第十三話
「起きろ、リット。だらしのない奴だな……」
アルデは執拗にリットの体を揺さぶるが、煩わしそうな呻き声を一つあげるだけだ。
「こうすればいいのよ」
ミニーはリットの腰に人差し指を添えると、背骨をなぞってゆっくり首まで指を這わせた。
背中から広がるゾクゾクしたものは、臀部から太ももまで痺れさせたので、リットは思わず体をのけぞらせながら立ち上がった。
起きて急に激しい動きをしたせいで、リットは立ちくらみにふらついてしまったが、倒れ込む前にアルデが支えた。
「起きて早々やかましいな。おじさん驚いちゃうよ」
「誰のせいだと思ってんだよ……」
「私のせいね。感じさせちゃったから」
ミニーが妖艶に微笑むと、これは話しても無駄だとリットは諦めた。
しばらく寝ぼけ眼で周囲を見渡して状況を確認すると、ここは昨夜酒を飲んだ場所だと思い出した。
証拠に酒を持ってきたインプまで、酔って地面で寝ていた。
「そうか……まだなにもしてねぇんだな」
「そうよ。せっかくディアナで暮らすまでの面白い話をしてたのに、二人とも寝ちゃうんだもの。もう一度話をしてもいいわよ」
「勘弁してくれ……。そのせいか、夢の中に親父が出てきた」
「あら、私の夢には出てきてくれないなんて……薄情な人ね」
ミニーが不満気に唇を尖らせている間に、リットは自分の力で立ち上がった。
「……水はどこだ?」
今回は二日酔いになる程飲んではいないが、それでも酒を飲んだ翌日というのは口が乾いているものだ。
インプは死んだように眠っており、周囲に魔族の姿は見えない。リットは大声でもう一度水を要望したが、誰も来ることはなかった。
「リット……ここは旅人の連れ合い宿じゃないんだぞ。水を頼んで運んでくると思うか?」
リットよりも長い間ユニコで過ごしていたアルデは、元からここの住人だったかのように慣れ親しんでいた。
ここには基本的に店は存在しない。外からの来客がないからだ。住民同士で暮らしを回しているので、店を構える必要がないのだった。
昨夜リット達が飲んだ酒は、厚意により出されたものだ。それなのにリット達の反応が悪かったので、インプはすっかり不貞腐れて一緒になって酔っ払ってしまったのだ。
そのことをアルデから聞かされたリットは悪いことをしたと思ったが、すぐに金を払ったことを思い出した。
「じゃあ、なんでオレの財布は軽くなってんだよ……」
「ここは浮遊大陸だぞ。身も心も財布も軽くなるってなもんだ」
「さては……酔いつぶして、よそ者からぼったくろうと手を組みやがったな」
「そういえば、二杯目から濃くなってたものね。安っぽい男が使う手よ。それすれば下着を脱ぐと思ってるんだから。いい? リット。良い男っていうのは、下着を脱がせる権利をもらった男のことを言うのよ」
「よく乾いた口で戯言が続くな」
「私は別のもので潤してるから。はい、リットもアーン」
ミニーはスプーンで何かをすくと、リットの口ねじ込んだ。
甘く芳醇な蜜の香り。その香りの奥には、嗅いだことのない花の匂いがした。
「待てよ……これハチミツじゃねぇのか?」
「そうよ、お酒のあとはハチミツよ」
ミニーはリットの唇からスプーンを抜き取ると、自分ももう一口とハチミツを食べた。
「ハチミツで中毒になるって話は聞いてたか?」
「ええ」
「ここのハチミツが原因だって話は聞いてたか?」
「ええ」
「それがそのハチミツだって思わなかったのか?」
「……ええ。でも、まだわからないわよ。このハチミツがここで採れたものか」
ミニーが珍しく焦りの表情を見せていると、以前リットが世話になった悪魔が手を振ってやってきた。
「おお! リット! 戻ったか!! リットがキラービーの変異を教えてくれたおかげで、ユニコで甘いものが食べられるぞ!」
上機嫌の悪魔とは違い、リットとミニーの顔色はみるみるうちに青くなっていった。
「チルカの話だと、魔力の形状変化が原因だっていうけどな……」
花の毒とキラービーの毒が合わさることにより、生まれる偶然の変化だということだが、あくまでチルカが魔女の話を勝手に理解した気になって解釈したものだ。
実際、どの段階で魔力の形状変化が起こるのかはわかっていない。魔力あたりが起こる原因も、ハチミツそのものなのか、毒の成分なのか、酒と合わさることによるのか。下手をすれば、魔力の器が小さい人間のリットも魔力あたりが起こる可能性がある。
「ここの花は堕天使の隠れ家にあった花とは別物よね?」
「ここは寄生植物だから、そのはずだ」
リットとミニーはお互い見つめ合ったままで、しばらくそのまま過ごした。何か変化があればすぐにわかるようにだ。
そして、なにも起こらないとわかると、二人そろってため息を落としたのだった。
「見つめあっちゃって……ラブラブだな」
悪魔が茶化していうと、ミニーがハチミツの入った瓶を乱暴に地面に置いた。
「こんなもの不用意に置いておくんじゃないわよ!」
「今はどこにでも置いてあるぞ。ブームが来てるからな。みんなハチミツを食べてる」
悪魔の言うとおり、ハチミツが採れるとわかってから、ユニコではハチミツが大ブームになっていた。というのも、来客がないので目新しいものはほとんど手に入らないからだ
たまにある月が暗い夜に、天使に見つからないよう抜け出して手に入れるくらいだ。リットが牢から助け出されたのも、そんな月が明かりを弱めた日だった。
「とにかく……このハチミツは貰ってくぞ」
リットはまずは調べてみないことにはわからないと、ハチミツを持って研究室へと向かった。
ガルベラの研究室では、以前と同じように緑のオイルが抽出されているところだった。
「あら……綺麗」
リットについてきたミニーは光る液体を、物欲しそうな視線で見ていた。
「そう良いもんでもねぇよ……見ろよ」
リットは雷の力により溶かされているエメラルドを指した。
しかし、ミニーの反応は「あら……綺麗」と全く同じものだった。
「あのなぁ……強制的に魔力の形状変化を起こさせるほどの力だぞ。綺麗なもんかよ」
「危険なものほど美しく光るものよ。それに、私はリットよりも魔力と親しい存在よ。無駄に恐れることはないわ。雷なんて浮遊大陸にいた頃はしょっちゅう感じてたわ」
「雲の上だろ? 雷なんか落ちねぇだろが」
「揺れるの、地震と同じ感じね。それに、雷が起きると雲の上でも発光現象が起きるのよ」
「発光現象?」
「そう。空に向かって放電されるのもあるのよ。青くて綺麗よ」
「待て待て。雲が光るのか? それとも、何か引っ張られて、その結ばれた部分が光るのか?」
「ちょっとちょっと!」ミニーは顔を近づけて来るリットから思わず距離を取った。子供のように目を輝かせるリットが、とてもヴィクターに似ていたからだ。「そんな矢継ぎ早に質問されてもわからないわよ。……考えたことないもの。当たり前にある現象よ。地上で雨が降るみたいにね」
ミニーから答えがないものの、リットは「なるほどな……」勝手に納得していた。「雷ってのは、そのものが変わりやすい性質を持ってるのかも知れねぇな。つまり形状変化の力をそのまま利用して宝石を液体にする。いや……魔宝石にしないと、魔力の形状は変化は起きねぇはずだ」
リットは宝石をオイルにする装置をうまく使えば、ハチミツから魔力を抜けるかもしれないと考えた。海水から塩を精製するように、植物からオイルを抽出するように、形を変えれば何か一つの成分を抜き取ることができる。
「それで? 考えはまとまった?」
ミニーは笑いを堪えながら言ったのだが、真剣に考え事をしているリットはそのことに気が付かなかった。
「いやまだだ。魔力を放出させる? だけど、放出させた魔力の行き先はどうなる……下手すりゃウィッチーズカーズみたいな魔力の暴走が起こるかも知れねぇ。――って、なに笑ってんだよ」
「思い出に浸ってるだけよ。あの人も子供が生まれるまでは、子供みたいな瞳をしてたのよ」
「なに言ってる……ガキが生まれてからも、子供みてぇな男だろ。そういや……親父はなんで浮遊大陸に来てたんだ?」
「そうねぇ……顔を洗って目ヤニを取りなさい。そして、鏡を見ればその理由がわかるわよ」
ミニーはリットの鼻先をつつくと、笑顔を残して研究室を出ていった。
意味がわからないリットだったが、結局水を飲んでいないことを思い出すと、自分も研究所を後にした。
「行き詰まりか?」
アルデは酒を飲みながら、浮かない顔のリットに向かって手を振った。
「行き詰まりどころか、どん詰まりだ。なんで天使ってのは、こんなややこしいとこに生きてんだよ……」
「ここは魔族の地だぞ」
「同じ浮遊大陸だろ。オレから見たら違いはねぇよ」
「良い言葉だ。天使が皆リットのようだったら、こんな面倒臭いことにはなっていなかったんだがな……」
アルデのため息はいつものように酔っ払いのため息ではなく、苦悩と人生を共にする中年のため息だった。
「だから人間は地上で生きてんだよ。つーかよ、そっちは堕天使になる前に色々報告を受けてたんだろう? なんか使えそうな話はねぇのか? 少しは魔力も抜けてシャッキリしただろ」
「正直……魔力あたりだったか? それになってた方がマシだ。おじさん……実の娘に風切羽を切られたんだぞ。シラフに戻ったら死んじゃうぞ。それに……シラフで話すには、あまりに秘密が多すぎる。本当に娘と結婚するか、一生幽閉しておかないと話せないことばかりだ。見たところ神を深く信仰してるように思えんしな」
「そんなことねぇよ。今すぐ答えを出してくれるなら神は信じる。だけど、不思議なことに助けてほしい時に助けてもらった覚えはねぇ」
「まぁ、そこだな。人間というか、魔女は浮遊大陸を魔力と結びつけたがる。それも間違っていない。だが、浮遊大陸は神の国だぞ。なぜ神の国かわかるか?」
「さぁな……酔っ払いの冗談が本気にされたとかか?」
「はじまりの地は。誰の力もなく浮かんでいたのだ。そうだな……魔女の言葉を借りるとなると、魔力の始まりはそこからだ。はじまりの地の下にはなにがあるか知っているか?」
「下って……『メグリメグルの古代遺跡』か?」
「そうだ。精霊が生まれた地だろう? その上にある風に流されない雲。そこにあるはじまりの地は、神が生まれた場所だ」
「なるほどな……。四精霊の力じゃ足りなくなった魔女が、神の力を求めて空にどんどんきたってわけか。大地ごと浮かび上がらせて」
リットはそのうちの一人であるガルベラの研究所を睨んだ。
この世界には『神の産物』と呼ばれる。魔力だけでは説明することの出来ないアイテムがいくつもある。
ガルベラの師匠であるディアドレが生み出そうとした五つ目の魔力元素の『エーテル』というのも、それに近しいを持つものだ。
まさに神頼みということだ。思えば、ディアドレが書いていた天魔録という、浮遊大陸での出来事が書かれた自伝は、最後の手段として空に来たせいで未完のまま息絶えたのだ。
ディアドレは妖魔録、精魔録、悪魔録と三つの自伝を完結させている。妖精に頼り、精霊に頼り、悪魔に頼り、最後に天使を頼りに来たのだ。そこから神の力を借りようとしていたのかもしれない。
少なくとも、ガルベラは地上ではできない研究をここで成功させている。
リットはやはり雷の力と、ガルベラが組み立てたガラス管にヒントがあると思っていた。
「仕方ねぇ……初心に返るか」
「どうやら道を見つけたようだな」
「おかげさまでな。やることは……ひたすら聞き込みだ。長命の悪魔なら色々知ってるかもしれねぇからな」
「頼りなくて、おじさん泣いちゃいそうだぞ……」
「泣きすぎて干からびる前に来いよ」
「おじさん、呼ばれたらいつでも行くぞ」
「度胸が決まったら話に来いって意味だ。本当の意味で堕天使になる覚悟出来たらな」
浮遊大陸の秘密を話すというのは、生半可ではない覚悟が必要になる。
今もアルデは堕天使と呼ばれる身だが、風切羽を切られ、翼を黒く染められただけだ。
リットには神の裁きがあるのかどうかもわからないが、神に近い上層天使だ。なにも起こらないとも思っていない。
だが、無理強いするつもりもなかった。
「たかが酒のためだろう」
「オレはな。そっちは違う。ついでに解決してやるってだけだ」
リットは後ろ手に手を振ると、魔族に話を聞くためアルデから離れていった。