2.領主と小男
***
領主がこの村を訪れたのは、そんなある日の事だった。
なんでも、小麦の出来栄えに興味を覚え、一度見てみたいと思ったらしい。現れたのは目を見張るほど美しい青年で、黄金色の髪に翠色の瞳をしていた。
その後ろには太った小男が付き従っている。どうやら彼の護衛をしているようで、じろじろと辺りを見回していた。
「君がフェルミナか。小麦を扱う家の娘だそうだね」
「ええ、そうですわ」
目の覚めるような貴公子に微笑まれ、フェルミナは頬を上気させた。
それも当然だ。こんなに美しい人を見た事はない。本物の貴族の登場に、フェルミナは夢見心地だ。彼女のそばにはラウルがいたが、もはや目には入っていない様子だった。
「すぐにご案内いたしますわ。どうぞこちらへ」
「ああ、ありがとう」
そう言うと青年は歩き出した。小男が無言でそれに続く。
去り際、ちらりとアイリーネと視線が合ったが、気のせいかと思って忘れてしまった。
出迎えのために集められた村人達は解散し、アイリーネもひとりで森へ向かった。
両親がいなくなってからも、アイリーネは森の仕事を続けていた。
ずっと昔は、もう少し多くの人がいたらしい。けれど今、この仕事をしているのはアイリーネだけだ。
危険な害獣が出る森ではないし、猟師ならば他の村の人間がいる。そのため、少しずつ廃れていったようだ。
アイリーネの両親は何度かフェルミナの父親に助けを求めたが、彼はそれを一蹴した。小麦の方がはるかに儲けが大きいのに、わざわざ森を手入れする必要はない。金の無駄だというのがその理由だ。そう言われれば、それ以上は言えなかった。
娘のアイリーネの代になり、仕事量はさらに増えたものの、彼が助けてくれる事はなかった。
フェルミナの家は村長代行のような立場だ。本来ならば、アイリーネの両親の求めに応じる義務がある。けれど、両親が亡くなったのをいい事に、すべてアイリーネひとりに押しつけた。
森の手入れと言っても、それほど特別なものではない。
通常の手入れに加え、ここだけはと教えられた場所を踏みしだく。毎日でなくともいいが、十日以上空けてはならない。それが両親の口癖だった。特にこれからの時期は大切なので、欠かさずやるようにと言われていた。
妙な匂いがするので、他の人間は嫌がって近づかない場所だ。アイリーネも得意な香りではない。
だが、それを怠ればしっぺ返しがやって来る。それも両親の口癖だった。
だからアイリーネは今日も森に入り、自分の役目を果たしている。
フェルミナにはさんざん馬鹿にされたが、アイリーネは気にしなかった。
みっともないと言われても、化粧をしていない事を嘲笑われても、なんという事もない。今さらそんな事で傷つきはしない。
――けれど、ラウルは。
ラウルと二人の姿を見る時だけ、アイリーネの胸はかすかに疼く。
それを分かっているからこそ、フェルミナはわざわざ見せつけるのだ。毎日、毎日。飽きもせずに。
ラウルは心底嫌そうな顔をしていたが、その時だけは顔が見られる。
それが唯一の救いだった。
しばらく森で作業していると、草を踏む音がした。
「やあ、君がアイリーネだね」
現れたのは領主だった。先ほどの小男を後ろに従えている。
「り、領主さまにはご機嫌うるわしく……」
「ああ、いいよ。楽にしてくれ」
慌てて礼をとったアイリーネに、人なつっこく微笑む。そんな顔をすると、まるで高貴な猫のようだ。後ろで小男が渋い顔をしていたが、特に気には留めなかった。
「君だけが私に見とれなかったから、気になって」
「それは……申し訳ありません」
そんなつもりはなかったのですが、と言い訳する。
「いいよ。そういうのも新鮮だ」
「申し訳ありません……」
「君は小麦作りに参加していないんだね。どうして?」
「……私は森の仕事がありますから」
以前、腐葉土臭いと言われた事は伏せておく。それを見て、小男がぴくりと反応した。
「話には聞いたことがある。森を管理するのは大切な仕事だ。人手は足りているのかな」
「それは……」
「私でよければ力になろう。何かあったら言ってほしい」
「……もったいないお言葉です」
なぜ自分に構うのか分からず、困惑しながら礼を言う。
「君は私を好きにならないね。理由を聞いてもいいかな?」
「……は?」
「君だけが、私を見る目に熱を込めなかった。その理由が知りたい」
さらりと薄金色の髪をすくい、指先で弄ぶ。反射的にそれを引き抜くと、アイリーネは一歩下がった。
彼の手つきに邪な気配はなかったが、それでも少々距離が近い。
「はは、これでも駄目か。無礼な真似をしてすまない」
「い、いえ……」
「だが、私は君に興味がわいた。君さえよければ、またこうして話すことを許してほしい」
許すも何も、初めから選択肢のある話ではない。助けを求めるように小男を見たが、知らん顔をされてしまった。
(どうしよう……)
二人きりでないとはいえ、よく知らない男の人と話すのは抵抗がある。
もしもラウルの耳に入ったら。そう思うだけで、足の先が冷たくなる。
だが、アイリーネの逡巡を理解したらしい。彼はちょっと苦笑した。
「以前の恋人の話は聞いたよ」
「!」
「君はフェルミナから聞いた話とは少し違うね。とても他人の恋人を奪うようには見えないな」
「フェルミナが、そんなことを……?」
どの口がそれをと、事情を知る者がいれば告げただろう。
だが、アイリーネはただ首を振った。
「……そんなことはしておりません。ラウルとも、あれ以来会っていません」
「だろうね。君は嘘をついていない」
どうしてそんな事が分かるのかと顔を上げたが、彼は答えてくれなかった。
「まだ彼のことが好き?」
「…………」
「忘れたらいい。その方がずっと楽になれる」
「……できません」
アイリーネはまた首を振った。
「新しい恋を探すのも一興だ。私は君のことが気に入った。君さえよければ、その相手に名乗り出てもいいと思っているよ」
「できません……」
「彼の気持ちが変わるかもしれない。人の心はうつろいやすい。どんなに愛していても、永遠に留めておくことはできない。そうなった場合、取り残されるのは君だけだ。それでも?」
「……できません……」
アイリーネは首を振った。何度も、何度も、繰り返し。
薄金色の髪が揺れて、白い頬にかかる。込み上げてくる涙が視界を揺らがせる。
しゃくりあげる声は小さくて、森の囁きに紛れてしまいそうだった。パタパタと雫が足元に落ちる。それを見て、自分は悲しかったのだと悟った。
(ラウルが好き)
どんなに美しい青年に手を差し伸べられても、アイリーネの心には響かない。
上等な服を着ていなくても、地位や身分が低くても、アイリーネはラウルを愛している。
だから、彼の誘いには応じられない。
「なるほど。よく分かったよ」
青年は静かな瞳をしていた。
「それでも、私は君が気に入ったんだ。この上なくね」
「あの、……」
「そろそろ戻ろう。冷えてきた」
そう言うと、小男を従えて歩き出す。
緑を含んだ風が吹き、アイリーネの髪を攫っていった。
***
領主はフェルミナの家で歓待を受け、しばらく滞在する事になった。
思わぬ幸運に、フェルミナの家族は舞い上がった。
これはとんでもないチャンスが巡ってきたかもしれない。何しろ相手は領主なのだ。うまくすれば、この先の生活はバラ色だ。
彼らはフェルミナを着飾らせ、とっておきの酒を用意して、毎夜領主の隣に侍らせた。フェルミナは婚約者を持つ身だ。普通ならあり得ない話だったが、彼らが気にする事はなかった。それどころか日を経るに従い、誘いは露骨になっていった。
だが、領主は一貫して礼儀正しい態度を崩さず、フェルミナの求めに応じる様子はなかった。それがフェルミナを余計に焦らせているようだった。何しろひと月後には結婚式だ。
けれど、そのころからぷっつりと結婚の話を聞かなくなった。
まるで最初からなかったように、結婚の準備は影をひそめた。ドレスはできているはずなのに、見せびらかしにも来ない。ラウルの事を婚約者だと呼ばなくなったのもこのころだ。
はた目から見ても、彼女が領主に熱を上げている事は明らかだった。
それに比例するように、ラウルへの扱いはぞんざいになった。
今までさせなかった下男の仕事を押しつけ、できなければ罵倒する。ラウルはうまく仕事をこなしていたが、それでも疲れているようだった。
アイリーネは心配したが、いざ彼女が手助けしようとすれば、フェルミナがその都度邪魔をする。
「ラウルはあたしの婚約者なのよ。無断で話さないでちょうだい」
「だけど、このままじゃ……」
「あなたには関係ないでしょう?」
黙り込んだアイリーネに、フェルミナは勝ち誇った目を向けて去っていった。
彼への扱いがひどくなっても、アイリーネに取られるのは癪らしい。
青年の前では決してそんな姿を見せないところも、彼女の狡猾な部分だった。
(ラウル……)
どうか、無事で。
だが、ラウルに対する扱いはさらにひどいものになっていった。
フェルミナと領主が語らう横で、従者のように立っている。彼女が菓子を落とした時は、それを拾わされ、汚れた靴を拭かされた。彼は誰かと領主が尋ねれば、「同じ村の人間ですわ」と答える。ラウルも反論しなかった。
もはや婚約者はラウルではなく、領主のように見えた。
そんなころだった。
新しく囁かれる噂があったのは。
髪色変更しました。