第二十三話
太い茎から作ったラッパの鋭い音。大きな実の外皮を乾かして作ったドラムが、小刻みに空へと響く。
他にも様々な楽器が鳴り響いているが、どれも地上にはないもので、聞きなれないものばかりだった。
だが、リットはそんなものより、神殿にいるということの方が落ち着かなかった。
何度も柱の間を行ったり来たりしたり、柱に寄りかかって貧乏ゆすりしたり、とにかく早く時間が流れてくれと思っていた。
見かねたミニーが「もう……落ち着いたらどうなの?」と声を掛けた。
既にミニーは正礼装に着替えている。真っ白な衣装で、上半身は体のラインが出るようにピチッとしているが、ドレスの部分は空気を孕んだようにツボ型に膨らんでいる。
一人で歩くには大変で、これから二人で歩んでいくという意味が込められていた。
リットの役目はミニーの手を引いて、父親のメディウムの元まで連れていくことだ。
結婚の儀はそれだけで終わりだ。
ヴィクターが生きていれば、そこから大々的に儀式が始まるのだが、今いるのは代役のリットだ。
これはメディウムとミニーの為だけの時間。来賓の殆どは結婚の儀ではなく、キューピッドであるエロス家が上層へ戻る歴史的瞬間を見届けようと集まっている。
リットのやるべきことは少なく、注目が集まるのも一瞬だけだ。
なので緊張をしているわけではなかった。神殿という神聖な場所がどうにも落ち着かなかったのだ。
「落ち着けるかよ……しばかれるようなことばっかりやってんのに、神に近い場所にいんだぞ。居心地が悪いったらありゃしねぇ」
「もう……礼拝くらいしたことあるでしょう」
「酒好きの神父の教会でならな」
「邪神崇拝でもしてるの? 大丈夫よ。ちゃんとかっこいいわ」
ミニーはリットの乱れた前髪を直すと、完璧と腰に手を当てた。
「オレが完璧でどうすんだよ……主役はそっちだろ」
「そうね。どう? 私は完璧?」
ミニーは茶化すように、その場でくるっと回ってポーズを取った。
一見余裕があるようだが、その声は緊張に震えており、今日の短い結婚の儀が、ミニーにとってどれほど大事なものなのかを物語っていた。
「あぁ、完璧だ」
ミニーは「そう……」と安心したように言うと、少し持ち直して「完璧なら口説き文句の一つでも言うものよ」と微笑んだ。
「人妻だろう?」
「まさか二回も結婚式を挙げるだなんて思っても見なかったわ……子供の自分に教えたら驚くでしょうね。それも、同じ相手となんだから」
ミニーは真っ直ぐリットを見ていた。
「オレを見ても、親父は後ろに透けねぇよ。タイプが違え」
「本当にそう思ってる? とてもそっくりよ」ミニーはため息を落とした。「どこか遠くに行っちゃいそうなところまで似なくていいのに」
ミニーはリットの頬を撫でた。本当にそこにいるのか存在を確かめるように、ゆっくり手のひらを這わせると、名残惜しそうに手を離した。
「遠くに行ってんじゃねぇよ。連れてかれてんだ……。今回だってな……堕天使が落ちてくるなんて奇妙なことがなけりゃ、浮遊大陸なんかに来てねぇよ」
「その奇妙なことを全力で楽しむのがヴィクターよ。リットは違うって言い切れるの?」
ミニーの問いに困ったリットは、誤魔化すように手を差し出した。
合図のラッパが一際高く鳴り響いたからだ。
「時間だとよ」
「本当……変な感じね。あの人の子供と、こうやって手を取り合って神殿を歩くだなんて」
「親父の妻と歩いてんだぞ。それも複数いるうちの一人だ。オレのが変な感じだ。それも、本来はオレの結婚の儀が開かれる場所でだ。背筋が凍る……」
「あら、結婚も良いものよ。一度考えてみるのはどう? あの金髪のお嬢ちゃんは? リットの手綱をしっかり握ってくれそうよ」
「手綱で首を絞められる」
「なら前にディアナに来た魔女は? 知識に貪欲な似たもの同士でお似合いよ」
「知識の詰まった本で撲殺される」
「誰ならいいのよ……。まさかクー? 彼女に付き合うのは大変よ……ヴィクターでさえ愚痴ってたくらいなんだから」
「崖から突き落とされる」
「もう……誰となら結婚するのよ」
「あのなぁ……今回これだけ結婚に振り回されて、どの女が良いって考えられると思ってんのか? だいたいなオレが選ぶ立場じゃねぇよ」
「それもそうね。誰よりも、リットの相手が一番苦労しそうだもの」ミニーは心底そう思うと、緊張が和らいでいるのを感じた。「最後にひとつ。もう少し、自分を褒めてあげるのも必要よ」
「当然だ。自分への褒美も用意してるしな」
リットが含みのある言い方をするので気になったが、話しながら歩いているうちに人前へ出るとこまで来てしまったので、それ以上ミニーが何か聞くことはなかった。
ただ緊張が解けて落ち着いたことにより、今日という日を思い出に焼き付けられることを心で感謝した。
空からは浮遊大陸に咲く色とりどりの花びらが、いつまでも舞い続けている。
宝石オイルを使ったランプで風を起こし、アルデが床に花びらがつかないようにしているのだ。
ミニーはリットの横顔にヴィクターを重ねることはなく、真っ直ぐ花道を歩いた。
もう、目に入るのは父親のメディウムの姿しかない。
いつだって思い出には、メディウムがいたらと思っていた。
ヴィクターと結婚した日。マックスを孕った日。そして、マックスが生まれた日。初めて歩いた日、飛んだ日。兄弟喧嘩をした日。いつだって、メディウムの顔がチラついていた。
それが今日この日で全て埋まるようだった。
なぜなら、そのいつの日も浮かべていたであろう表情で、メディウムが自分を待っていたからだ。
涙はない。溢れ出した幸せは、口角を上げさせて胸を温かくさせる。
それはメディウムも同じだった。この気持ちをわかるのは自分達だけでいい。お互いそう理解しているようで、長い言葉はかわさず、秘密の暗号を確かめ合うような笑顔一つで意思の疎通を交わした。。
ミニーの挨拶の言葉だけで、結婚の儀はあっという間に終わってしまった。
そして、エロス家が上層に戻る理由をカペラが演説し始めた頃。
リットは既に神殿から姿を消していた。
「いやー……良い式だった――とでも言うか。酒の一つもねぇのによ」
リットが抜け出して向かったのは、下層にある酒場だった。
儀式が行われているのは上層の神殿。なぜリットが自由に下層へ移動出来るのかというと、宝石オイルのランプで動かせる雲に乗って移動したからだ。
リットと一緒にいるのは、ノーラとチルカ。エミリアは正式にリーゼネからの来賓ということになり、別口で儀式に参加しているのだ。
「本当っスよねェ。食べ物もないんスから」
ノーラはサラダを注文しながら言った。
「でも、どうなのかしらね。式をサボって、酒場だなんて」
チルカはもう少し天使の儀式を見ていても良かったと言ったが、サラダが運ばれてくると、今言ったのが嘘のようにご機嫌で野菜を食べ始めた。
「いいんだよ。あのまま残ってみろ。手続きが面倒臭え。黙って帰りゃ、あとはエミリアがやっといてくれるってなもんだ」
リットは飲むかと瓶を傾けた。その相手はリンスプーだ。
「まさか最後の最後にこんな厄介ごとを頼まれるとはね……」
リンスプーがここにいる理由は、リットにランプを持って雲で待機するように言われていたからだ。
てっきり儀式に関係することだと思っていたリンスプーは、快くリットの手伝いをしたのだが、まさかそこから逃げ出す為だとは思ってもいなかった。
「酒を奢ってやってんだ。いいだろう?」
「よくないです! メディウム様をなんだと思っているんですか!」
怒っているのは店主だ。
ここはメディウムの屋敷があるバストナ・イス。以前もリットが通っていた酒場だ。
「じいさんだろ」
「上層に戻るって言うのは歴史的快挙なんですよ。私だって、参加出来るのなら参加したいくらいです」
「オレだって言って、参加してきていいぞ」
「ヴァルキリーに殺されますよ」
男か女かわからない顔の店主は乱暴に酒瓶を置くと、メディウムがどれだけ凄い人物なのかブツブツ独り言を言い始めた。
「リンスは良かったのか? 戻ってもいいんだぞ」
リットはもう用事が済んだと言った。
「興味はなくもないけど、私は下層でのんびりがいいね。上層の慌ただしさは私には合わないよ」
「そういやそういう奴だったな」
「ところで……どうやって地上に帰るつもりなんだい? 天使がいなければ、天望の木を歩いて降りることになるけど」
「ちょっと! アンタ! 何も考えてないんじゃないでしょうね!!」
勝手に連れてこられたチルカは、浮遊大陸で一生を過ごすのも、長い天望の木を降りるのもごめんだと声を荒らげた。
「安心しろよ。ちゃんと手紙を書いてる」
「それってマックスですよね? 来ます?」
「信頼してるって書いておいたからな。最近は魔族の地との交流で株を上げてるみたいだけど、オレにとっちゃまだまだ扱いやすい弟だ。今頃ウキウキで光の階段を上ってきてるだろうよ」
「それで、マックスが何回か来ているバストナ・イスの酒場を選んだってわけっスね」
マックスは祖父のメディウムに会うために年に数回。バストナ・イスがあるホワイトリングへ光の階段で上っていた。
なので、迎えの準備は完璧だった。
自分のことで手一杯のミニーの代わりに手紙を出したリットは、マックスに儀式の日も嘘を教えているので、まさか儀式の途中で呼び出されているとは夢にも思っていなかった。
「旦那ァ……だんだんクーみたいになってきてますよォ」
「余計なことを言う口には、サラダでも詰めとけ」
リットは追加で注文を頼むと、コップの酒を一気に飲み干した。
釣られて一口飲んだリンスプーは「それでどうするんだい?」と聞いた。
「帰るに決まってんだろう。これ以上結婚がなんだって関わってられるか」
「私が聞いてるのはコレのことだよ。私が持っているわけにもいかないだろう」
リンスプーは宝石オイルの入ったランプをテーブルに置いた。
オイルが四つ分入っているだけあり、普通のランプに比べて重さも相当ある。優しく置いても、ゴトっと音がするほどだ。
「当然だ。オレが持って帰るのに、やるわけねぇだろ」
「これって堕天使が使うためのものじゃないのかい?」
「そうだぞ。でも、これはオレ専用のだ。土産の一つや二つ持ち帰ってもバチは当たらねぇだろ」
「一つや……二つ?」
リンスプーは一つと数えられるランプを見て首を傾げた。
「言葉のアヤだ気にすんな。それより悪かったな仕事を奪っちまって」
リンスプーの仕事とはハズレジマ勤務だ。資源が乏しいハズレジマだが、放置するわけにも行かないので、大きなハズレジマには二人体制で天使が常駐している。
天望の木をのぼった冒険者や商人がハズレジマを経由するということもあるので、彼らをちゃんとした浮遊大陸へ案内するためにも欠かせない仕事なのだ。
その仕事を受け持つことになったのが堕天使なのだ。
一番大陸と大陸を移動する仕事ということもあり、ランプを持つ堕天使が一番適しているとなったからだ。
だが、リンスプーは「気にしなくていいよ」と言った。
「でも、明日からご飯を食べられなくなりますよ」
「大丈夫だよ。リットに責任をとって嫁にもらってもらうから」
リンスプーがふざけて言うと、リットが盛大に酒を噴き出した。
それを全身に浴びたチルカは、「ちょっと! 汚いわよ!」とサラダの葉っぱを使い、必死になって体を拭いた。
「冗談だよ。私達の仕事はなくならないよ。私達の仕事に、新たな分野が出来るだけ。つまり今までどおり。上層天使にとっての大きな問題は、下層天使にとっては大したことじゃないってことさ」
リンスプーは残りの酒を飲み切ると、そろそろ浮遊大陸が近付いて来るので、それを経由して自分の家に帰ると酒場を後にした。
そこからリットの記憶は途切れてしまった。
やることを全て終えて安心した身に、お酒はよく回り過ぎてしまったのだ。
マックスが迎えに来る頃にはすっかり酔い潰れてしまい。気付いたら家のベッドで寝ていた。
まるで浮遊大陸での出来事が夢のように思えたが、サイドテーブルに置かれた大きなランプが夢ではないことを教えていた。