1.二人の娘
「ごめんなさいね、アイリーネ」
目の前で勝ち誇ったように笑うのは、親友のフェルミナだ。
つい先日までアイリーネの恋人だったはずの青年の腕を取り、余裕たっぷりの顔で見つめてくる。
「あたしはそんなつもりなかったんだけど、ちょっとラウルの話をしたら、お父さまが乗り気になってしまって。彼はアイリーネの恋人なのよって言っても、どうしても引き下がってくれなくて。すぐにラウルの家に結婚を申し入れてしまったの」
「……そう、なの……」
「できるだけ早く婚約を調えようという話になって、今はあたしの婚約者なのよ。ラウルのご両親も、なんていいご縁なんだろうって言ってくださったの。前の恋人に比べて、フェルミナは素晴らしいって……あら、ごめんなさい」
わざとらしく口元を押さえる仕草に、アイリーネは服の端を握りしめた。
「……いいのよ。私の家が貧乏なのは本当だもの」
「確かにあなたの恰好はみっともないし、着ているものも古臭いわ。でも、人って中身でしょう。中身もあたしの方がいいって判断されたみたいで、なんだか申し訳なくて」
余裕たっぷりに告げるフェルミナは、喜悦が隠し切れない顔だ。今もアイリーネの様子を窺い、傷ついた表情を見ようと舌なめずりしている。
同い年のフェルミナは、アイリーネの幼なじみだ。
丘の上の大きなお屋敷のひとり娘で、使用人もたくさん抱えている。彼女の父親は大金持ちで、手広く商売をやっているのだ。
主な商品は小麦や豆で、特に小麦の質が高い。王都にも品を卸しており、その収益はかなりのものだ。
村の人間の多くは彼の下で働いている。ラウルの家もそのひとつで、フェルミナの家からの申し込みを断れないのは分かっていた。
同じ村に住むラウルはアイリーネよりも二つ上の青年で、今年十九歳になる。
黒髪と灰色の瞳の温厚な顔立ちで、おっとりした口調がやさしげだ。
村の外れにあるアイリーネの家にもよくやってきて、小麦や野菜を分けてくれた。お返しにアイリーネの家も森で採れた木の実や果物を渡し、両家は仲良く付き合ってきた。
流行病でアイリーネの両親が亡くなった時も、ラウルの家族は心配してくれた。家に来るようにと言われたが、アイリーネは首を振って辞退した。この家でやらなければいけない事がたくさんあったし、仕事を放り捨てていく事はできなかった。
ラウルと恋人になったのは二年前だ。君さえよかったらと言われ、アイリーネは一も二もなく承諾した。
恋人になった証にと、ラウルがアイリーネの髪に花を飾ってくれた。薄い金色の髪に映える、いい香りのする花だった。
このままこの関係が続いていけば、いずれ婚約という話になっただろう。
ひっそりと育んでいた二人の時間は、ある日、フェルミナに見つかる事で終わりを告げた。
フェルミナは意地悪で美しい娘だ。
つややかな栗色の毛は丁寧にブラッシングされ、念入りに化粧を施している。いつも流行のドレスを身にまとい、香水を惜しげもなく振りまいている。村の男には興味を示さなかったフェルミナだが、ラウルがアイリーネの恋人と知るや否や、猛烈にアプローチを開始した。
高価なプレゼントに夕食の招待、パーティでのエスコート。そのあからさまな姿にラウルも困惑していたが、断る事は難しかった。
彼は確かに感じの良い青年だが、フェルミナが熱を上げるほどではない。
だが、アイリーネには分かっていた。
アイリーネの恋人がラウルである以上、彼女は何がなんでも奪い取る。たとえ、どんな手段を使っても。
それが彼女の楽しみであり、何よりの娯楽である事を、アイリーネだけが知っていた。
幼いころから、フェルミナはアイリーネのものを欲しがった。
特に、アイリーネがいいなと思うものや、大切にしているものをなんとしても手に入れたがった。
一番美しく咲いた花とか、ひとつだけ実ったリンゴとか、誕生日にもらったカードとか。
前の二つは駄々をこねて取り上げられ、最後のは渡さないと見るや否や、無理やり奪い取られて二つに裂かれた。さすがにひどいと抗議したが、無地のカードを放ってよこされた。
曰く、「そちらの方が紙の質がいいのだから文句を言うな」だ。
彼女の両親もひとり娘に甘く、フェルミナのわがままを許してしまう。アイリーネの家が困窮し、みすぼらしい事も理由だった。
アイリーネの家は代々森の管理をしている。
森の木々を間引き、虫の発生や腐葉土を調べ、獣を狩って生活する。泥や毛皮にまみれて暮らすのは、小麦作りに比べて野蛮だと思われているらしい。そんなアイリーネをかばってくれるのはラウルで、いつも元気づけてくれた。
――君は綺麗だよ、アイリーネ。自信を持って。
灰色の目は柔らかく、見つめられるとどきりとした。
ラウルに恋していると気づいたのはこの時だ。
それを自覚した時、フェルミナに気づかれてはいけないと思った。フェルミナが知れば、きっとすべてを奪われる。
だからアイリーネは慎重に自分の気持ちを隠してきた。ラウルと恋人同士になってからも、彼との関係を秘密にしていた。彼もそれは同じようで、かなり注意を払っていた。
けれど、たった一度だけ。
森の中で二人きりで話す姿を見られたらしい。
その日からラウルはフェルミナにとって、単なる村の男から、何を措いても手に入れるべき理想の王子様に変わってしまった。
ラウルは拒否していたし、彼の両親も同じだった。だが、この村でフェルミナの家に逆らえる人間は多くない。抵抗がいつまでも続かないのは分かっていた。
フェルミナは父親の権威をちらつかせてラウルを誘い、アイリーネにその様子を見せびらかした。時には大げさに嘲笑し、みすぼらしい姿を貶めた。アイリーネは何も言わず、ただ悲しげにうつむいていた。
ラウルはそのたびに止めていたし、頑としてフェルミナの求めには応じなかった。いくら二人きりで出かけても、恋人にはならない。自分の好きな人はアイリーネだと告げて、フェルミナの求愛を突っぱねた。
だが、それがいけなかったらしい。
業を煮やしたフェルミナが父親に泣きついたのだ。
娘に甘い父親がどうするかは、火を見るよりも明らかだった。
そのわずか数日後だ。
彼とフェルミナとの婚約が調ったという話を聞かされたのは。
***
***
「結婚式はふた月後にしようと思っているの」
うつむくアイリーネには構わず、フェルミナが幸せそうに告げる。
「ちょっと早いかしら。でも、いいわよね。急がないと、誰かに取られてしまうかもしれないもの」
「フェルミナ、やめるんだ」
「いいじゃないの、ラウル。あたしたち、もうすぐ夫婦になるのよ。そうなれば誰も二人を引き離せないわ」
そう言うと、わざとらしく腕を絡める。反射的に手を引き抜こうとしたラウルを小突き、じろりと横目でねめつける。
この結婚が対等なものでないと、村の誰もが知っている。
結婚後もフェルミナは奔放に暮らし、愛人のひとりや二人囲うだろう。今でも村の男を侍らせているのだ。たとえそうなっても、ラウルに咎める術はない。
ラウルは端正な顔立ちをしているが、貴公子というわけではない。
畑仕事や力仕事を好み、毎日汗を流して働いている。フェルミナの誘いには応じず、キスもした事がないという。そんな彼を物足りなく思うのは当然だった。
それでも、彼女はラウルを手放さない。
この結婚がアイリーネを絶望させ、もっとも傷つけると分かっているからだ。
「本当に楽しみだわ。ドレスだけは大急ぎで仕立ててもらっているの。そうだ、花嫁には必要なものがあるんでしょう? 新しいものと古いもの、借りものと青いもの。ねえ、よかったらアイリーネが用意してくれないかしら」
「……私が?」
「そうね、青いものがいいわ。あたしたちの結婚のお祝いに、いいでしょう?」
アイリーネは信じられないといった顔をしていた。
それも当然だろう。どこの世界に、人から奪った恋人と結婚する相手にお祝いを渡す人間がいるというのか。
おまけに、フェルミナの目は意地悪く笑っている。
ここで断ったら、どんな噂を流されるか目に見えていた。
「……分かったわ」
「アイリーネ!」
ラウルが声を上げたが、フェルミナがその腕に爪を立てる。
「ありがとう、アイリーネ。そう言ってくれると思ってたわ」
「当日までには間に合わせる。約束するわ」
うなだれたアイリーネの表情は見えなかった。
フェルミナは込み上げる笑いを押し隠すように、得意げに胸をそらす。
ラウルだけが心配そうに、元恋人の姿を見つめていた。
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