業を後世に伝えることが出来れば人類のその後はもっと明るい物になっただろう。
けれど、彼女は合理的ではない選択した。
「剣聖アルベルトを生きて帰す為に囮になるなんて……。何を考えているのでしょう」
仕方のないことではある。ミリアムはルミシアが現世で活動する為の女神の現身だった。
しかし同時に、彼女は人の胎から生まれた人の子でもある。いくらルミシアの記憶を引き継いでいても、人としての人生を歩んだものが、女神として合理的な判断を下せるとは限らない。
「ミリアムはどうしてそこまでしてアルベルト様を庇ったのでしょうか?」
――ミリアム。悪魔を滅ぼし、あの街を取り戻すことが出来たら、その時はもう一度祭りに行こう。
こうしてミリアムの記憶を引き継いでいても、既にルミシアは彼女とは別の存在となっている。
その時の光景を思い出すことは出来ても、感情まで理解出来るわけではない。
お役目を投げ出し、短命の人間の為に命を投げ出した理由が、ルミシアには理解できない。
――君の笑った顔を見ていたい。
ミリアムという名の少女は、あの日、確かに悪魔の城で死んだのだ。
「終わったことをいつまでも考えていては仕方ありません。わたくしには使命があるのですから」
悪魔ニンギルを滅ぼす。ルミシアはその為にこの世界にやって来た。ならば、終わった生にしがみつくのではなく、未来のことを考えなくてはいけない。
「次もあの子のように魔術の才に恵まれた子であれば良いのですけど」
そう言いながらルミシアは父親より与えられた最後の権能――受胎告知を発動させる。
次の瞬間、ルミシアは椅子にもたれかかり、再び長い眠りに就いた。
その日、とある王国の辺境に住む若い夫婦の間に一人の子供が生まれた。
「ディアナ。よく頑張ったぞ!お前に似て可愛い女の子だ」
「ええ、ありがとう。それでこの子の名前なんだけど――」
「あぁ、予め決めていたからな。女の子だからブランカだ」
「それなんだけど、私、さっき声が聞こえたの」
「声――?リニアか?」
「いえ違うわ。あれはきっと女神様よ」
「はぁ?女神だって?あれか――聖法会の女神ルミシアか?」
「ええそうよ」
「ははは――、それでその女神様は何て言ってたんだ?」
「この子に名前を付けてくださったの」
「ほう、それでその女神様は一体どんな名前を付けてくれたんだ?」
この子の名前は――。