3.領主の恋人
「ねえ、聞いた、あの話?」
小麦の選別をしながら、女達がお喋りに興じている。
「聞いた聞いた、びっくりよ。あの領主さまが、アイリーネに夢中だっていうんだから!」
「すごい玉の輿よねえ。うらやましいわ」
「旅をしているのも、花嫁を探すためだったんですって。なんてロマンチックなの。まるでおとぎ話みたいだわ」
「あら、でも、フェルミナお嬢さまは?」
ひとりの女がふと気づいたように口にする。そこで女達がくくっと笑った。
「ぜんぜん相手にされないで、おしまいよ!」
「アイリーネって地味だけど、可愛いものね。ラウルと仲が良かったわ」
「いい子なのよねえ。あたしの父親が足を怪我した時、森まで薬草を探しに行ってくれたのよ」
「あたしも森で迷った時に助けてもらったわ。おいしい木の実も分けてくれた」
「ラウルとも恋人だったんじゃないかと思うわ。隠してたみたいだけど、本当にお似合いだし、幸せそうだったもの」
ねえ、と彼女達が目くばせし合う。
「フェルミナお嬢さまの婚約者の話を聞いた時は、嘘じゃないかと思ったものね」
「どうせ無理やり奪ったんでしょう。ひどいことするわよね」
「あのお嬢さま、前からアイリーネの持ち物を奪うことに執着してたもの。ラウルも気の毒よね。嫌がらせのために好きな女と別れさせられて、好きでもない女と婚約させられて。あげくの果てに、邪魔になったら冷たくされる。いくらなんでもひどいと思うわ。ほんと、最近のお嬢さまのわがままは目に余るわよ」
「いくら綺麗でも、あんな性格じゃとても領主の妻なんて務まらな――……」
「お前たち、何の話をしているの?」
現れたフェルミナに、彼女達はびくりとした。
「ふ、フェルミナお嬢さま!」
「こちらにあの方が来なかった? 今日はまだ顔を見ていないの」
「ああ、それじゃ――」
彼女達のひとりが何気なさを装って言う。
「いつも通り、アイリーネのところじゃないですか?」
「……っ」
ぴくり、とフェルミナの眉が動く。
「ほんとにアイリーネに入れ込んでるのね、あの方ったら」
「意外とお似合いよねえ、あの二人」
「結婚式には招待してもらえるのかしら。ああ、楽しみだわぁ」
「黙りなさい!!」
フェルミナが怒鳴りつけると、彼女達はぴたりと口をつぐんだ。
「余計なお喋りをしていないで、さっさと仕事にかかりなさい。今日中に全部終わらせないと許さないわよ!」
憤慨した顔で去っていくフェルミナを見ながら、女達はひっそりと含み笑った。
(まったく……!)
フェルミナはいらいらと爪を噛んだ。
こんな事になるとは予想外だった。本当なら今ごろは、美しい青年の隣に立っているのは自分だったはずだったのに。
どれも断られたあげく、彼が選んだのはアイリーネだった。それが余計に腹立たしい。
なぜあんな子が?
みっともなくて貧乏くさい、みじめな娘。何ひとつ取り柄なんかないはずなのに。
(あんな子のどこがいいって言うのよ……)
アイリーネは目立たない娘だ。身だしなみこそ清潔だが、流行のドレスも靴も持っておらず、いつも化粧気のない顔で働いている。心配するふりをして、いちいち嘲笑った事は数知れない。彼女はフェルミナの玩具なのだ。
親友だと言えば、アイリーネは自分に強く出られない。
それを利用して、さんざん楽しませてもらったものだ。特に手ひどく傷つけるたび、泣きそうな顔をするのがたまらなかった。
だが、いつのころからか、アイリーネは感情を見せなくなった。
そんなのはつまらない。もっと傷ついて、嘆き悲しむ声を聞かせてくれないと。
そうでなければ興ざめだ。もっともっと打ちのめされて、フェルミナとの差を思い知るべきなのだ。
昔から、アイリーネの事が気になっていた。
アイリーネが大切にしているものは、自分も欲しくてたまらなかった。
手に入らないと知れば、どんな手段でも奪い取った。手に入ってしまえば色あせて、放り出すか捨てるかしたが、アイリーネに返す事だけはしなかった。あの娘の泣く顔が見たかった。
ラウルはその中でも一番大きな収穫だった。
何を取られてもあきらめていたアイリーネが、あの瞬間、顔を真っ青にさせたのだ。
すがるような目で自分を見つめ、すぐに絶望の表情になる。
それを見た瞬間、ゾクゾクするような喜びが込み上げてきた。
――ああ、なんて気持ちいいの。
もっとそんな顔を見せてほしい。
愛する男が他人のものになり、どうしようもない現実に打ちのめされる姿を。
傷ついて悲しんで、涙をこらえる表情を。
大事なものは手の中から奪われて、永遠に戻ってこない。
それは最高に楽しい瞬間だった。
もっともっと恋しがり、狂おしいほど求めればいい。泣いて叫んで、返してとすがりつけばいいのだ。絶対に手放してなんかやらないけれど。
それを手に入れたのはフェルミナだ。
アイリーネが切望し、何と引き換えにしても欲しいと願うもの。それを、フェルミナが手に入れたのだ。
そう思った瞬間、足元から湧き上がるような喜びがあった。
それからは毎日が楽しかった。
わざとラウルを連れ回し、アイリーネと引き合わせる。そのたびに傷つく顔が滑稽で、面白くてたまらなかった。べたべたするたびに目をそらし、辛そうにまつげを伏せる。その顔が何よりも見たかった。何度見ても見飽きない。それは最高の娯楽だった。
ラウルにたしなめられようが、村人に冷めた目で見られようが、フェルミナは優越感でいっぱいだった。アイリーネの傷ついた顔を見るだけで、笑い出したいような気持ちになった。この立場を手放す気にはなれなかった。
ラウルはそこそこハンサムだし、人柄もいい。両親も賛成してくれた。
あとは結婚式を挙げるだけだ。その時、彼女はどんな表情を見せるのだろう。
――ああ、可哀想なアイリーネ。
込み上げてくる笑いを押し殺しながら、フェルミナはその時に思いを馳せた。
だが、状況が変わった。
この村にやってきたのは、目を見張るほど美しい青年だった。
仕草だけでなく、言葉遣いも洗練されている。あまりの華やかさに、フェルミナは一目で心を奪われた。
この男を手に入れたいと思った。
さっそく誘惑してみたが、髪の毛一筋ほどもなびかなかった。強い酒を飲ませても酔わず、薄着の自分にも欲情しない。従者である小男も常に彼のそばにいた。
彼は非常に目障りだった。陰気で不愛想な太った男で、ほとんど声を発しない。吹き出物だらけの皮膚は汚くて、膿さえ持っているようだ。そのくせ、村のあちこちを歩き回り、あれこれと無遠慮に嗅ぎ回っている。青年の護衛でなかったら、今すぐにでも叩き出してやるものを。
おまけに、彼がフェルミナを見る目も気に食わなかった。
羨望のまなざしで見つめるならともかく、どこか冷めた、無関心そうな目つきだ。まるで家畜を見るような冷淡さに、フェルミナは不愉快さを抑え切れなかった。
――なんて無礼な男なの。
ぶよぶよとたるんだ体つきも、どんよりと濁ったまなざしも、何もかもが気に障る。黒いフードを頭からすっぽりとかぶっていたが、そんなものでは到底足りない。汚らわしくて、姿を見るのも嫌だった。
金を握らせようとしても、女をあてがうと言っても無駄だった。どうやら青年に忠義を誓っているらしい。ちらりと顔を見たが、ぞっとするほどの醜さだった。
なぜあんな男が青年のそばにいるのか不明だが、おそらく腕が立つのだろう。自分が妻になったら、真っ先に首にしてしまうものを。
青年との仲を深めるにあたり、もうひとり邪魔な存在がいた。婚約者のラウルだ。
普通ならアイリーネに下げ渡してしまえばいいのだが、それはなんだか嫌だった。
自分が幸せになる事は何よりも重要だが、アイリーネが幸せになるのは面白くない。かといって、別の女にあてがうのも違うだろう。あくまでも彼はフェルミナのもので、アイリーネに自慢しなければいけないのだから。
アイリーネが欲しくてたまらず、どうしようもないものを見せびらかす。それこそが一番の娯楽なのだ。ラウルを手放すのは惜しい。
(どうしたらいいのかしら……)
考え込みながら歩いていると、森の近くに来てしまった。
森の中には虫がいる。眉をひそめ、身をひるがえそうと思った矢先、二人の男女の姿が目に飛び込んできた。
「……ええ、そうなんです。とっても素敵」
「それはよかった。では、この花を君にあげよう。きっとよく似合う」
美しい青年のそばにたたずみ、一輪の花を手にして微笑む少女。
ラウルを失って打ちひしがれていた時の表情はすでにない。
頬を上気させ、輝くように笑うアイリーネがそこにいた。
それを見つめる領主の目もやさしい。お似合いの二人、という言葉が耳によみがえる。
フェルミナはぎりっと歯ぎしりした。
(なによ……あれ)
彼女は下を向いていればいい。
恋人だったラウルを慕い、ずっと泣き暮らしていればいいものを。
それでこそ奪い取った甲斐がある。そうでなければ、あんな男に価値はない。
ラウルはフェルミナを愛さなかったが、紳士的な態度は崩さなかった。ひどい目に遭った事もなく、常に穏やかな口調で話す。だが、それだけだ。あの青年の足元にも及ばない、平凡な男。
アイリーネのそばに立つ青年を見ているだけで、ラウルが急激に色あせて見えた。
視線の先では、二人が楽しげに話している。
その表情は幸福そうで、この上なく目障りだった。